第22話 断固たる決意
あたしが安達と公認になって間もないある日の放課後。生徒会室で仕事をしていると、ひとりの女子生徒が訪ねてきた。薬師寺真奈美(やくしじ まなみ)さん。あたしと同じ2年生だ。活発な生徒が多い森本学園の女子の中では、物静かで目立たない存在だが、あたしにとっては側近とも言うべき重要人物だった。
森本学園が男女別学だった頃、女子部の生徒は深窓の令嬢のようであれ、といわれ、お嬢様であることを求められた時代があった。女子部の同窓会の名称「深窓会」(しんそうかい)もここに由来する。その後、共学化に伴い同窓会の名称は、発音はそのままに、「深」を森本学園にちなんで「森」に変更、「森窓会」と呼ばれるようになった。
この森窓会にヒントを得て、森本学園には森窓調査会と呼ばれる非公認同好会が存在していた。森窓は同音である「真相」の隠喩であり、学園内部のさまざまな裏事情を調査しては報告書にまとめる一種の興信所的存在として、活動は秘密裏に行われていた。真奈ちゃんこと真奈美は、その森窓調査会の“会長”として、人知れず辣腕を振るっていた。
あたしが女子生徒による秘密のネットワークを学園中に張り巡らし、そのネットワークを駆使して、学園内のあらゆる情報を収集していることを、勘のいい男子はある程度気づいているように見えた。あたしがあまりに学園内のことを何でも知っているため、そうした勘のいい男子たちは、あたしに情報提供をしている正体不明の女子グループを「秘密警察」と呼んで怖れていた。男子が怖れる「秘密警察」の正体――それが森窓調査会だった。真奈ちゃんを含む森窓調査会メンバーは、いわばあたしの「特殊諜報部員」(わかりやすく言えばスパイ)だった。
「志織、例の件、難航したけど、ようやく形になったから今日、こうして持ってきたの」
ていねいにホチキス止めされたA4版で10枚ほどの報告書と、ICレコーダーを真奈ちゃんに渡される。
「ちょっと説明させてほしいの。どこか適当な場所がないかな?」
と言う真奈ちゃんを、あたしは生徒会室の奥にある応接室に案内する。ここはあたしの一番安心できる密談場所だ。他の生徒会メンバーはここを会長、副会長の専用室みたいに思っているが、みんなもっと使えばいいのに、と思ったりもする。
調査は、あたしが真奈ちゃんに依頼したものだった。ICレコーダーの音声、そしてそれに基づく報告書は、願ってもいなかった決定的な証拠であり、あたしの予想を裏付けるものだった。30分ほど真奈ちゃんの説明を受け、雑談した後、あたしは丁重にお礼を言い、報告書とレコーダーを受けとった。
あたしは、何かの拍子にレコーダーの音声ファイルが壊れては大変だと思い、数か所にバックアップを取る。報告書もコピーを取り、安全な場所に保管することにした。
―――――――――――――――――――― ◇ ――――――――――――――――――――
その数日後、あたしはまた安達を生徒会室に呼び出すと、奥の応接室のソファで向き合って座った。安達は相変わらず、生徒会長や副会長のいる生徒会室が緊張するのか、そわそわと落ち着きのない仕草であたしを見ている。前回と同じように、あたしが2人分のお茶を入れ、話を切り出す。
「覚えてる? 以前、安達が杉本先生にもらったプリントをなくしたと言って、小夜にコピーをしてもらった後、うちの教室のゴミ箱からプリントが見つかった件」
目の前の安達が、はいと答えながら、サッと表情を曇らせ、下を向く。あたしと公認になって以降、比較的明るい表情を見せることが多くなっていた安達が久しぶりに見せる不安な顔だった。あたしは犯人が特定された事実を、単刀直入に安達に告げる。
「誰ですか?」
「あたしたちが想像してた通りの奴。とにかく、これを聴いてみて」
