第23話 きれいな花、咲きました


 「暑いね〜」

 2-Cの教室から生徒たちが三々五々、散ってしまった放課後。あまりの蒸し暑さに開け放たれた教室の窓からは、ミンミンというセミの鳴き声が容赦なく飛び込んでくる。畑山さんが思わず、当たり前のことを口にした。それを口にしたからといって暑さが緩和されるわけではないが、それでも畑山さんは、口にせずにはいられないようだった。

 「ホントですね」

 僕は答える。この教室にはエアコンもちゃんと設置されているが、下校時に日直の生徒が消してしまい、冷気が少し残っているに過ぎなかった。もう一度エアコンを入れてもよかったものの、学級委員の仕事が終われば下校だし、たった2人のためにエアコンを動かすのも何となく気が引けてスイッチを入れないまま、畑山さんが窓を開け放っていた。

 「コピーしたプリントは僕が預かっておいて、明日、配りますね」

 「うん。お願い」

 学級委員の仕事を居残りで片付けた2人。畑山さんの返事を聞くと、僕はプリントを確認し、他の持ち物と混じり合うことがないよう、しっかりとしまい込む。畑山さんに借用中の、あの可愛らしいウサギのイラストがついたクリアファイルに入れて。

 僕たちが公認になってから、はや1ヶ月あまり。畑山さんの公認となったことで、今、僕をいじめたり、ちょっかいを出したりする生徒はいなくなった。「消えたプリント」騒ぎがあってから、西野さんの提案で、コピー後のプリントはいったん畑山さんが預かるとしていたルールも、犯人が突き止められ、厳しいペナルティを受けて以降は再び変わり、今は、コピーしてから配るまで、すべて僕に任されていた。

 前期、森本学園の生徒たちにとっての大きな行事である体育祭と勉強合宿も、各委員の協力を得ながら、無事に乗り越えていた。春に行われるこの2つの行事は、スタートしたばかりの新しいクラスの連帯を高める効果を持つため、欠かせないものだった。僕は、仕事の節目で畑山さんに報告し、判断を求めることが時折あるくらいで、たいていのことは自分でできるまでになっていた。

 「あと1週間で、夏休みだね」

 畑山さんが、額の汗をハンカチで拭いながら言う。僕は、はいと返事をする。

 「あたしたちが学級委員になって、もう3ヶ月半。残りはあと2ヶ月半だけど、そのうち40日は夏休みだから、あたしたちの学級委員も、もう、あと1ヶ月で終わりだよ」

 畑山さんのその言葉を聞いて、僕はあらためて時間の流れの早さを思った。最初はあんなに嫌だと思い、泣いて逃げ回ってばかりいた僕が、今、学級委員として、ゴールに手が届きそうな場所にいる。自分がここまで来られたことに、僕は、今さらながら驚いていた。

 畑山さんは、少しでも外の風に身体を当てて涼しくなろうと、窓際を目指して歩く。開け放たれた窓からは、生暖かい風に乗って、野球部やサッカー部などの練習音が聞こえてくる。夏の大会のまっただ中にいる運動部は、練習にも熱がこもっている。

 「外の風に当たれば涼しくなるかと思ったのに、風が生暖かくて、全然涼しくないね。それに、運動部の練習なんか見てると、余計に暑くなりそう!」

 そう言って、畑山さんは、にじんだ汗をまたハンカチで拭う。その仕草を見て、僕は一瞬どきっとしたが、畑山さんに悟られまいと平静を装っていた。生暖かい風が一瞬、教室に強く吹き込む。畑山さんが、じっと見つめていた運動部の練習風景から目をそらす。その次の瞬間、

 「わ、凄い。ちょっと来て来て!」

と言って、畑山さんが僕を手招きした。

 「え? 何ですか?」

 「いいから早く来なさいったら!」

 畑山さんが乱暴に僕を呼びつける。僕は慌てて畑山さんのいる窓際に駆け寄る。学級委員の仕事をひととおり覚え、こなせるようになったとはいえ、僕はまだ畑山さんに追いつけたなどとはまったく思っていなかった。相変わらず畑山さんを学級委員の先輩として意識していた。

