第17話 初めての反抗


 「安達、例の修学旅行のアンケート、集まってきてる?」  

 6月も下旬のある日の休み時間。僕は、畑山さんに聞かれた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。僕がここ数日、最も恐れていた展開だ。

 「それが、その……まだ、出してこない人がいて……」

 「ふーん。何人くらい?」

 僕は、「7人…」と、消え入るような声で答えた。

 「え? そんなにいるの? ちょっと安達。先生に提出する期限は、明日だよ。わかってんの?」

 畑山さんの語調がやや強くなる。わかってるよ、と僕は心の中でつぶやく。

 森本学園中等部では、毎年、3年生の春に修学旅行がある。それと同じ時期に、翌年の行き先や予算などについて生徒の保護者の意見を聞くアンケートが行われるのが恒例だ。もっとももここ数年は、内容は全く変更されていないけれど。アンケート用紙はすでに全員に配っており、今日が学級委員への提出期限。全員分を集めて、先生に明日までに提出しなければならなかった。だが、この時点で女子2人、男子は5人もの生徒が未提出だった。

 「安達、ちょっと、聞いてんの?」

 「あ、はい」

 「はいじゃないでしょ。特に男子は、なんで5人も未提出なのよ?」

 「何度も出してって、お願いしたんですけど……言うこと聞いてくれないんです」

 僕は、ようやく声を振り絞って畑山さんに事実を告げた。単に忘れていただけの数人は、僕がお願いすると出してくれたが、この5人は加藤、山下とその仲間たちで、ちょっとやそっとのお願いでは出してくれそうになかった。

 「事情はわかったけど、それならなんで相談してくれなかったの? 困ったときは早めに相談するように、前から言ってるじゃない?」

 「どうしたら出してもらえるか、僕なりにいろいろ考えてたんです。それで遅くなって……」

 「そんなのどうでもいいでしょ! 期限は明日なの! さっさと出してもらわないと困るから、催促してるんじゃない?」

 「ちょっと待ってください! この前、『自分で問題を見つけて、解決策も考えられるようになってほしい』って僕に言ったの、畑山さんじゃないですか? だから僕は解決策を考えようとして……」

 「期限は明日だってさっきから言ってんでしょ? そんなことしてる暇ないよ。それより、なんで早く相談してくれないの!」 

 ――ぶちっ。

 僕の頭の中のどこかから、そんな音が聞こえた。人生14年生きてきて、初めて聞く音だった。我慢の糸が切れるとき、音が聞こえるんだと初めて知った。

 「言ってる意味がわかりません! 最近の畑山さんは言ってることがメチャクチャで、……も、もう僕、が、我慢できないです……」

 僕は思わず、畑山さんに感情をぶつけていた。同時に、こらえていた涙があふれ出した。

 「酷い、酷いよ、畑山さん。あるときはさっさと相談してと言い、別のときは畑山さんのただ言いなりになるんじゃなくて、解決策を考えられるようにって……僕はどうしたらいいんですか?」

 学級委員が初めての僕。班長さえやったことがないのに、いきなり学級委員としてクラスの代表にされてしまった僕は、今まで、学級委員の経験が豊富な畑山さんの言うことを聞いてきた。何をどうしたらいいのか、右も左も全くわからなかった2ヶ月前はそうするしかなかったし、実際、畑山さんの言うとおりにしていれば、仕事はスムーズに進み、悪いようには決してならなかった。足手まといのはずの僕に、嫌な顔ひとつせず仕事はもちろん、学級委員の心構えまで教えてくれた畑山さんには感謝しているし、リスペクトもしている。

 でも、最近の畑山さんは、以前ほどの丁寧さがなくなった気がする。時により場合により、僕に求めること、言うことがバラバラで何を信じていいかわからない。「早く相談する」「解決策を考えてから提案する」って……。しかもそれを同時になんて、僕には無理だよ。できない……。

 教室で、みんなの前なのに、人目もはばからず腕で涙をぬぐってしまった僕。目の前の畑山さんを見ると、明らかに戸惑った様子で慌てているのがわかる。いつもは強気に言い返してくる畑山さんの、こんな表情を見るのは初めてだった。

 「あ、畑山の奴、安達を泣かしてるぜ」

 僕と畑山さんのやりとりを見ていたある男子がおもしろがるように言う。畑山さんが

 「泣かすわけないでしょ! バカじゃないの?」

と言い、その男子を睨みつける。睨みつけられた男子が、半分おもしろがりながら

 「怖いよ〜。僕、今、マリー・アントワネットに睨みつけられた〜」

と言っているのが背後から聞こえる。その様子を見ていた加藤が、

 「安達ー、がんばれよー。畑山なんかに負けんなー」

と、はやし立てるように言う。そのお気楽さに軽い殺意を覚えた僕は全力で無視した。畑山さんに対する、僕の初めての反抗だった。

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 こいつ、いったい何考えてんの? ごめん安達、わからないよ。あたしは、そう自問自答していた。同時に、初めての事態に戸惑っていた。