あたしは、そう言ってレコーダーの音声を再生する。その瞬間、安達の顔色がサッと変わる。最後には全身をぶるぶると震わせながら、
「酷い、酷いよ、あいつら……」
と言い、ぽろぽろと涙を流した。
「ごめんなさい。前より少しでも強くなった姿を、畑山さんに見せたいと思っていたのに、僕、やっぱり、泣いちゃいました。……悔しい。強くなりたいです」
安達は、申し訳なさそうな表情で言った。
「謝ることないよ。安達、ずいぶん強くなったじゃない? 悔しいと思うこともできなくて、逃げてばっかりだった以前の安達に比べれば、強くなったと思うよ」
あたしは安達を励ますために言う。目の前の安達はあいかわらず下を向いたままだ。だが、今までだったら顔を上げたまま平気で泣きじゃくっていた安達が、最近はいっちょまえに下を向いて涙を隠そうとするようになった。そんなことをしても隠せるわけはないけれど、少しずつ、こうして安達にプライドが芽生えてきているのがわかり、あたしは嬉しくなる。
「さて、あたしは安達との約束、ちゃんと守ったからね。今度は安達が、“強くなる”っていうあたしとの約束を、果たす番だよ」
「え? 約束って……?」
「あれ、お忘れかな、安達くん? 『この件の犯人は突き止める。あたしにいくつかアイデアがあるから、任せてくれる?』って、以前あたし、言ったよね?」
「あっ! そうか、前に、やっぱりこの部屋に呼ばれたとき……」
安達はようやく思い出したようだった。やられっぱなしで終わるのは嫌だから、状況を変えたいという気持ちもあるものの、どうしたらそれができるかわからないまま、自分が耐えることでその場をやり過ごそうとしていたあの日の安達。犯人を突き止めたいというあたしの思いを、最後は承諾してくれた。
「思い出したようだね。それで、安達。今度、この件で臨時学級会を開くから。杉本先生には、もう根回しもすんでるから大丈夫。利奈、ゆっきーに協力してもらえるように、シナリオも考えておくよ。あ、安達は学級委員だから、普通だったらあたしと一緒に進行をしてもらう立場だけど、今回は当事者だから、とりあえず、進行はあたしに任せてくれる?」
あたしは、いじめには断固、対処するという自分の決意を守るため、きっぱりと言った。安達は、驚きながらもあたしの提案に同意してくれた。
―――――――――――――――――――― ◇ ――――――――――――――――――――
それからまた数日経った放課後。臨時学級会の時間がやってきた。重い議題ということもあり、クラス全員に、事実経過を示したプリントを配る。あたしは、進行を自分がする代わり、プリントを配るよう安達に指示したが、安達は気が重そうにしている。自分が当事者になっている出来事について書かれたプリントを自分で配る――それはさすがに酷だろう。やっぱりプリントも自分で配る方が良かったのかもしれないと、あたしは少し反省した。
「では、臨時学級会を開きます」
あたしはそう宣言すると、今日のターゲットである男子――加藤を思いきり睨みつけた。旧女子部以来の伝統である『学園における愛と正義』の守護者を自認し、いじめをなくすためにはいじめっ子への強い制裁措置も辞さない決意だった。
あたしは、これまでの事実経過を説明。小学生時代から加藤が安達へのいじめを繰り返してきた事実を考慮し、ペナルティとして反省文の提出プラス掃除当番1ヶ月間という『厳罰』を提案した。
「あたしからの説明は以上です。本人にとっては厳しい罰になりますが、旧女子部の伝統である『学園に愛と正義を』のスローガンが、女子部でのいじめ自殺をきっかけにできたという森本の歴史を、あたしたちも引き継いでいかなければならないのです。我が学園において、いじめほど、恥ずかしくて最低の行動はない。その意識をしっかり持った上で、みんなに話し合ってほしいと思います」
