福島原発事故 東電幹部強制起訴刑事訴訟が結審~9月19日判決へ
原子力政策を左右する重要訴訟に関心を!

 福島原発事故に関し、勝俣恒久元会長、武藤栄、武黒一郎両元副社長の東京電力旧経営陣3人がいったんは不起訴となりながら、検察審査会の2度にわたる「起訴相当」議決を受けて強制的に起訴されたことを受け、行われてきた福島原発事故強制起訴刑事訴訟は、3月12日の被告側最終弁論をもって結審となった。検察官役の指定弁護士による冒頭陳述が行われた2017年6月30日の第1回公判から1年9ヶ月間、急ピッチで進んできた公判は37回に及んだ。数の面でも量の面でも膨大な証拠物件からは、隠されていた驚くべき事実が次々と明らかにされた。何が争点なのか。東電の罪はどこにあるのか。そして立証は十分に尽くされたのか。2012年11月、福島県民だけを対象とした第1次告訴告発から福島原発告訴団に関わってきた筆者が、判決公判を前にその重要な意義を改めて解説する。

 なお、検察審査会と強制起訴・指定弁護士制度、強制起訴までの手続等については紙幅の関係もありここでは繰り返さないが、この間の経過は本誌2014年9月号(最初の「起訴相当」議決の直後)、2015年3月号(検察による2度目の不起訴決定直後)、2015年9月号(強制起訴決定直後)、2016年4月号(指定弁護士による起訴手続の直後)、そして2017年8月号(第1回公判の直後)とすでに5度も取り上げているので、それらの記事を参照されたい。

 ●「原発事故がなければ」~双葉病院元看護部長の証言

 福島第1原発は双葉町と大熊町にまたがって立地する。半径10km圏内は事故直後に避難指示が出されたが、同じ双葉町にある双葉病院も避難指示区域となった。病院職員らは懸命の避難活動に当たるものの、患者の避難は事故4日後の3月16日までかかる。この間、混乱でスタッフは十分集まらず、救助を求めていた自衛隊さえ、3月15~16日の急激な空間放射線量の上昇が原因で現地入りせず、最終的に患者ら44名が死亡した。原発事故がなければ避難指示もなく、これらの患者が死亡することもなかったことから、この死亡と原発事故の関係は明白として、3被告が業務上過失致死傷罪で強制起訴されたことで、この裁判は始まった。

 2018年9月19日の第26回公判では、実際に救助活動に当たった双葉病院の当時の副看護部長・鴨川一恵さんが証人として出廷。「地震と津波だけなら患者を助けられた。助けられなかったのは原発事故のせい」と証言した。あちこちで道路損壊や渋滞に見舞われ、避難が遅々として進まないまま、バスの車内で衰弱し死亡した患者もいた。「バスの扉を開けた瞬間に異臭がして衝撃を受けた。座ったまま亡くなっている人もいた」(鴨川さんの証言から)。バスの中で3人が亡くなっていたが「今、息を引き取ったという顔ではなかった」。体育館に運ばれたあとも11人が亡くなった。3被告の起訴事実となった双葉病院での患者死亡について、直接の関係者から原発事故との関係を明白にする証言が得られたこの日の公判は、一連の裁判のハイライトといえる。

 ●津波対策、意識的に潰した東電

 事故9年前の2002年7月、政府の地震調査研究推進本部(地震本部、推本)は「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」を公表。大きな争点の1つである「長期評価」と呼ばれるものだ。次の地震の規模をマグニチュード8.2、30年以内の発生確率を20%とした。これを受けた経産省原子力安全・保安院(保安院)は福島原発事故に襲来が予想される津波の試算予測を依頼するが、東電は長期評価とは別方法に基づいて試算をしたいと回答。保安院の指導に従わなかった。

 2006年9月には、日本国内の全原発について、内閣府原子力安全委員会が策定した新耐震指針に準じた耐震バックチェックを行うよう指示した。バックチェックとは、原発を持つ各電力会社が行った安全対策を報告させ、保安院がその結果に基づいて耐震審査を行うものだ。

 2007年7月、東電のその後の原発安全対策に重要な影響を与える出来事が起きる。新潟県中越沖地震だ。東電柏崎刈羽原発が立地する柏崎市と刈羽村で最大震度6強を記録したこの地震で原子炉は緊急停止、東電は2007年度決算で赤字に転落した。中越沖地震からの復旧に莫大な費用を要することとなった東電は、福島原発の津波対策を先送り。再稼働の見込みがなくなった柏崎刈羽に加え、福島原発まで津波対策による停止が長期化すれば経営悪化の可能性があったためである。

