第24話 ホップ、ステップ!


 夏休み入りを3日後に控えた暑い夏の日の放課後。僕は、廊下を急ぎ足で歩いていた。結局、勇気も度胸もない僕は、生徒会室に行くのが怖く、まだ決心がつかないでいた。何の話なのか、気になった僕がメールで用件を尋ねても、「会って話すよ」と言われた。公認になった僕には、いつも何でもざっくばらんに話してくれる畑山さんのこういう態度はかなり珍しい。何か、怒らせるようなことをしたのだろうか……。僕は、一抹の不安を覚えていた。

 だが、そんな僕の思惑を見透かしたように、畑山さんから「いつまでも来ないんだったら、あたしが決めちゃうよ。今日の4時半。必ず来ること!」という催促のメールが来てしまった。いつもながら強引だと思うが、それも自分から行くことのできなかった僕が悪いのだから文句は言えない。

 ちらりと時計を見る。ちょうど約束の4時半を回ったところだ。生徒会室までは、あと少し。わずか数分とはいえ遅刻だから、畑山さん、怒るかなぁ……。そんなことを思いながら、でも廊下を走って先生や生活委員に怒られるのも嫌なので、早足で歩く。

 そして、4時32分。ゆっくりと、生徒会室のドアを開ける。恐る恐る中をのぞき込むと、目が合ったさつき先輩が「あ、来た来た。どうぞ入って」と僕を手招きする。生徒会副会長を務めるこの先輩女子のことを、僕は以前、木村先輩と名字で呼んでいたが、先日、この部屋に来たとき、「私のことは、これからさつきと呼んでいいから。他の男子はダメだけど、安達くんは志織ちゃんの旦那さまだから、特別だよ」と言われた。それ以来、お言葉に甘えて、僕はさつき先輩と呼ぶことにしている。畑山さんの旦那さん呼ばわりは、勘弁してほしいが……。

 「こらっ、安達! 2分遅刻!」

 入室するなり、いきなり畑山さんの声が部屋中に響く。今日は生徒会の活動日ではないらしく、2人の他に誰もいないのがせめてもの救いだった。会長の浅田先輩すら来ていない。

 「わ、ご、ごめんなさい」

 中央の会議机から立ち上がった畑山さんに、まず遅刻をわびる。

 「安達、あれほど遅れないようにって、言ったはずだけど? 遅れるなら遅れるで、連絡くらいしてくれたっていいじゃない? これじゃ、何のためにあんたにケータイ教えてるか、わかんないでしょ!」

 「は、はい、すみません……」

 腕組みをして、ふて腐れたようにぷいっと横を向く畑山さんに、さっきよりも小さな声で僕がまた謝る。その様子を見ていたさつき先輩が、笑いながら言った。

 「志織ちゃん、すっかり旦那さんを尻に敷いてるわね。私、彼氏募集中だから、2人を見てるとほほえましくて、羨ましいな」

 「ちょっと、さつき先輩! その旦那さんって言い方、やめてください!」

 畑山さんが抗議している。公認になった僕たち2人を、今や学園中がイジり倒して遊んでいた。それにしても、生徒会副会長のさつき先輩が彼氏募集中とは驚く。こんなにすてきで、気品のある先輩なのに。

 「じゃあ安達、ちょっと、奥の部屋までいい?」

 畑山さんが、応接室に入るよう僕を促す。

 僕は一瞬、たじろいだ。この部屋に呼ばれたことは、過去に二度ある。1回目は、自分がなくしたと思い込んでいたプリントが、実は誰かによって捨てられていた事実を、そして2回目は、その犯人が加藤だと特定された事実を告げられたときだ。どちらも、僕に対するいじめと関係していた。過去2回、この部屋に呼ばれたときはいい思い出がない。また、嫌な話をされるんだろうか……。

 「あ、今日はこの前の2回とは全然別の話だよ。安達にとって、これから先につながる、いい話だから安心して」

 たじろいでいる僕の気持ちを察したのか、畑山さんが僕を安心させようとする。いい話と言われても、僕にはそれがどんなことなのか想像もつかなかった。畑山さんは、そんな僕の気持ちなどお構いなしに、さっさと応接室に向かう。過去2回と同じように、応接室のドアに「会議中」の札をかけると、僕を招き入れる。そして、これも過去2回と同じように、僕を窓と反対側のソファに座らせた畑山さんは、先輩に向かってドア越しに