 こいつと一緒に学級委員になって、約2ヶ月。目の前の気弱でヘタレな男子、安達は、今まで目立った反抗をすることもなく、あたしの言うことを素直に聞いてくれた。乱暴な命令の仕方をしても言うことを聞いてくれたし、自分でも少し理不尽かな、と思うようなことでも、あたしが少し強く言えば従うのが目の前の安達という男子だった。ある意味では、あたしがそれに甘えてやりたい放題やってきた、ということはあるかもしれない。それでも、なんでここに来て突然、こんなに反抗するの?

 「ちょっと安達。あたしの言っていることがメチャクチャって、どういうこと?」

 さすがに、いきなりあんな言葉をぶつけられてはあたしも黙っていられない。必然的に語気が荒くなる。

 「だから言ってるじゃないですか。あるときは、早く相談しろって言ったと思えば、違うときには、解決策を自分で考えられるようにしろって。だから僕は一生懸命、解決策を考えていたのに、そしたらまた、今日はさっさと相談しろって……僕はどうしたらいいんですか!」

 「明日が提出期限なんだから、そこで判断できるでしょ? 急がなきゃいけないってことくらい、わかるよね?」

 「……」

 安達は黙り込んでしまった。生徒会書記をしているあたしは、トラブルなど困ったことが起きたら、まず生徒会長や副会長にいち早く報告することを考える。でも、同時にどうしたら解決できるか(あるいは、被害を最小限に食い止められるか)を考えながら廊下を走る(廊下は走るな、というツッコミは却下)。生徒会室に着く頃には、ある程度解決策がイメージになってきているので、「会長、大変です。こんなことが起きているんですけど、こんなふうにしませんか?」と提案も一緒にしてしまう。そんなあたしを、先輩方は、10年に一度の敏腕書記と評価してくれている。あたし自身も、そのことに誇りを持っている。

 「ねえ、安達。答えてよ。なんで黙ってるの?」

 あたしは、安達に答えを促す。でも、安達はずっと下を向いたまま、全身をぶるぶる震わせている。

 「……織、志織!」

 そのとき、ふと、あたしを呼ぶ声がした。

 「もう、志織ったら!」

 窓際の机に腰掛け、さっきから、あたしと安達のやりとりを聞いていた利奈が、すとんと音を立てて机から飛び降りる。そのままあたしの腕をつかんで強引に引っ張る。あたしはベランダに連れ出された。

 「ちょっと、あたし、安達と話してる途中なんだけど」

 「志織、あんた、安達が何に怒ってるか、わかってないだろ?」

 利奈が言う。図星だった。

 「うん、ごめん。――わかんないよ。あいつがなんで、急に怒り出したのか」

 あたしは正直に答える。

 「そっか。そーだよねぇ。やっぱ、あんたみたいな優等生には、わかんないか」

 利奈は、あたしをなだめようとしているのか、笑みを浮かべながら言う。だが、その笑みが、あたしの癇(かん)に触ってしまう。

 「何なの利奈! その棘(とげ)のある言い方は!」

 「まーまー、そう怒んなって」

 イライラするあまり、ついけんか腰になってしまうあたしをなだめるように、利奈は、一呼吸置くと、言った。

 「あたしは志織と違って優等生じゃないけど、だからこそ、安達の気持ち、わかるよ。安達は、今、あんたの命令が絶対不可能な、矛盾した内容に聞こえてるんだよ」

 「矛盾? 何が、どういうふうに?」

 あたしは、思いっきり不機嫌な顔で利奈に感情をぶつけた。

 「だから、さっき安達が言ってたじゃん。あるときはさっさと相談しろと言われ、またあるときは相談する前に解決策を考えて持ってこい、って言われたら、どうしていいかわかんないって」

 「それのどこが矛盾してんのよ。ケースバイケース、状況判断でしょ。その2つを状況に応じて適切に使い分けろ、って言ってるだけだよ」

 「だから、その状況判断ができなくて安達はパニックに陥ってんの。それができるくらいなら苦労はしないし、加藤なんかにいじめられたりしないんだよ」

 あたしの言っていることが要領を得ないためか、利奈もだんだん語気が荒くなる。あたしは一瞬考え込んでしまった。プリントの提出期限が迫っているときは、急ぐことが第一という判断さえできないなんて……。