 「見て! きれいに咲いたね!」

 そう言って畑山さんが指さす先には、色とりどりのグラジオラスが咲き誇っている。

 「ホントだ! 僕たちが勉強や学校行事に明け暮れている間に、咲いたんですね」

 畑山さんは、僕の方に向き直ると笑みを浮かべながら言った。

 「グラジオラスの花言葉、覚えてる?」

 「はい。“たゆまぬ努力”です」

 「正解」

 そう言って畑山さんは、とびっきりの笑顔を僕に向けた。恥ずかしくなった僕は、照れる気持ちを隠すように下を向く。

 「僕、今だから言えますけど、学級委員になってからしばらくは、畑山さんに厳しくされたり、きつく言われた後、家に帰ってから涙が出ちゃうことがありました。でも、そのとき心の支えになってくれたのも、やっぱり、畑山さんの言葉だったんです」

 畑山さんは黙って僕の言葉を聞いている。僕は続けた。

 「あのお花たちは、どんなに花壇が狭くても、日当たりが悪くても、土が痩せていても、精いっぱい栄養分を吸い上げて、季節が来たら、文句も言わずにきれいな花をつける。だから、あなたもたゆまぬ努力で、半年後、学級委員を終えるまでに、きれいな花を咲かせてほしい……そう言ってくれた畑山さんの言葉があったから、僕、ここまで、がんばることができました」

 「そう? 良かったじゃない?」

 夏休みが近いせいか、それとも学級委員の残り期間が少なくなったためなのか、畑山さんは上機嫌だった。

 「あのお花のように、僕もちゃんと咲けていますか?」

 僕は、畑山さんに尋ねた。

 「大丈夫だよ。うん、安達は、ちゃんとお花を咲かせてる。それも、とびっきりきれいなお花をね」

 すぐに答えが返ってくる。それがお世辞ではなく畑山さんの本心であることは、僕にもわかっていた。

 「ありがとう。僕を、ここまでにしてくれたのは畑山さんです」

 「まぁ、そんな感謝されるほどのことでもないんだけどね。――じゃあ、せっかく安達が正直に話してくれたから、あたしも話すよ」

 そう言うと、畑山さんは、再び花壇の方を見ながら話し始めた。

 「あたしもね、今だから正直に言うけど、学級委員になってから一度だけ、安達を見捨てようと思ったことがあったの。もうこんな奴の相手なんてやってらんない、こんなの育てて一人前の学級委員にするなんて、あたし無理だと、一度だけ思ったよ。これ以上、言わなくてもわかるでしょ? まだあたしたちが学級委員になりたての頃、安達が、逃げ回ってばっかりだった頃の話」

 少しだけ冷たくなった風が、ふわりと、畑山さんの髪の毛を揺らした。それを見て僕はどきっとしたが、悟られないように下を向く。ふと外を見ると、空のほとんどを占めていた青が、黒い雲に覆われ始めている。夕立の到来が近そうだった。

 「あのとき、畑山さん、言いましたよね。僕がちゃんと謝って、逃げずに立ち向かおうとしたから、仕事を教える気持ちになれたって」

 「うん。それはそうなんだけど、もうひとつ、安達に言ってないことがあるんだよ」

 「えっ? それはなんですか?」

 2人の間を、一段と冷たくなった風が駆け抜ける。畑山さんは、ずっと立っていることに疲れたのか、窓際の、椅子ではなく机に腰掛け、窓の外に目を向ける。普段は決して見せることのない無遠慮な行動。畑山さんにとって僕は、気を遣わなくてすむ存在なのかもしれない。僕も、少し疲れてきたので、近くの椅子を引き出して座った。

 「あのとき、あたし、あんたに言ったでしょ。学級委員に選ばれた以上、嫌でもやるしかない、逃げるなんて選択肢はあんたにないんだよって」

 僕は、3ヶ月半前を思い出していた。2人きりの教室で、学級委員をやると言うまで許さないと、締め上げられた地獄にも等しい時間。ちょうど、放課後のこの時間だったことも思い出す。僕は、はいと答える。