 「さつき先輩も入りますか?」

と聞いた。

 「私も一緒に入りたいけど、今、この部屋に私ひとりなんだよね。誰かいないとまずいから、そっちは志織ちゃんひとりで進めててくれる?」

 「はい、わかりました!」

 先輩と畑山さんがそんな会話をした後、畑山さんが、バタンとドアを閉める。過去2回は他の人をシャットアウトし、自分ひとりで話を進めてきた畑山さんが、今回は先輩を入れようとしている。いったい、何なんだろう……。畑山さんが、2人分のお茶を入れ、テーブルの上に置いたそのとき、ガチャンと音がしてドアが開く。さつき先輩だった。

 「志織ちゃん。今、浅田くんが来たから、やっぱり一緒に入っていいかな? 私は話を聞くだけのつもりだけど」

 「もちろん、いいですよ。じゃあ先輩の分のお茶も入れますね」

 一度、ソファに座りかけた畑山さんが、再び立ち上がって先輩の分のお茶を入れる。テーブルの上に3つのお茶が並ぶ。僕とちょうど反対、窓側のソファに、先輩と畑山さんが、並んで座る。

 気品のある美人タイプのさつき先輩を斜め前に見る位置に座らせられたことで、僕の胸が高鳴り始める。正面には「学園屈指の美少女」(学園新聞)の畑山さん。僕の友人の非モテ男子が今の僕のこの状況を見たら、間違いなく「リア充、爆発しろ!」と叫ぶだろう。

 「さて、と。今日、安達にここに来てもらったのは、他でもないんだけど」

 お茶をひと口、軽く飲むと、畑山さんが話を切り出す。

 「あたしたちの学級委員も、あと1ヶ月ちょっとで終わりだね。どう、ここまで初めての学級委員をやってみて、長かった? 短かった?」

 僕は、一瞬たじろぎ、どう返答していいか戸惑いを覚えた。もしここで「長かった」と言えば、学級委員をいまだにいやがっているように受け取られ、せっかく畑山さんに一人前とは認められないまでも、ある程度信頼してもらえたこれまでの努力が、無になりそうな気がする。だからといって「短かった」などと答えようものなら、「じゃあ後期も学級委員、続けなよ」などと恐ろしいことを言われかねない。

 「いえ、特に、長いとか短いとかは……感じなかったです。今まで通り、だと思います」

 しばらく考え、結局僕は、無難な答えを返していた。

 「そっか。ま、学級委員と言っても、毎日仕事があるわけでもないし、意外と、そんなもんかもね。学級委員をしてみて、安達はよかったと思ってる?」

 これも答えにくい質問だ。もしここで「よかった」と言えば、畑山さんは「じゃあまたお願いね」などと言い出しかねない。だからといって「よくなかった」などともし言えば……たぶん、僕の命の保証はないような気がする。ここはよかったと答えるしかないんだろうな……。

 「はい、よかったと思います。いろんな経験ができたし、その……学級委員をやらなかったら会えなかった、いろんな人と出会えましたから。それに、やっぱり、クラスの代表の学級委員をしたことで、その、なんと言うか……僕、この学園にいてもいいんだって、少しは思えるようになりました」

 これも僕は、無難に答えた。

 「そう。よかった。最後に、一番答えにくいこと聞くけど、一緒に学級委員をしたのがあたしだったことを、どう思ってる?」

 あまりにストレートな質問だ。畑山さんって、なんでこんなに遠慮がないんだろう。でも、畑山さんは「一番答えにくい」なんて言ってるけど、僕にとっては前の2つの質問ほど答えにくいとは思わない。

 「はい、よかったです。畑山さん以外の人とだったら、ここまでこれたかわかりませんでした。いじめたり、からかったりするだけで、僕を助けてもくれない男子と違って、畑山さんには、どんなに厳しくされても、本当に困ったときは、助けてもらえたから……」