 東電が経営悪化を避けるため、福島第1原発を稼働させたまま、止めずに安全対策を行う道を探っていたことに関しては重要な証言がある。2018年9月5日の第24回公判で、東電幹部・山下和彦氏の供述調書が読み上げられた。山下氏は、2007年10月に新潟県中越沖地震対策センター所長に就任。柏崎刈羽原発や、福島第一、第二原発の耐震バックチェック、耐震補強などの対策をとりまとめてきた。2010年6月からは吉田昌郎氏の後任として原子力設備管理部長に就任。事故後は、福島第一対策担当部長、フェロー(技術系最高幹部として社長を補佐する役)として事故の後始末に従事した人物だ。その山下氏が、いったんは全社的に進めていた津波対策を先送りした理由について、対策に数百億円かかるうえ、対策に着手しようとすれば福島第一原発を何年も停止することを求められる可能性があり、停止による経済的な損失が莫大になるからだと説明していた事実が明らかになったのである。

 2008年1月、東電が子会社・東電設計に津波想定を依頼していたことを裏付ける証拠書類の存在も明らかになった。2008年2月に開催された津波対策対応打ち合わせ(最高権力者である勝俣会長の“ご臨席”を仰ぐことから東電内部で「御前会議」と俗称された)では、津波想定について7.7m以上との報告が行われ、長期評価を取り入れた津波対策(福島第1原発の4m盤の上)を行うとの方針がいったんは了承された。

 その後、津波想定が15.7mとされたことから、4m盤上の津波対策では不足するとして、10m盤上に防潮堤を設置する等の新たな津波対策が必要となった。2008年6月に開催された福島地点津波打合せでは、これらの津波対策の説明を受けた武藤被告が4項目の検討課題について指示。関係者は長期評価に基づいた津波対策を実施するものと受け止めた。

 これとほぼ時を同じくして、日本原子力発電の東海第2原発では、長期評価を取り入れた津波対策に着手。東電から日本原子力発電に出向していた安保秀範氏が中心となって対策案をまとめた。東海第2原発は2010年4月に津波対策工事を終えている。

 2008年7月21日の「御前会議」では、東電で一連の津波対策に要する費用が報告された。柏崎刈羽に3,264億円、福島第1に1,941億円というのがその内容だった。諸費用込み5,237億円――それは、日本有数の巨大独占企業・東電であっても「右から左に出す」というわけには到底行かない巨額だった。しかもこの金額に津波対策は含まれていなかった。ましてや全原発停止でよりコストの高い他の電源を動かさなければならなくなることによる追加コストは計算もされていないのだ。

 2008年7月31日、福島第1原発の運命を暗転させる2度目の福島地点津波打合せが開催。武藤被告は「研究を実施しよう。土木学会に調査を依頼する」と突如発言する。この決定的に重要な発言と方針変更、社内で真摯に津波対策の立案に当たってきた幹部社員にとって裏切りと言うべき武藤被告の言動は、福島原発告訴団内部で密かに「武藤のちゃぶ台返し」と形容された。そのように呼ばれてもおかしくないほど、東電社内でそれまで積み上げられてきた津波対策の「全面的転覆」だった。

 土木学会は、電力会社やゼネコンなどで構成される業界団体である。学会という名称から何かアカデミックなものを連想する読者もいると思うが、単なる業界団体、さらに言えば「土木利権団体」に過ぎない。巨大施設・原発で飯を食っている会員企業の中に、巨大発注者である東電に異を唱えられるところがあるとは思えない。そのことを知りながら、そこでの調査続行を決めた武藤被告にとって「自分のホームグラウンドなら自分たちに有利な結論――巨額の費用が必要となる長期評価に基づいた津波対策は不要との結論――を出してくれるに違いない」との思いがあったであろうことは想像に難くない。

 武藤被告はあろう事か、この際、15.7mの津波を想定した10m盤上の津波対策のみならず、当初計画だった7.7mの津波想定に基づく4m盤上の津波対策まで中止してしまった。この間、津波対策のとりまとめに当たってきた東電土木調査グループの高尾誠氏が「予想していなかった結論で力が抜けた。(会合の)残りの数分は覚えていない」と証言するほどの出来事だった。

 高尾氏と同じ土木調査グループの酒井俊朗(としあき)氏が、日本原電の安保氏に長期評価が東電で不採用となったことを伝えるメールも証拠として残されている。酒井氏の供述調書には、安保氏に対し「柏崎も止まっているのにこれで福島も止まったら経営的にどうなのかって話でね」と語ったという事実が記載されている。一連の津波対策費の巨額さにたじろいだ武藤被告が、社内で立案されていた津波対策をひっくり返した、とのこの間の経過を裏付ける証拠や証言だ。