あたしが説明を終えると、女子数人から『賛成でーす!』という声が上がった。男子は、驚きのあまり態度を決めかねている生徒が多く、様子見といった雰囲気だ。あたしはその反応が物足りなかった。
「反対! 俺は、いじめてねえ! 安達のプリント、盗んでねえし、捨ててねえよ!」
場の雰囲気を察知した加藤が、すかさず反撃に出る。ここまで、あたしは自作のプリントでいじめの事実経過を説明していたが、真奈ちゃんから提出を受けた2つの決定的証拠には触れていなかった。加藤がおとなしく反省し、“制裁”を受け入れるなら、この証拠は公表せず、穏便に済ませるつもりだったが、森本学園きってのクズ男子――加藤は、やはり簡単に引き下がりそうもなかった。
「あんたがいくら『いじめてない』って言っても、安達がいじめられたと思ったら、いじめなんだよ!」
あたしは言い返す。
「何だよその言い方は! 俺がやったっていう証拠があんのかよ!」
「あるから学級会を開いてるんでしょ。あんた、あたしが何の証拠も根拠もなく、こんなことしてるとでも思ってんの?」
あたしはまた言い返した。だが加藤は簡単にはあきらめない。
「うるせえ! お前が適当に書き散らかした事実無根のプリントで罪を着せられたら、たまんねーんだよ!」
その様子を見ていた加藤の取り巻きの男子生徒、数人が勢いづき「そうだそうだ!」「俺たちが安達のプリントを盗んで捨てた犯人だっていうなら、ちゃんと証拠見せろ!」と騒ぎ始めた。
あたしはまったく動揺していなかった。安達をいじめた相手に対し、仕返ししてやりたいという気持ちを抑え、これまで1ヶ月近くも耐えてきたのは、確実な証拠を押さえたかったからだ。ようやくここに来て証拠を押さえるとともに、仲良しトリオの利奈、ゆっきーをはじめ、信頼できる女子はもちろん、一部の男子にも周到な根回しをしてこの日に備えてきた。加藤とその取り巻き男子たちの激しい抵抗も、最後には粉砕できる――あたしはそう確信していた。
だが、それでもあたしは議論の行方を決して楽観していなかった。議論はどちらが正しいかではなく、どちらが声が大きいかで決まることも多い。小学生時代から学級委員、児童会委員を繰り返す中で、あたしは何度もそれで苦い経験をしてきた。事が長引き、加藤とその取り巻きの男子たちに言いたい放題を許しておけば、形勢を逆転されるかもしれなかった。
いよいよ、真奈ちゃんが1ヶ月以上もかけて調査してくれた、あの証拠を出すときが来たような気がする。一気に決着をつけた方がいいと考えたあたしは決断した。
「人の作ったプリントを事実無根とは、ずいぶんな言い方してくれるじゃない? あんたがそこまで言うんだったら、証拠を見せてあげようか?」
あたしは加藤を睨みつけながら言った。
「ウダウダ言ってねえで、証拠があるならさっさと見せろや!」
冷静なあたしに対し、加藤はだんだん頭に血が上り始めていた。相手が冷静な判断力を失い始めたときがチャンスだとすれば、今がまさにそのチャンスに思えた。あたしは一瞬、安達に合図を送るかのように目配せをすると、正面を向き、手にしたレコーダーを高く掲げながら言った。
「それでは、あきらめの悪い加藤がいつまでも無駄な抵抗を続けるので、ここで決定的な証拠を示します」
あたしがレコーダーの再生ボタンを押す。2-Cの教室に、驚くべき音声が流れた。
<『ひーひっひ。安達のあの顔、おもしろかったよな。ホントはプリント盗って捨てたの、俺たちなのによ。あいつ、自分がなくしたと思って、アホ面して畑山に謝ってやんの。ひーひっひ。おもしろすぎるぜ』