 僕は、この質問には自信を持って答えた。

 「そう? あたしも、今は安達と一緒でよかったと思ってる」

 畑山さんが答える。その答えが僕には少し意外であると同時に、嬉しくもあった。

 「どうしてですか?」

 「あたし、小学生時代から今まで、いろんなタイプの男子と一緒に学級委員とか、児童会、生徒会役員をしてきたけど、はっきり言ってロクでもない奴も結構多かったよ。お調子者で仕事が全然できなかったり、口先だけで仕事をやるやると言って全然やる気がなかったり。そうかと思えば、熱すぎて空回りしまくって、最後の面倒だけあたしが見させられたり。『お前、女のくせに出しゃばるな』と、裏方の仕事しかさせてくれない俺様で差別しまくりな男子もいたんだよね。そういう不真面目な奴、チャラい奴なんかに比べたら、安達なんて全然いい方だよ」

 「そうなんですか?」

 「うん。確かに初めての経験で安達は未熟だったけど、その分、素直さ、一生懸命さで十分、カバーできたと思う。それに、あたしが一番驚いたのはね……」

 そう言って、畑山さんは、わざと、じらすようにお茶を少し口にする。初めて喫茶店に誘われたあの日も、畑山さんは紅茶を飲みながら、僕をじらすような行動を取った。畑山さんの行動を見ていると、嫌でもあのときのことを思い出す。始めから終わりまで、ずっとどきどきしっぱなしだったあの初デートからまだ2ヶ月半しか経っていないが、もうずいぶん昔のことのような気がした。

 それはそうと、畑山さんはいったい何を言うつもりなんだろうか……。思わず僕は身構えた。

 「覚えてる? みんなに配るプリントをコピーした後、安達が『縦書きのプリントは、左上じゃなくて、右上をホチキス止めした方がいいですよね』って、あたしに聞いた日のこと」

 僕は、その日の出来事に覚えがあった。あの頃はとにかく必死だったから、畑山さんに教えてもらいながらこなしていった、ひとつひとつの仕事の光景は今も脳裏に焼き付いている。僕は、はいと答えた。

 「もうひとつはつい先日だけど、学級費調査のときのこと」

 これも僕ははっきりと覚えている。無理な要求をしてくる坂田くんと散々やり合った挙げ句、畑山さんには初めて自分の意見を貫き通せたことを褒めてもらえたが、一方で、人に自分の意見を理解してほしかったら、結論だけではダメ、理由をちゃんと説明しなければわかってもらえないよ、と怒られた。嬉しくもあり、ほろ苦くもあったあの日の出来事をやはり忘れられない。僕は、覚えています、と答える。

 「あのとき、プリントに書かれている内容が納得できない、これでは間違える人がいて当然、直してほしいと安達が言ってくれたことで、結局、誰が読んでもわかるような中身に、プリントの書き方が直されたんだよね」

 「はい。あのときは、生意気な言い方をして、すみませんでした」

 「謝ることないよ」

 畑山さんは、笑顔を見せながら続ける。

 「先輩方から聞いたんだけど、あの書き方は、15年前に、森本が共学になって、今の生徒会になったときに作られたプリントのまま変わっていなかったらしいの。あの中身を見て、おかしいと思う人は昔もいたみたいだけど、結局、みんなが『まあいいや』とか『どうせ自分はもうすぐ学級委員も終わるし、もうあの仕事をすることもないから』って感じで誰も直そうと言い出さなかったんだよ。それが、安達がああいうふうに言ってくれて、わかりやすい書き方に直ったから、これから学級委員をする人は、安達と同じことに悩まなくてすむ。もちろん坂田の次に書記をする人も。これ全部、実は安達のおかげなんだよ」

 「ぼ、僕は、そんなにたいしたことはしてません」

 僕は全力で否定していた。これは僕の本心だった。畑山さんが言うほどたいしたことのように思えなかった。だが、畑山さんの言い分は違った。

 「15年間、誰ひとり、やろうとしなかったこと、できなかったことが、安達のおかげで実現した。生徒会にとっても、これから学級委員をすることになるみんなにとっても悩みの原因になることを、安達のおかげでなくすことができた。これはとてもすごいことなんだよ。だから安達、もっと自信を持って」

 僕は、どう返答していいかわからず黙っていた。目の前の畑山さんは、さらに続ける。

 「あたしは、そんな安達のいいところを、この3ヶ月半でいっぱい見つけたと思ってる。優しいところ、素直なところ、一生懸命なところ。でもその中でも一番、いいと思ったのは、縦書きのプリントなら右を綴じるんですよねってあたしに聞いたように、細かいことにもちゃんと気づいてくれるところ。もうひとつ、学級費調査の時にいいと思ったのは、どんな小さなことでも、疑問を疑問のままにしておかないで、ちゃんと解決しようとするところかな」

