第13話 つながる記憶


 「おい、なんで3千円しかねえんだよ。5千円って言っただろうが!」

 体育館の裏で、加藤のパンチが僕の顔に炸裂する。吹き飛ばされた僕は地面に叩きつけられた。

 「痛いっ! ……これでも必死に集めたんです。これで精いっぱいなんです!」

 「うるせえっ! 言い訳すんじゃねえよ! これじゃゲームソフト買えねえだろうが!」

 倒れたままの僕を加藤の蹴りが雨あられのように襲う。

 「痛い! 痛い! 許してくだ……」

 「誰が許すかっ!」

 仰向けに倒れている僕に馬乗りになり、加藤が僕の顔を何度も殴りつける。僕は助けを呼ぼうとしたが、声にならない。

 そのときだった。

 「……にやってんのよ、あんたたち!」

 甲高い声がした。その瞬間、僕を押さえつけていた「重み」が急に消えた。

 「やべえ、アントワネット様だっ! 逃げろっ!」

 さっきまでの勢いがウソのように、加藤と山下は脱兎のごとく逃走した。

 一瞬の出来事に僕は呆然とする。ただ何となく、自分が助かったらしいことだけが理解できた。すると、足音がして、女の子がひとり、駆け寄ってきた。さっきの甲高い声の主らしい。

 「大丈夫?」

 「は……い。ありがとうございました」

 「立てる?」

 「はい。大丈夫で……痛っ!」

 突然走る激痛に、僕が悲鳴を上げるのを見て、その女子は

 「全然、大丈夫そうじゃないね」

と言った。僕に手を差し出し、つかまるように言ってくれる。僕はその手につかまりながら、体育館の壁伝いになんとか立ち上がった。

 「ケガしてるじゃない? 保健室、行きましょ」

 僕は、申し訳ないと思いながらも、その女子に肩を借り、いつもの倍くらいの時間がかかってようやく保健室に着いた。放課後だったが保健の先生はまだ残っていた。ショックで動転していた僕に代わって、その女子が保健の先生に事情を説明してくれた。

 「じゃあ、先生、後、よろしくお願いします。あたし、ちょっと用事がありますので」

 そう言うと、その女子は名前も名乗らないまま、保健室を出て、廊下へと消えていった。

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 「あの時、僕を助けてくれたのって、畑山さんですよね?」

 小学生の頃の、辛く、忌まわしい記憶。それを話し終わると、安達は突然そう聞いてきた。あたしは理由を尋ねる。

 「あのとき、僕、聞いたんです。加藤たちが『やべえ、アントワネット様だっ! 逃げろっ!』って言ったのを……。2年生に上がってこのクラスになって、畑山さんのあだ名が『マリー・アントワネット』だと知ったときから、僕、確信してました」

 なるほどね。あたしは、自分の記憶も小出しにしてみる。

 「あれは小学校6年生の、秋――だったよね? 確か、夏休みは終わってたような」

 「はい。6年生の10月でした」

 「安達を助けたその女子って、そのとき、半袖姿じゃなかった?」

 「確か、そうだったと思います」

 「あの日は、季節外れの暖かさだったのよね。とても10月と思えないような。だからあたし、あの日は半袖姿で登校したの」

 あたしは、自分の記憶している内容を安達に話しながら、少し驚いていた。ああ、確か、そんなこともあったよね、という程度に薄れかけていた記憶。もう二度と会うこともないと思っていた記憶の中の弱々しかった男子。それが、目の前の安達だなんて。

 「あのとき、助けてくれたお礼を言いそびれたまま、僕、いつかあの女子に会ったらお礼を言おうって思ってました。……畑山さん、ありがとうございました。あのとき、助けてもらえなかったら、僕、間違いなく大ケガしてたと思います」

 「気にしないで。あまりに酷いことが行われているのを見て、許せなかっただけだから」

 あたしは正直に答えた。助けた男子の名前なんて興味がないから聞かなかったし、別に感謝してほしいなんて気持ちもなかったから自分も名乗らなかった。ただ、児童会委員をしていたあたしは、校内のいざこざは避けたかったし、ひとりでも多くの児童が楽しいと思えるような学校にしたい、それだけだったからだ。

 「でも、畑山さん、なんであのとき、体育館の裏なんか通りかかったんですか?」

 「あたし、小学校のときも児童会委員だったんだけど、あの学校、児童会室が校舎の中になくて、プレハブだったの。そこに行くには、あの体育館を通る必要があって、確かあの日は、児童会室に書類を持って行った帰りだったかな。でも酷いよね、プレハブって。夏は暑いし冬は寒い。もう最低!」

 「そうだったんですね。……でも僕にとって、畑山さんは、僕がピンチになったら現れて、助けてくれる幸運の女神様のようなものです。あのときもそうだったし、学級委員になったばかりのときも、僕が途方に暮れているときに忘れ物を取りに来て、助けてくれたし……」