『安達の奴、畑山に思いっきり怒鳴り散らされて泣いてたんだぜ。狙い通りに行きすぎて、笑いが止まらねえ』
『これで、安達が畑山に嫌われて、いじめ倒されればおもしれえよな。あいつ、学校来れなくなったりしてよ。アハハハハハ』>
再生が終わると、教室は水を打ったように静まりかえった。しばらく沈黙が続いた後、女子数人から「何よこれ、ひどい」「安達くん、かわいそう」「許せないよね」と声が上がる。対照的に、騒いでいた男子のいじめっ子たちは、打ちのめされたのか静かになった。
「ちょっと待てよ。これが加藤の声だって証拠があんのかよ。誰かの声の聞き間違いかもしれねーじゃん」
往生際の悪いいじめっ子男子が、あたしに食ってかかる。それでもあたしはまったく動揺していなかった。こんなことくらいで取り乱すようでは、不本意ながらも森本のマリー・アントワネットと呼ばれるあたしの名折れだ。あたしは2つ目、そして最後の決定的証拠を取り出す。
「あたしは今回、生徒会の協力も得て、このレコーダーの音声が、加藤の声かどうか、専門業者に依頼して声紋鑑定をしてもらいました。この報告書はその鑑定結果なのですが――」
あたしの説明に教室中が静まりかえる。あたしはきっぱりと言った。
「加藤伸司くんの普段のしゃべり声と、同一人物との鑑定結果でした」
「――!」
さっきまであれほど騒いでいた、加藤とその取り巻きの男子たちは観念したのか、がっくりと肩を落とし、下を向いた。そのうちのひとりが、
「ちくしょう! 声紋鑑定って――そこまでするのかよ!」
と、悔しそうに吐き捨てた。
「業者に声紋鑑定って――、お前、そんな金、どこから出したんだよ!」
悔しそうに、食ってかかるいじめっ子男子。あたしは顔色ひとつ変えず、
「さあ? そんなこと、あんたたちに関係ないでしょ」
と、冷たく言い放つ。万事休すだった。
「みんな、あたしの提案に、意見はある? ある人は手を挙げて遠慮なく言ってね!」
あたしは、クラスメートに向かって元気に声を掛けながら、できるだけみんなが意見を言いやすくなるように、わざとタメ口で話しかけたり、くだけた話し方をする。場を和ませるため、そうすることが、重苦しい議題の時こそ必要だということを、過去の経験であたしは知っていた。
女子数人から、「賛成でーす」と声が上がった。一方、いじめっ子と取り巻きの男子たちから「反対! 反対!」と声が上がった。それ以外の声はしない。
「ねえ、広瀬、どう思う?」
あたしは、安達の数少ない親友の広瀬に声をかける。アニメオタクの広瀬は、以前は安達と同じように気が弱かったが、所属している漫画部の副部長になって以降、責任感からかかなり成長していた。漫画部の3年生の部長、財前綾香(ざいぜん あやか)先輩が、部長なのに部長の仕事をまったくせず、同人誌ばかり描いているせいで、副部長の広瀬が事実上、部長代わりだった。
このまま採決に持ち込んだ場合、女子はほぼ全員があたしに賛成するだろう。気がかりなのは、いじめっ子以外の沈黙している男子だった。加藤に流され、あるいは後からの仕返しが怖くてあたしの提案に反対するのか。それともここまでの動かぬ証拠を突きつけた以上、賛成してくれるのか。教室内の状況からは、そのどちらの可能性もありそうだった。
このクラス、2-Cの男子と女子は同じ人数だ。特殊な議案以外は過半数の賛成があればいいから、女子全員に加え、男子がひとりでも賛成すれば過半数は得られる。だがあたしはそれでは満足できなかった。今後のクラス運営を考えた場合、声の大きい加藤のようないじめっ子を抑えるためには、ひとりでも多く、このクラスの「総意」と言えるだけの賛成が必要だった。ここで、男子の中であえて安達の親友の広瀬を指名したのは、作戦というより、長年、学級委員や生徒会役員を務めてきたあたしの勘だった。彼に賛成と言わせることで、迷っている男子たちもあたしの提案に賛成しやすい雰囲気になり、一気に賛成への流れを作ることができる。過去、あたしは難しい学級会を何度もこの方法で乗り切ってきた。