 「そ、それって……いいところなんですか?」

 僕は思わず聞き返していた。

 「うん、いいところ。安達の長所だと思うよ」

 畑山さんは、そう言って、また、ひと口お茶を飲む。「安達も飲めばいいのに」と言われて、僕も、緊張のあまり手をつけられなかったお茶を初めて口にした。

 「それで、安達も夏休みを除けば、あと1ヶ月で学級委員、終わりでしょ。学級委員が終わったら、安達はただのひとりの生徒に戻っちゃう。それはとてももったいないことなんじゃないかって、あたし最近思うようになったの。細かいことに気づいてくれる、疑問を疑問のままにしておかないで、解決に結びつけようと努力してくれる――その、安達のいいところが、このまま埋もれちゃうなんて、森本にとって、もったいないと思うんだよね。そんなすばらしい長所があるんだから、安達には、学級委員を終わった後、10月から先も、もっとこう、なんて言うのかな、学園全体を見渡せるような大きなステージで、その長所を活かしてほしいと思ってるんだけど」

 畑山さんの言葉を聞きながら、僕は胸騒ぎがし始めた。この話の流れはかなりまずい気がする……僕は思わず身構える。だが、僕の短い人生でこんなことは初めてだから、どうしたらいいかわからなかった。

 そして――戸惑いを覚える暇さえ僕に与えず、畑山さんは、驚くべき言葉を口にした。

 「そういうわけで、学級委員を終わった後の10月から、安達に、生徒会の、書記をお願いしたいんだけど、いいかな?」

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 「青天の霹靂(へきれき)」ということわざは、おそらく、こんな時のためにあるんだろう。

 畑山さんの言葉を聞いた瞬間、後頭部を雷で打たれたように、僕の全身が固まってしまった。全身が炎のように熱くなり、心臓の鼓動が早まる。

 「あ、あの、畑山さん、今、……なんて言ったんですか?」

 思わず僕は聞き返していた。

 「だから、10月から安達に生徒会書記をお願いしたいって、言ったの」

 「あの、な、なんで僕なんですか?」

 「さっきから言ってんじゃない? 細かいことに気づいてくれる、疑問を疑問のままにしておかないで、解決に結びつけようとしてくれる、その安達の長所を生徒会で活かしてほしいの」

 「でも、そんなのでホントにいいんですか? 僕、全然、生徒会になんて、向いてないと思うんですけど……」

 「あのね、安達くん」

 自分の正直な気持ちを打ち明けた僕に、今まで、じっと話を聞いていた先輩が話しかけてくる。

 「私からもお願い。安達くんのその能力が、今、生徒会にほしいの。受けてくれないかな?」

 「どういうことですか?」

 状況が理解できず、戸惑う僕。先輩は、そんな僕の質問には直接答えず、逆に僕に質問で返す。

 「安達くん、生徒会役員に、どんなイメージを持ってる? というより、安達くんはどんなタイプの人が生徒会役員に向いてると思ってる?」

 「それは……賑やかで、おしゃべりや演説がうまくて、みんなを惹(ひ)きつける魅力があって、学校行事とかを盛り上げるのがうまい人……、だと思います」

 「うん、だいたいそれが全校生徒が持っている役員のイメージだと思うの。で、立候補してくるのもだいたい、自薦、他薦にかかわらずそういうタイプの人が多いんだけど、今、うちの生徒会は、逆にそういうタイプの人ばっかりなのが問題なの。目立たない仕事を地道にやり遂げてくれる、根気強いタイプの人がなかなかいなくて困ってるんだよね。だから、そういうタイプの人もこれからのうちの生徒会には必要かなって思って」

 「そう……なんですか」

 「次の執行部ができるときは、そういう人にも入ってもらわないと、仕事がはかどらなくなっちゃうよねって、浅田くんや志織ちゃんたちと話していたら、こないだ、志織ちゃんから、安達くんを紹介されたの。ちょっと気が弱くて不器用だけど、素直で、一生懸命で、嘘がつけないタイプ。細かいことによく気がついて、疑問を疑問のままにせず、解決に結びつけようと努力してくれるタイプなので、私や浅田くんの期待に応えてくれるんじゃないかなって」