 「あたし、あのとき、偉そうなこと言ったけど、ホントはあたしも同じだったんだよね」

 「同じ?」

 目的語を省略した畑山さんの言葉の意味が理解できなかった僕はそう聞き返す。コミュ力が高い畑山さんと違って、僕は、言葉の行間を読むことは苦手だった。

 「だから、安達に『嫌でも選ばれた以上、学級委員をやる』しか選択肢がないのと同じで、あたしも、あんたが選ばれた以上『育てて、一人前の学級委員にする』しか選択肢がないってことに気づいたの。同じってのは、そういう意味。っていうか、正確に言うとね、あたしにはあんたと違って選択肢は2つあったの。あんたを育てるか、見捨てて自分ひとりで学級委員を半年やりきるか。2つに1つ」

 僕にとって、それは初めて聞く話だった。畑山さんは畑山さんなりに、思い悩んでいたんだと初めて知った。僕は、急に申し訳なくなった。

 「最初は見捨ててしまおうと思ったけど、直前にやめたの。見捨てるのはいつでもできるし、それは最後の最後でいいんじゃないかと思って。目の前で、泣きながら、それでも逃げないであたしに助けを求めてきた安達を見て、あたしは、こんな奴でも、逃げないで立ち向かう気持ちがあるなら、何とかなるかもしれない。最後に一度だけ、そこに賭けてみようと思ったんだ」

 「そうだったんですね。すみません」

 「謝ることないよ。安達が、いつまでも学級委員をやるっていう決心ができないのは、ひょっとしたらあたしの覚悟が足りないせいかもしれないって、そのとき思ったよ。だからあたしが、そうね、何があっても最後は絶対に助けてやるっていう覚悟を見せたら、安達も決意してくれるかもしれないなーと思って」

 畑山さんは、そう言って笑顔を見せる。僕は驚きのあまり、言葉を返せないでいた。

 「覚えてる? あたしが初めて安達を帰り道に誘ったときのこと。『逃げないで、精いっぱい努力する』だけしかない自分に学級委員ができるかって安達に聞かれて、『できるように、後はあたしが何とかする』って答えた……」

 「はい。覚えてます。だって、僕が生まれて初めて女の子と一緒に帰ったんです。僕、あの日のことは、たぶん一生忘れないです」

 僕がそう言うと、畑山さんは大笑いし、「あたしが初めてだったの? でも、それにしたって安達は大げさだねー」と言った。

 「今だから言えるけど、あれはあたしなりの決意だったの。安達が決心できないなら、あたしが先にすればいい。それでもあんたが決心できないような奴なら、しょせんはそこまで。決心してくれるなら、最後まで面倒は見る。危ない賭けだったけど、あのとき安達を見捨てないで、よかったと思ってる」

 遠くから雷鳴が響いて、雨が降り出した。グラウンドで練習をしていた運動部の部員たちの、くもの子を散らすように屋内に逃げ去る姿が不謹慎だけど少し面白く、僕は思わず笑ってしまう。「あ、とうとう降ってきたねー」と言いながら、畑山さんが頭をかく。こんなところでだべっていないで、さっさと帰ればよかったという後悔が、少し、畑山さんの顔に浮かんだように思えた。

 「この3ヶ月半、安達は、あたしの期待にちゃんと応えてくれた。もともと期待のレベルが低かったのはあるけど、ま、あんたは学級委員、初めてだったし、こんなもんじゃないかな。でもね、あんたは立派な学級委員として、もう一度選ばれても、あたしの助けなしにちゃんとやれる。半端な奴には負けないくらいに、ちゃんと教え込んだからね!」

 はい、ありがとうございます、と僕は改めて畑山さんにお礼を言った。少し間を置いて、畑山さんは、ちょっと話したいことがあるから、明日でも明後日でもいいので生徒会室に来るよう、僕に言った。

 「今、ここじゃダメなんですか?」

 「ここだと誰が急に入ってるか、わかんないから。とにかく、大事な話だからちゃんと来るんだよ。いつでもいいけど、来るときは前もって連絡してね」

 わかりました、と僕は答える。外を見ると、文字通りのにわか雨だったようで、再び雲の切れ間から暑い夏の日差しが照りつけてきた。屋内に逃げ去っていた運動部員たちが、また、グランドに散っていくのが見える。目の前の畑山さんは、座っていた机からすとんと降り立つと、「雨もあがったし、さ、帰りましょ!」と僕に言った。僕たちは、再び蒸し暑くなり始めた教室の戸締まりをすると、いつものように校門を出た。

 大事な話って何だろう? 僕は、気になって仕方なかった。

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