「僕は、畑山さんの提案に賛成です。さっき、畑山さんが言ってくれた『『学園に愛と正義を』のスローガンが、女子部でのいじめ自殺をきっかけにできたという森本の歴史を、自分たちも引き継いでいかなければならない。この学園でいじめほど、恥ずかしくて最低の行動はない』というのは、その通りだと思う」
広瀬が、勇気を振り絞るようにそう言った。安達にとって、男子からの数少ない援軍をうまく使わない手はない。
「広瀬! お前、畑山なんかに味方すんのかよ!」
加藤が、賛成に傾きかけた流れを引き留めようと必死の抵抗をする。だが広瀬は、何かを決意したようにきっぱりと言い返した。
「誰かに味方するとか、そう言うのじゃなくて、僕は、どっちが正しいか、自分で考えて言っただけだよ!」
「何だと!」
加藤が、広瀬を威圧しようと大声を出す。すかさずあたしは加藤を制し、発言する。
「はいはい、静かにして。みんなを説得して、味方につけたいんだったら、大声ではなく、正しい意見、みんなの賛成を得られる中身のある意見を言うことは最低限のマナーです。それに、自分の頭で考えて自分の意見を出すのは大事なことです。声の大きな人、力の強い人に言われたからって、そんな人に自分の考えを曲げてまで、合わせる必要はありません。みんな、最後は自分の考えで決めてください」
あたしがそう言うと、加藤は観念したようにおとなしくなった。
「加藤たち以外に、反対の意見は出てないけど、今まで意見を出さなかったみんなはどうなの? 意見がないなら、時間も時間だし、もう、採決するよ?」
あたしはまたタメ口で話しかける。せっかく意見を出しやすい雰囲気作りまでしたし、こんなに重要な議題なのに、一部の男子たちは意見を出さないまま。いったい、こいつらはうちのクラスをどうしたいんだろう? あたしはそう思ったが、このままずるずると引き延ばしても、議題の内容がネガティブなだけに建設的な意見が出ることは期待できなかった。ちらりと、教室の壁の時計に視線を向ける。短針はすでに4と5の真ん中よりも左に位置していた。――あたしは、覚悟を決めた。
「では、時間もだいぶ過ぎたので、ここで、採決します」
あたしがそう宣言すると、「なんだよ! 俺たちが反対って言ってるじゃねえか!」と、加藤をはじめ数人の男子たちはなお激しく抵抗した。だが、彼らはペナルティを科せられようとしている当事者なのだから反対するのは当たり前だ。あたしは彼らの声を無視し、
「あたしの提案に賛成の人! 手を挙げてください!」
と言い、挙手を求めた。女子全員と、男子も3分の2以上が手を挙げた。ただし、男子の中には、加藤たちが掃除当番のペナルティを科されることで、自分たちがその間、掃除をしなくてすむという不純な動機で賛成する者もいた。あたしもそれを知りながら、彼らをいわば利用した。持ちつ持たれつの、この場限りの「共闘」だが、あたしにとってはそれでよかった。圧倒的な賛成で勝負は決まった。
「それでは、あたしの提案通りに決定しました。“関係者”は、反省文の提出と掃除当番1ヶ月、よろしくお願いしますね。それではこれで、臨時学級会を終わります!」
あたしは高らかに宣言した。加藤たちが、悔しそうにあたしを睨みつけるが、あたしは意に介さず、時折、笑みを浮かべながら悠々と自分の席に引き揚げる。日直の生徒の「起立、礼!」の号令で、ようやく解放された生徒たちが、部活動に、帰宅の途に、めいめい急ぐ。
