第9話 消えた書類
どうしよう、ない、どこにも、ない……
僕は頭を抱えてしまった。今日午前中、杉本先生から預かったプリントを教室の自分の机の中にしまっていたはずなのに、見つからないのだ。昼休みも探し、今、5時限目が終わった後の休み時間もまた探す。だが何度探しても結果は同じだった。どうやら本当になくしてしまったようだ。どうしよう……
僕は、プリントをもらったときに、いつも「後で見ればいいや」と思い、なんでも無造作にしまい込む自分の癖が恨めしかった。幸い、畑山さんにはまだ紛失を気づかれていないが、「この学園のことで知らないことはない」と自分で豪語する畑山さんのことだ。発覚は時間の問題だろう。
「どうしたの? 青い顔して。あ・だ・ち・く〜ん」
加藤がまた気持ち悪い声で話しかけてくる。先日、畑山さんにあれだけこっぴどく言い負かされているのに、懲りない男だ。
「さっきからぁ、な〜にずっと、探し物ばっかりしてるのかなぁ?」
「加藤には……関係ないじゃないですか」
「そんなことぉ、いわずに、教えてよぉ〜」
根負けした僕は、プリントをなくしたことを加藤に告げた。
「あらら〜そりゃ大変だ。怒れるマリー・アントワネット様によって、キミはきっと処刑だね。……って、あ、そっか、処刑されるのはマリー・アントワネットのほうだったか」
僕は黙っていた。どう反応したらいいかわからない。
「で、安達。怖〜いアントワネット様に、キミ、プリントなくしましたって、いつ白状するの?」
「今日中かなあ」
「あっそ。頑張れよ。遠くから見守ってやるぜ。お前がアントワネット様にシメられたときは、慰めてやるからな」
相変わらず、加藤の言ってることはなんの慰めにもならない。役に立たない奴だな、と僕は心の中で毒づいた。
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放課後。生徒が三々五々、家路へ、部活動へと散っていく中、僕は教室に残っていた。勇気を出して畑山さんのケータイに、話があるから残ってくれるようメールしたのだ。加藤と山下は、用がないならさっさと帰ればいいのに、興味津々の様子で遠くから事態の推移を見守っている。生徒会の用事で教室を出ていた畑山さんが、しばらくして戻ってきた。
「安達、お疲れ。待たせてごめんね。ところで、用って何?」
畑山さんは、僕に気軽に話しかけてくる。僕は、どうか怒られませんようにと願いながら、恐る恐る、プリントをなくしたことを畑山さんに告げる。畑山さんの表情が少し険しくなる。
「そのプリント、いつもらったの?」
「今朝です」
「どんな内容だったか覚えてる?」
「すみません。後で内容を見ればいいやと思って、しまい込んだままなくしてしまったので、覚えてない、というより見てないです……」
「で、安達。どうするの?」
「え?」
「え、じゃないでしょ? なくした以上、どうするか考えるのもなくした人の仕事だよ」
そ、そんなこと言われても……第一、それがわかるくらいなら相談なんてしないよ。僕は心の中でそう毒づいたが、畑山さんには勝てそうもないので口には出さなかった。僕がオロオロするばかりなのを見て、畑山さんは、やれやれといった表情で軽く溜め息をつくと、自分のカバンからケータイを取り出した。
「もう一度、杉本先生にお願いしてプリントもらうか、他のクラスに分けてもらうか。それくらいでしょ、解決方法は。でも、あのズボラでいい加減な杉本先生に借りを作るってのもなんだかシャクで、悔しいよね。先生がなにかやらかしたときにいつでもお説教できるように、借りは作りたくないのよ」
そう言うと、畑山さんは、手にしているケータイのアドレス帳から、誰かの番号を呼び出すと、電話した。僕が事態を飲み込めないでいるうちに、畑山さんの電話が終わった。
「B組の委員の小夜が、今ちょうど資料室でそのプリントをコピー中なんだけど、ついでにうちのクラスの分もコピーしてくれるんだって。すぐできあがるらしいから、安達、今すぐ資料室に取りに行くよ。一緒に来て!」
「え、今からですか?」
「今行かないで、いつ行くの? プリント、資料室にほったらかしにできないでしょ?」