 「ねえ、志織。シングルタスクって言葉、知ってる?」

 「なんじゃそりゃ。知らない」

 あたしはまた正直に答える。

 利奈によれば、今から20年くらい前のパソコンは、シングルタスクといい、ひとつの仕事しかできなかったという。今のパソコンであれば、ワードで文章を作ってる途中で、急に計算表を作らないといけなくなったら、ワードを立ち上げたまま、エクセルも立ち上げて同時進行で作業ができる。でも、ウィンドウズ2.0だか3.1だか、利奈もうろ覚えらしいが、昔のパソコンは同時に2つ以上のアプリを起動できなかった。そのため、そのような状況になった場合、いったん作りかけの文章を保存して、ワードをいったん終了させてからエクセルを起動して計算表を作って、それが終わったら、作った計算表を保存して、エクセルを終了させ、再びワードを起動して、作りかけの文章を呼び出してから続きをやるという感じだったらしい。今の時代からは想像もできない世界だが、当時はさぞめんどくさかっただろうと思う。

 「要するに安達っていう人間は、シングルタスクの、昔のパソコンと一緒で、2つのアプリを同時に立ち上げられない奴なんだよ」

 安達をパソコンに例えながら、利奈があたしに説明する。利奈のお父さんは、IT企業で技術者をしているらしく、子どもの頃から利奈は父親にそうした話を聞きながら育った。IT技術者という、いかにもオタクな世界にいる父親から、利奈みたいなヤンキーまっしぐらな娘が生まれるのは不思議な気がするが、これは父親に対する利奈なりの「反抗心」らしかった。

 「マジ? 信じらんない」

 あたしは思わず、顔に手を当てて、大げさに信じられないオーラを出してみる。が、利奈はかまわず続ける。

 「だから、そんな奴に向かって、『さっさと相談しろ』『相談する前に解決策を考えて持ってこい』みたいな、180度正反対の命令を同時にしちゃダメ」

 「正反対じゃないんだってば」

 「あんたは正反対じゃないつもりでも、安達にはそう聞こえてんの。『赤上げて、赤上げないで、白下げないで白下げろ』みたいな、絶対不可能な命令に聞こえちゃってんだよ。あたし、安達の気持ち、わかるよ」

 「そんなの、安達だけでしょ」

 「そんなことないよ。男子にはそういうタイプ、多いんだってさ。2つ3つのことを同時にできる、あたしら女子と違って、男子って不器用なんだぜ」

 あたしの言ったことを、利奈は即座に否定する。そういえば、あたしが今まで一緒に仕事をしてきた男子の学級委員にも、そういうタイプが多かった気がする。これは、あるいは男子という生き物に共通なのかもしれない。

 そうだとすれば、安達には、そのときそのときで最優先のことを、ひとつずつ指示するのがいいということになる。何かあったら早めに相談するよう、もう1度言い直す必要がありそうだった。あたしがそう言うと、利奈は、あたしの顔をびしっと指さして言った。

 「ピンポーン、それ正解。安達はな、あんたと違ってアプリをひとつしか起動できないし、データも全部別ファイルじゃなく上書き保存しかできないんだよ。『さっさと相談しろ』って命令したあんたの中ではそれが生きてるつもりでも、『相談する前に解決策を考えて持ってこい』っていう別の命令をした時点で、それが上書き保存されて、『さっさと相談しろ』はどっかに吹っ飛んじゃってる。だから、もう1回、それを命令し直さなきゃいけないんだよ」

 利奈の言葉は、あたしにとって衝撃だった。世の中にそんな奴がいるなんて考えてもみなかった。でも、利奈の言葉通りだとすれば、あたしには全く理解できなかった、さっきまでの安達の行動も理解できる。直前に命令されたことがすべてだから、プリントの提出期限が明日に迫っても、ただひたすら解決策をひとりで考えていたに違いない。

 「でもさ、利奈。なんとなくわかってきたけど、なんであたしが安達のレベルに合わせなきゃいけないのよ?」

 「仕方ないじゃん。あいつがあんたのレベルに上がってくるなんて無理なんだから。他に方法あるか?」

 落ち着き払った表情で利奈が発した問いに、私はあっさり降参した。本当に持つべきものは親友だと思う。あたしがお礼を言うと、利奈は「じゃ、がんばんな」とあたしの背中を押してくれた。意を決して、再びベランダから教室に戻る。安達は待ちくたびれたのか、すでに自分の席に戻っていた。安達の席に前から回り込んだあたしは、安達の机に両手をつきながら声をかける。安達が顔を上げる。少し怯えたような表情を見て、あたしは申し訳なく思った。

 「安達、さっきはごめんね。あたし、けんか腰になっちゃって」

 「え、あの、その、僕は……別にいいです。気にしてないですから」

 目の前の安達が、精いっぱい強がっているのがわかる。学級委員はクラスの代表、みんなをまとめる立場だから、気持ちを強く持って堂々としなさいというあたしの言葉通りに振る舞っているのがいじらしい。でも、気にしてないと言いながら、思いきり気にしているのが顔に出ている。あたしは笑いそうになるのをこらえ、平静を装いながら言った。