 僕は、いきなりのこの展開に言葉が出なかった。まさか、そんなに前から、畑山さんが僕を書記候補のひとりとして考えていたなんて。――だが、そのとき僕にひとつの記憶がよみがえった。

 『今は緊張するかもしれないけど、そのうち安達もあの部屋にはしょっちゅう出入りするようになるから。きっと慣れるよ』

 小学生時代から僕をずっといじめていた加藤に、畑山さんが制裁を加えたあの臨時学級会の日の帰り道――生徒会長や副会長のいる生徒会室には独特の雰囲気があって、来るたびにいつも緊張すると打ち明けた僕に、畑山さんはこう言った。あのときは、その言葉の意味がまったく理解できなかった。仕方なく畑山さんに聞いてみたが、「ひ・み・つ」とはぐらかされた。あの言葉の意味が、今ようやくわかった。

 「安達、どう? 考えてみてくれないかな」

 再び、話し手は畑山さんに移った。

 「ま、学級会で司会をするって決心するのにも1日かかるようなヘタレの安達が、1日2日で決められるなんて思ってないから。もうすぐ夏休みに入るけど、登校日が3回あるでしょ。9月に入るとすぐ学級会で候補者を決めたりしなくちゃいけないし、最後の登校日じゃ余裕がないね。じゃあ、2回目の登校日、8月10日までに返事して。必ず、前向きな答えを聞かせてね!」

 「志織ちゃん、ヘタレなんて言い方しちゃ、安達くんがかわいそうじゃない? それに、あくまで選ぶのは本人だよ。強制はダメ」

 「はい、さつき先輩、わかってます。必ずうまくやりますから」

 畑山さんは、先輩に向かってそう言うと、僕の方を振り向きざまに、あの意地悪な笑みを浮かべた。「嫌だなんて言ったら承知しないからね」と顔に書いてあるのがわかり、僕は思わず身震いした。せっかく、学級委員が終わったら普通の生徒に戻って順調に埋もれるつもりだったのに……。僕の頭は混乱の極致に達していた。

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 「あ、あの、畑山さん。こないだ言ってた、そのうち僕もあの部屋にはしょっちゅう出入りするようになるからきっと慣れるよって、こういう意味だったんですか?」

 「あはは。そうだよ。少し、それとなくほのめかしてみたんだけど、今日までわかんなかった?」

 2人、並んで歩くいつもの帰り道。僕が尋ねると、畑山さんは、また「キシシ」という効果音が聞こえそうな意地悪な笑みを浮かべながら言った。遊ばれているような気がした僕は、悔しまぎれに叫ぶ。

 「もう、畑山さんの意地悪! そうならそうと、はっきり言ってください!」

 「だって、ストレートにそんなこと言ったら、あんた、絶対嫌だって言いそうじゃない? スタートラインに立つ前から、相手に嫌だと言われて沈没するようなマネを、この畑山志織さんがするとでも?」

 「言われてみれば……そうですね。やっぱり、書記、やらなきゃいけないんですか?」

 「それを期待してるから、考える時間を与えてるんでしょ」

 僕の方を向き、畑山さんは僕をまっすぐ見据える。その目が何を意味しているかは、もう言わずとも明らかだ。僕は下を向く。

 「でも、書記なんて、選挙ですよ。全校生徒の選挙で、当選しなきゃいけないんです。そんなこと……」

 学校によっては、選挙で選ばれるのは会長、副会長だけで、書記は会長が指名するケースもあると聞く。だが、森本学園では、役員に権威を持たせるためか、書記まで含め、すべての役員を選挙で選ぶことになっていた。1週間の選挙運動、立会演説会を経て、選挙で立候補者中10位以内に入らなければならない。本当に僕にそんなことができるのだろうか。

 「学級委員だって選挙でしょ? 安達はそれで当選できたじゃない?」

 「あれは陰謀、押しつけだったからです。みんなが自分の意思で投票する選挙で、僕が10位以内なんて……」

 僕は、必死で不可能であることを強調した。だが畑山さんはまったく意に介さなかった。

 「安達を当選させるための“秘策”を、実はあたし、考えてるんだ。ま、これからのお楽しみ!」

 「そう……ですか」

 僕は、これ以上反論できなかった。突然の出来事でぐったり疲れた僕は、『玉井』の前で畑山さんと別れると、重い足取りで家路についた。

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