「そうですけど……」
「安達! だいたい、プリントなくしたのはあんたでしょ! 自分がなくしたくせに、なに口答えしてんのよ! いいからさっさと来なさい!」
「あ、はいっ! すいません! ごめんなさい!」
僕は必死に謝ると、さっさと歩き出した畑山さんの後を追いかける。一部始終を見ていた加藤がいきなり笑い出す。それがよほど癇(かん)に障ったのか、僕の前を歩いていた畑山さんが一瞬、歩みを止める。後ろを振り返って加藤をキッと睨み付け、
「何がおかしいのよ!」
と怒鳴りつける。加藤は慌てて目を逸らし
「いえ、何でもありませ〜ん」
という。本気で畑山さんのことが苦手らしい。教室を出て、廊下を小走りに畑山さんに追いついた僕は、
「畑山さん、ごめんなさい」
と、もう一度謝る。
「あんた、自分がプリントなくして、あたしに助けてもらう立場だって、わかってる?」
僕は、消え入りそうな声で「……はい」と答えた。
「本当ならあたしたちがプリントをもらって、コピーし直さなきゃいけない立場なのに、小夜が助けてくれようとしているっていうのは、わかるよね?」
僕は無言で頷いた。だが、畑山さんにはそれが不満だったらしく、
「安達! 返事はちゃんとする!」
と言われた。僕は慌てて「はい」と返事をした。
「誰が出入りするかわからない資料室に、うちのクラスのプリントを置きっぱなしにして、もしまたなくなったらどうするの? それくらい理解してよ」
僕は、またごめんなさいと謝った。いつになくきつい言い方。やっぱり畑山さんは怒らせると怖い。だが、僕のミスだけに何も言えなかった。ヘタに口答えなどしようものなら、今度はどれだけこっぴどく言い返されるかわからない。
「もらったプリントは、安達ひとりの物じゃなくみんなの物なんだから、これからはなくさないよう、保管方法は工夫して。他のプリントとは区別して、見えやすく、取り出しやすい場所にしまうとか、考えてみて。いいアイデアが浮かばなかったら、相談して」
「……はい」
消え入りそうな声で僕は答える。畑山さんは、怒るときはきつく怒るけど、最後はこうしてアドバイスをくれる。「いつでも相談して」とも言ってくれる。実際、僕は困ったことが起きるとすぐに相談するようにしている。そうこうしているうちに、僕たちは資料室に着いた。
「やっほー、小夜。隣のクラスなのに、久しぶりに会うね」
「ホント、志織、久しぶりだね。あ、安達くん。C組の委員になったって、ホントだったんだね」
東原さんが、僕を見ながら珍しそうに言う。隣で作業をしていた男子が軽く会釈する。どうやらB組男子の委員らしい。
「え、東原さん、委員なんですか?」
「あれ? 知らなかったの? 雪乃あたりに聞いてるかと思った。安達くん、1年のとき、同じクラスなのに、ほとんどしゃべらずに終わっちゃったもんね」
そのとおりだった。僕は、彼女――東原小夜さんと1年の時、同じクラスだったのに、彼女はおろか、女子とほとんど(というより、全く――)しゃべらないで終わってしまった。畑山さんと一緒に学級委員になるまでは、女子の顔もまともに見ることができなかったのだから。
「あ、わかった! プリントなくしたの、安達くんだな?」
「な、なんでわかるんですか?」
「しっかり者の志織がそんなドジ、するわけないじゃない?」
そう言われた僕は、返す言葉がない。
「でも、こうして安達くんとしゃべれるのも、C組男子の恐怖のあみだくじのおかげだね」
「わっ、東原さんも知ってたんですか……」
「もうたいていの人は知ってるんじゃない? っていうか、私がうちのクラスの男子から最初に聞いたのを、雪乃に教えたんだけどね」
それで、杉田さんが知って、あとは畑山さん、西野さんと話が伝わっていったのだと、このときようやくわかった。
「安達、コピーできてるよ。運ぶの手伝って!」
畑山さんが僕を呼ぶ。僕は慌ててコピー機のところまで駆け寄り、畑山さんからプリントを受け取る。そのまま運ぼうとすると、
「コピーができたら枚数を確認する! ウチのクラスの全員分、30枚あるか、機械任せにしないで自分でも数えて確認してって、こないだも言ったでしょ!」