 「安達、あたしが前に『困ったことがあったら早めに相談して』と言って、同時に『相談する前に解決策を考えるようにして』って言ったせいで、頭が混乱した?」

 「……はい。どうしていいか、わからなくなっちゃいました」

 安達は、こくりと頷きながら言った。

 「これからは困ったことが起きたら、余計なことは考えないで、すぐにあたしに相談に来て。いいかな?」

 「はい。……じゃあ、解決策を考えるとかっていうのは……」

 「ああ、それはもう無し。リセット。解決策は、あたしたちで知恵を出し合って考えればいいし、それでもダメならみんなに考えてもらえばいい。先生だっている。でも、いつまでも相談に来てくれなかったら、安達が何に、どんなふうに困ってんのかわからないまま、時間だけが過ぎてく。そんな状態で、期限の直前になって、助けてくださいなんて言われても、こっちも困るでしょ?」

 あたしがそう言うと、安達は少し考えるような仕草をしてから言った。

 「はい、わかりました。今度からそうします。畑山さん、ありがとうございました」

 曇りっぱなしだった安達の表情が少し明るくなったのを、あたしは見逃さなかった。確かにこいつはヘタレでダメ男子だけど、一生懸命頑張って、成長の階段をずいぶん上ってきた。スポンジが水を吸収するように、あたしの言うことを聞いて吸収してくれる素直さも持っている。でも、やっぱり意識して理解しようとしなければこうしてすれ違ってしまう。

 その日、伝えたいことがあるからと、あたしは安達と一緒に帰る約束をした。通い慣れた通学路を、いつものように2人、並んで歩きながら、あたしは言った。

 「今日はホントごめんね。これからは安達のこと、怒るだけじゃなく、ちゃんとわかってあげられるように努力するから、今度のことは許してね」

 安達は、わかりました、と返事をした。昼間、学校で見たときと比べて表情がずいぶん明るくなった。それを見てあたしは少し安心した。

 「でも、自分勝手かもしれないけど、なんか今日はあたし、反抗されたことで、安達に近づけたような気がするの。ケンカも無駄じゃなかった、と思っていいのかな?」

 「はい。無駄じゃなかったと思います。必死で思いを伝えられて、畑山さんにわかってもらうことができて、僕もよかったです」

 学級委員になるまでは、まったく会話をしたこともないどころか、存在すら意識したことのなかった目の前の安達。その表情を見ていて、少し申し訳なくなった。あたしにやりたい放題をされても安達が黙って耐えていたのは、あたしを怒らせると仕事を教えてもらえなくなるという恐怖があったからだろう。でも、とうとう安達の中で、我慢が限界を超えてしまったのだとしたら、今日のように、あたしのほうから歩み寄ることも必要なのだと思い知らされた。

 あたしは今まで、安達が自分に近づいてきてくれることばかり期待していた気がする。あたしはどれだけ、安達のことを理解してあげようと努力していただろうか。自分で思うほどにはしていなかったのではないか。自分の都合ばかり押しつけて、能力いっぱいになりながら努力していた安達に対する思いやりに欠けていたことを反省した。

 同時に、固く閉ざされていた安達の心の扉を、少しだけとはいえこじ開けたのは、あたしだという自負もあった。今後も学級委員を大過なく続けていきたいなら、少なくともこの状態を維持しなければならないとわかっていた。

 少しでも嫌なことがあると、開きかけた心の扉をすぐに閉ざしてしまう安達にとって、あたしと一緒に歩くこの帰り道だけは別らしかった。教室の中ではあり得ないほど、ざっくばらんにいろいろなことを相談してくれる。それに答えるのも、いつしか学級委員の先輩として、あたしの仕事の一部になっていた。

 負けず嫌いのあたしにとって、安達に反抗されたことが悔しくないと言えば嘘になる。でも、学級委員になりたての頃は完全にあたしの言いなりだった安達が、とうとうあたしとぶつかり合うまでになった。「悲し涙じゃなくて悔し涙だと思え」「自分の頭で考えろ」と安達に教えたのはあたしだ。つまり、反抗は安達があたしの言うとおりに成長していることの証でもある。あたしにとって、それは喜ぶべきことのはずなのだ。

 あたしと安達は、お小遣いがピンチで喫茶店に行けないときは、缶ジュースを買い、森本中央公園のベンチに座って30分くらい話してから帰るときもあった。今日も、割とお小遣いがピンチだったので、あたしたちは公園のベンチでしゃべってから帰った。放課後のささやかな楽しみだった。だけど、それだけのことが、あんな大騒ぎになるなんて、この時点で、あたしも安達もまったく思っていなかった。

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