 「あれは偶然、たまたまだから。でも、男子から幸運の女神様と呼ばれるのは悪くないな。少なくともマリー・アントワネットよりは全然いいよ」

 あたしはそう言って、思わず笑ってしまった。

 「でも安達、そんなつらい体験を、よく話してくれたね」

 「どうしてもお礼が言いたかったんです。あのとき助けてくれた女子が誰かわかって、すっきりしました」

 「そう? 良かったじゃない? じゃあ、二度あることは三度あるってわけじゃないけど、助けついでに、もう1回助けてあげる。今度の事件、犯人がわかったら、あたしたち3人組で痛い目に遭わせてやるから。二度と安達をいじめようなんて気が起きないように」

 「本当に、いつもいつもすいません。お願いします」

 「気にしないで。自分ひとりの力で限界があるときは助けを求めていいんだよ。助けてくれる人は必ずいるし、助けてもらうのは恥ずかしいことじゃない。いつかお返しするつもりでいてくれれば。その代わり、しっかり前を向いてね。くどいようだけど、悲し涙じゃなくて、悔し涙だよ。いい?」

 あたしが諭すようにそう言うと、安達は小さく「はい」と言って頷いた。

 「それと、話は変わるんだけど、これは利奈からの提案。安達が杉本先生からプリントをもらったら、いったんあたしに預けてくれる? あたしが保管してれば、あいつらも手が出せないと思って。せっかく安達が仕事を覚えてきたのに、また半人前扱いに戻すみたいで、すまないけど我慢してくれるかな?」

 2人の間に一瞬の静寂が訪れた。これが、いつもの教室の中だったら、「あ、今、鬼が通った!」なんて冗談のひとつも言うんだけど、ここはそんな雰囲気ではなかった。少し間を置いて、安達が口を開く。

 「……仕方ないですね。僕も、その方がいいと思います。これからは畑山さんに預けます」

 安達は、利奈からの提案に素直に従う。だけど、西日に照らされた安達の顔に、ほんの一瞬、悔しそうな表情が浮かぶのをあたしは見逃さなかった。同時に、それを見て少し安心した。学級委員になりたての頃のコイツは、何があっても逃げてばかり、黙ってばかり、泣いてばかりだった。それが、今、半人前扱いするとこうして悔しさを表情に出すところまで来た。悲し涙じゃなくて悔し涙だと、何度もしつこく言って聞かせたのが、ようやく花開いてきたんだと思うと、ここまで厳しく育てた甲斐がある。 これを悔しいと思えるなら、コイツは立派な学級委員になれる。

 「それともうひとつ。これ、安達の物でしょ」

 あたしは、そう言って例の大学ノートをテーブルの上に置いた。

 「わっ、これ探してたんです。なんで畑山さんが持ってるんですか?」

 「資料室に置き忘れてたんだって。小夜が見つけてくれて、ゆっきー経由であたしが預かったの。渡してくれって」

 「ありがとうございます。……まさか、畑山さん、見たりしてないですよね?」

 「さあ?」

 あたしはとぼけて知らないふりをした。でも、こういう演技はあたしもあまり得意ではない。

 「え? 見たんですか?」

 「ごめんね、安達。つい誘惑に負けちゃって」

 あたしは白状してしまう。どのみち、バレたところで安達があたしに何かできるとは思えない。

 「人のノート、見ないでください!」

 「だから謝ってるじゃない? それに、置き忘れる方も悪いでしょ。見られたくない物は置き忘れないようにね、安達くん?」

 「……ごめんなさい」

 目の前の安達は、また謝る。何も悪くないのに、ホント、気が弱いんだなぁと思う。

 「でも、見ちゃったのは悪かったけど、安達、陰でこんなに努力してたんだね。利奈やゆっきーも感心してたよ。あと、小夜もね」

 「わっ、なんでみんな見てるんですか? 僕のノートなのに」

 「いいじゃない? あんたのその努力をみんなが認めてくれたんだよ。感謝するところだと思うけど?」

 あたしは率直に思ったことを口にする。確かに盗み見は良くないけど、こうして人知れず、日の当たるときも当たらないときも、こつこつ努力する人を見ると、あたしはつい、助けてあげたくなる。それはあたしの友達も同じだ。斜に構えているように見えるけど、義理堅く、筋を通す利奈。おっとりしているように見えて、驚くほどの正義感を見せるゆっきー。曲がったことが嫌いで、淡々と、自分の信じる道を歩く小夜。それぞれ個性はあるけれど、みんな、努力家なのは共通している。

 「努力をわかってもらえたのは嬉しいです。今度から、置き忘れないように気をつけます」

 「うん。じゃあ、そろそろ帰ろうか。あ、茶碗貸して。あたし洗うから」

 あたしは2人分の湯飲み茶碗を洗い、片付ける。その後、あたしは安達とともに応接室を出る。浅田先輩、さつき先輩にお礼を言う。

 「志織ちゃん、うまくいきそう?」

と心配そうに尋ねるさつき先輩に、あたしは

 「はい。大丈夫です!」

と元気に答えた。先輩方の表情が緩むのがわかった。

 「さすがは志織ちゃんね。安達くんをよろしく」

と、さつき先輩があたしに言った。

 あたしと安達は、生徒会室を出て、念のため教室の施錠を確認すると帰宅の途に着いた。いつものように、通い慣れた通学路を並んで歩きながら。

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