と言われる。気が動転してしまい、プリントを数える手順を飛ばしてしまった。僕は畑山さんに謝りながら、慌ててプリントの枚数を確認する。その様子を見ていた東原さんが、いたずらっぽく笑っているのがわかる。畑山さんに厳しく叱られる僕を見て、おもしろがっている。
「あんたも小夜にお礼言いなさいったら」
まだプリントの枚数を確認し終わらない僕に、畑山さんが注意を促す。僕は「待ってください。まだ数え終わってないです」と状況を説明したが、畑山さんには「数えるのはいつでもできる。小夜にお礼は今しか言えない。お礼が先でしょ!」と言われてしまう。それもそうだと思った僕は、「はい。ありがとうございました」と東原さんにお礼を言った。
「気にしなくていいよ。1年のとき、同じクラスだったんだし。これからも委員同士、よろしくね」
東原さんは笑顔で答えた。屈託がなくていい人だ。こんなことなら去年、もっと話しておけば良かったと、今さらながら思う。僕は、東原さんに重ねてお礼を言う。ようやくプリントの枚数を確認し終えた僕は、畑山さんの後に続いて資料室の出口に向かう。
そのとき、東原さんが僕を呼び止め、手招きする。僕はプリントを持ったまま、再び東原さんのもとに走る。畑山さんに聞かれないようにという配慮なのだろうか、東原さんは僕に小声でささやいた。
「志織のこと、気が強くて怖いと思うかもしれないけど、根はいい奴だから。とにかく、あいつは怠け者、努力しない人、ウソをつく人が大っ嫌いなの。一生懸命がんばる姿勢を見せて、誠実に、正直に仕事をしたら、絶対に志織は認めてくれるし、助けてくれるよ。安達くん、委員初めてだから大変だし、志織にも厳しくされてるみたいだけど、いま私が言ったことをよく守って、後は志織の言うことをよく聞いてがんばって!」
「はい、ありがとうございます」
東原さんの言うことはよく理解できる。実際に、僕が間近で見た畑山さんの性格は、東原さんの言うとおりだった。怠け者、努力しない人、ウソをつく人が大嫌い。指導は厳しいけれど、一生懸命がんばれば、たとえ結果が出なくても認めてくれるし、困って泣きついたら結局、助けてくれる。そのことを改めて教えてくれた東原さんに、僕は精いっぱいのお礼を言った。東原さんは、「じゃ、がんばってね!」と励ましてくれた。僕は、再び畑山さんが待つ資料室の入口まで歩くと、一緒に資料室を出た。
「プリントの中身は見た?」
「はい」
「使用済み切手やテレホンカードを集めるので、生徒の家族に協力をお願いする内容でしょ。だから今回、プリント自体は、先日の交通安全と同じで配って見てもらえば終わり。学級会のときに、切手やテレカの回収は呼びかけるから、そのつもりでね」
「わかりました。このプリントも、この時期、毎年あるものなんですか?」
「うん。覚えといて。ところで、さっき、小夜、安達に何て言ったの?」
「え、あの、それは……」
「あたしに言えないようなこと?」
別に、畑山さんに言えないような内容でもないと思ったし、東原さんと「誰にも言わない」なんて約束をした覚えもないので、僕は、東原さんに言われた内容をほぼそのまま、畑山さんに話した。
「あはは。なんだ、そんなことか。そのとおりだよ。小夜も安達のこと、ちゃんと見ていてくれるから、がんばらなきゃね」
畑山さんは楽しそうに笑った。さっき、僕を怒鳴りつけたときの怖い表情は少しもなかった。どうやら機嫌が直ったようだ。僕たちは、あっという間に教室に着いた。加藤たちはすでに帰ったようで、誰も残っていない。
「安達、いつも、もらったプリント、どんなふうに保管してるの?」
畑山さんが僕に尋ねる。僕は、自分の机の中に、適当に突っ込んでいる、と正直に答える。畑山さんの顔に、やれやれといった表情が浮かぶ。
「そんなんじゃなくすに決まってるでしょ。じゃあ、これ使って。委員やってる間は貸しておくから、終わったら返してね」
そう言って、畑山さんが僕に差し出したのは、A4版の書類を入れるクリアフォルダだった。いかにも女子の持ち物らしく、かわいらしいウサギのイラストがついている。僕は、これを使うのかと思うと少し気恥ずかしくなった。加藤なんかに見つかったら何を言われるかわからない。