―――――――――――――――――――― ◇ ――――――――――――――――――――
畑山さんと一緒に教壇から降り、自分の席に戻りながら、僕は身震いがする思いだった。猫がネズミをいたぶるように、じわじわといじめっ子たちを追い詰めていく畑山さんの姿を見て、僕は、畑山さんが敵じゃなくてよかったと胸をなで下ろしていた。
学園に愛と正義を。弱い者いじめは、絶対に許さない――いじめっ子の激しい抵抗を押し切り、信念を貫き通した畑山さんへの評価は、学園内で急上昇した。一方、決定的な証拠で「いじめっ子認定」された男子たちの評価は急落した。すべてが畑山さんの狙い通りだった。
ようやく終わった学級会の後、僕は、また通い慣れた通学路を畑山さんと並んで歩いて帰っていた。
畑山さんと一緒に帰り始めたばかりの頃は、ドキドキしっぱなしだった帰り道。畑山さんが隣にいるだけで、きらきらと輝いて見えた帰り道にも次第に慣れたが、まだ微妙に胸がときめく感覚は残っていた。ただ、公認になったことで、誰かに見られるかもしれないとビクビクする必要がなくなったことは、僕の心に次第に余裕を生み始めていた。
いつも帰り道に誘ってくれる、目の前の女子――怒らせると、いや、怒らせなくても怖いけど、学園随一の美少女で、自分の言ったことに最後まで責任を持ってくれる、頼もしい学級委員の仲間のことが、本当に好きなのかどうか、自分には今もよくわからない。今の僕が、こんな人の「彼氏」に収まる資格があるのかどうかもわからないというのが正直な気持ちだった。でも、周囲はとりあえず僕たちを認めてくれている。今はそれでじゅうぶんなように、僕には思えた。
「畑山さん? 僕も、不思議に思ってたんですけど、あの声紋鑑定、お金がかかってますよね? どこから出したんですか?」
僕が不思議に思って尋ねる。畑山さんは「絶対、誰にも言わないでね」と口止めすると、いたずらっぽい笑みを浮かべながら答えた。
声紋鑑定に使った費用を、畑山さんは、生徒会の「会長機密費」から支出していた。これは、公にできないような案件のために生徒会長に与えられている「秘密予算」で、生徒総会で配られる予算書では予備費の一部としてそれとわからないように「偽装」されている。会長が、極秘にこのお金を使った場合、決算書では使途にふさわしい予算科目に振り分けられ、通常の支出として報告される。今回のケースでは、いじめの証拠をつかむための調査が機密費の使用目的だったため、決算書では「調査費」として報告されるらしい。
通常、会長機密費に触れることができるのは、会長、副会長だけだが、筆頭書記でも会長の許可を受ければ機密費の使用ができる場合があるのだという。10年にひとりの大物書記といわれる畑山さんは、特別に機密費の使用を許されている数少ない生徒会役員だった。
生徒会の予算は学園全体のために使うべきで、特定のクラス、特定の生徒個人のために使用してはならないという暗黙の了解があり、生徒会長や副会長からは、それを根拠に通常の予算を使用してはならないと言われたが、畑山さんは、使用目的にいじめ根絶という正当な目的があり、それは学園全体の利益になると反論、譲らなかった。あまりに粘り強い(しつこい、とも言う)畑山さんの前に、最後は生徒会長、副会長も「機密費なら使っていい」と言ってくれたという。生徒会長、副会長を押し切るとは、さすがは畑山さんだった。
「どう? びっくりした?」
「そんなお金が生徒会にあるなんて……びっくりしました。ホント、畑山さんって、凄いことを平気でしますよね」
僕が、半分は呆れにも似た気持ちを悟られまいと、細心の注意を払いながら答える。畑山さんは、やれやれという表情を浮かべ、
「失礼ね。誰のためにしてあげたと思ってんの?」