 その後の会議では、東電以外の各社の津波対策についても報告されている。バックチェックに基づく対策を東海第2ではすでに実施し、女川原発(東北電力)は重要施設が高台にあるため対策自体が不要だった。すでにこの時点で、対策が必要でありながら検討中のまま着手もされていないのは東電だけという状態だったのだ。東電は、バックチェックに基づく最終報告の提出を2012年11月まで先送り。7.7m想定に基づく津波対策すら行われまま、東日本大震災を迎えてしまったのだ。

 長期評価に基づいて安全対策を実施した東海第2原発では、津波がかさ上げした防潮堤を越えることはなかった。一方、福島第1原発に襲来した津波の高さは、東電設計の想定通りの15m。改めて日本の現場を支える土木技術者の仕事の緻密さや質の高さが浮き彫りになった。

 「長期評価に従って対策を進めておけば、18000有余の命はかなり救われただけでなく原発事故も起きなかったと私は思います」。2018年5月9日の第11回公判で、時折声を詰まらせながら、涙ながらにこう証言したのは島崎邦彦・東京大学名誉教授(元原子力規制委員長代理)だ。長期評価は阪神・淡路大震災をきっかけに始まった。裁判で争点となった三陸沖での地震の長期評価についても、議論はしたが紛糾はしておらず、反対意見もなかった旨の証言(第10回公判における気象庁技官・前田憲二氏)も得られた。前田氏は、気象庁から文部科学省に出向、推本事務局で実際に長期評価のとりまとめに当たった人物だ。

 ●立証は尽くされた

 公判では、様々な角度からいろいろな資料が証拠提出され多くの証人が証言した。公判の流れを大きく分けるなら、前半は長期評価の信頼性、後半は東電内部における津波対策の検討とそれがひっくり返されていった状況の解明が中心になったといえよう。

 膨大な証言、証拠から、事実関係を時系列順にまとめると経過が見えてくる。(1)推本が長期評価を公表(2)保安院が電力各社にバックチェックを指示したが東電は従わず(3)新潟県中越沖地震発生(4)東電が東電設計に津波想定を依頼(5)津波想定が15.7mと報告、東電で対策の検討が開始(6)対策案がほぼまとまり最終的な経営判断の段階へ(7)柏崎刈羽原発を含めた東電管内原発の対策費総額が5,237億円と判明(8)対策費の巨額さを見た武藤被告が「ちゃぶ台返し」――これがこの間の経過である。

 東電の現場社員は、長期評価を「国の機関が専門家を交えて出した結論」として重視しており、評価が示された以上対策は不可避と捉えていた。一方、会社を維持し、倒産させないことが至上命題であり最大の任務でもある経営陣が、あまりに高すぎる対策費を見て「いつ来るかもわからない津波の対策を、会社をつぶしてまで今やることはない」と判断したことに対しては、同じ立場だったら自分でも同じようにするだろう、と思う人がいても不思議ではない。

 しかし、問題となった5,000億円程度の資金調達は、事故前の東電の信用をもってすればいくらでも可能だったし、他の会社が津波対策を実際に講じていたという事実もある。会議でその報告を受けた3被告が、他社の状況を横目で見ながら自分たちも対策を講じるという判断が当然であって、またそれは十分可能だった。保安院からもバックチェックを促されていながら、それに基づく対策をしないまま震災を迎えた東電は、少なくともこの手の巨大施設を運営する事業者に対して当然求められる善良な管理者の注意義務を到底果たしておらず、その不作為だけでも罪を問われるのは当然だ。

 検察官役の指定弁護士による立証は十分尽くされたと筆者は考えている。この裁判は日本が法治主義に基づいて先進国の立場を今後も維持できるか、「放置主義」に堕し途上国へと後退するかを占う重要な試金石になる。必要な賠償も被曝・汚染対策もおざなりのまま、県民不在の「復興」のかけ声だけが、勇ましくも虚しく響く事故8年の福島。現実との「妥協、折り合い」をつけながら日々の生活を余儀なくされている県民がその悲しみに終止符を打ち、真に県民本位の復興を成し遂げられるようにするためにも、東電が加害者である事実が公的な場で認定されることがどうしても必要だ。

 3被告に対しては、業務上過失致死傷罪の法定上限である禁錮5年が指定弁護士によって求刑された。日本の原子力政策にとっても重大な岐路となる注目の判決は9月19日、東京地裁第104号法廷で言い渡される。

(2019年8月25日 「地域と労働運動」第228号掲載)

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