「こんな、女の子らしいものを僕が使うんですか?」
「仕方ないじゃない。これしか持ってないんだし。文句言うなら貸してあげないよ。またプリントなくしてもいいの?」
絶対に嫌です、と僕は全力で答える。畑山さんは、いたずらっぽく笑いながら僕を見て、言った。
「こういうわかりやすいものに入れて、机の中なんかに突っ込んでないで、例えば、カバンの、教科書やノートとは別のところに入れておく。そしたら絶対、なくならないよ」
畑山さんがそう言うので、僕は遠慮なく借りることにした。
「安達は今日、プリントをなくしたことを隠さないで、自分から言ってきてくれたよね。その調子で、困ったことはなんでも相談してきてね。プリントをなくしたことよりも、黙っていてもっと状況が悪くなるほうが怖いから。早く言ってきてくれれば解決する方法はいくらでもあるし、今日みたいにラッキーが重なって、トントン拍子に解決することもあるんだけど、時間が経てば経つほど、方法も限られてきて、解決が難しくなるの。早めに相談はすべての基本だから、今日の姿勢を忘れないでね」
僕はお礼を言った。てっきり怒られると思ったが、まさか褒められるとは想像もしていなかった。ミスをするよりも、その後にどうそのミスと向き合えるかの方が大切、と畑山さんは言いたかったのだろうか。
「でも、ホント今日は小夜たちにコピーしてもらえて、ラッキーだったな。あとでちゃんとお返ししておこうね。じゃあ、また『玉井』まで一緒に帰ろうか」
僕たちは、いつものように校門を出て歩き出した。初めて2人一緒にこの門を出たときのドキドキ感は少しだけ薄れたけど、今も基本的にやむことがなく続いていた。僕は、とにかくピンチを無事乗り越えられて、安堵していた。
<一生懸命がんばる姿勢を見せて、誠実に、正直に仕事をしたら、絶対に志織は認めてくれるし、助けてくれる>
東原さんの言葉に、心の中で頷きながら。
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通い慣れた通学路。1人で帰るときは長くて退屈なのに、畑山さんと一緒なら短くて楽しい。そんないつもの通学路で、僕は、勇気を出して聞いてみることにした。
「畑山さん。僕、これからも、一緒に帰っていいですか?」
すると、畑山さんはおかしそうに笑いながら言った。
「何言ってんの? 今だって一緒に帰ってるじゃない?」
「いや、その、そうじゃなくて、その……」
「何よ、安達。言いたいことがあるならハッキリ言ってよ」
僕は、そう言われたものの、いざ伝えようとすると言葉にならない。
「その、なんて言うか……最近、畑山さんと一緒だと、この道がいつもと違って見えるんです。なんかきらきら輝いているような気がして……」
僕は勇気を振り絞って言う。いつもなら打てば響くように言葉を返す畑山さんが、興味津々といった表情で僕の次の言葉を待っている。
「それに、誰にも邪魔されることもなく、畑山さんに、いろんなことを聞けて、いろんなことを教えてもらえる、この帰り道が最近、なんか待ち遠しくて」
「へえ、そうなんだ。あたしなら別にいいよ。元々誘ったのはあたしなんだし。もちろん、時間が合えばだけどね」
僕が勇気を振り絞って、うめくように吐き出した言葉に対し、畑山さんは事も無げに答える。悔しいけど、話術のレベルが全然違う。いつも女子同士でボケツッコミのような会話をしていて、コミュ力が高い畑山さんにとって、僕が相手では物足りないのかもしれない。
「僕なんかで、ホントにいいんですか?」
「いいんだって。嫌なら自分から誘ったりなんて、するわけないじゃない?」
畑山さんはそう言いながら笑っている。畑山さんは、学校で女子同士で話しているときにこの笑顔を見せることはあるが、僕以外の男子に見せることは絶対にない。「森本のマリー・アントワネット」と言われ、その気の強さで学園中の男子に怖れられている、目の前のこの女子――畑山志織さん。そのとびっきりの笑顔を、男子では今、僕だけが独占している。そのことに対する優越感が、僕の中に少しずつ芽生え始めていた。
いったい何なんだろう。この不思議な気持ちは……。