と言った。いかにも畑山さんらしい、恩着せがましくも自信に満ちあふれた言い方。僕は慌てて、
「ご、ごめんなさい。僕のためにしてくれたのに……すいません」
と謝った。それを見た畑山さんは、ひとしきり笑顔を見せた後、急にまじめな表情になる。
「目的のためには、手段なんて選んじゃいけないときがある。非情なようだけど、信念を貫くって、そういうことだよ。それに、男は度胸、女は愛嬌なんてのは昔の話。今は、男子も女子も、度胸と愛嬌、両方必要なの!」
畑山さんは、僕にというよりは自分自身に言い聞かせるようにそう言った。畑山さんが、自分の判断に誤りがなかったことを確認しようとしているように思えた。もしかすると、さすがの畑山さんも、今回の決断だけは誰かに背中を押してほしかったのかもしれなかった。
「でも、今日はなんか、スカッとしたなぁ。今までで一番疲れる学級会だったけど、何とか乗り切ったし。ま、これで、安達をいじめるとただじゃすまないってことを学園中にわからせてやったから。もう誰も、安達に指一本、触れられないし、触れさせないよ」
畑山さんは、「ちょっと、これ持っててくれる?」と言って僕に自分の鞄を持たせると、自由になった両手で歩きながら器用に背伸びをする。その後、学校では決して見せない、あのとびっきりの笑顔を見せてくれたが、今日ばかりはその笑顔の中に、確かにスプーン1杯程度の疲れも交じっていた。日頃は男子にマリー・アントワネットなどと呼ばれている畑山さんでも、こんなところはやっぱり普通の女の子なんだなと思う。僕は、かなり申し訳ない気持ちを抱いて、ゆっくりと言葉を返した。
「畑山さん、ありがとうございました。いつも助けてもらってばっかりで申し訳ないです」
「いいんだよ。気にしなくて。いじめなんて、ひとりでなんとかしようたって、そんなの無理なんだから。クラス全体、みんなが自分のこととして考えられるようになって、初めて、なんとかできるようになる。そんなものなんじゃないかな」
畑山さんはそう言った。確かに、ひとりでなんとかできるような人なら、そもそもいじめられたりなんかしない。小学生時代から、何度も、学級委員や生徒会役員を経験してきた畑山さんは、それを熟知しているように見えた。
「ま、今後も何かあったらいつでも相談してよ」
そう言って畑山さんは、僕に持たせていた自分の鞄を受け取ると、またあの笑顔を僕に向けた。
「でも、僕、やっぱりまだまだです。この前、生徒会室に呼ばれたときも、結局泣いちゃったし……。まだまだですね」
「仕方ないよ。富士山だって、エベレストだって、一歩一歩、上っていった先にようやくたどり着くものなんだから。あきらめず、登り続けたら、ゴールは必ず見える。だから、あきらめないでがんばるんだよ!」
「はい。がんばります。いじめられないようにするために。生徒会室のあの独特の雰囲気にも負けないようにしたいです。生徒会長があそこにいると思うだけで、緊張しちゃって……」
僕は話題を変え、生徒会室の独特の雰囲気に対する思いを、畑山さんに打ち明けた。次の瞬間、畑山さんから返ってきた言葉は、僕に戸惑いを抱かせた。
「そうなんだ。気にすることないんじゃない? それに、今は緊張するかもしれないけど、そのうち安達もあの部屋にはしょっちゅう出入りするようになるから。きっと慣れるよ」
「え? 畑山さん、それはどういう意味ですか?」
「さあ? ひ・み・つ」
戸惑いのあまり、僕が発した問いかけを、畑山さんは笑ってはぐらかす。口に人差し指を当てる「秘密」のポーズを、いつものあのとびっきりの笑顔に乗せて。
だが僕は、畑山さんのこの言葉の意味を、この時点ではまだ理解できていなかった。僕がそれを理解するのは、もう少し後になってからのことである。