第7話 奇跡の帰り道


 畑山さんの突然の言葉に、僕は慌てふためいた。それは全く予想もしない、衝撃的な言葉だった。

 「い、一緒に、か、か、帰るって……誰と誰がですか?」

 当たり前のことを聞き返す僕。それくらい狼狽(ろうばい)していた。

 「そんなの、あたしと安達に決まってんじゃない? 他に誰がいるのよ」

 さも当然という口ぶりで、畑山さんはあっけらかんとしている。畑山さんは、いつも西野さんや杉田さんと一緒に帰っているが、2人は部活動をしていて、学級委員の仕事を終わった後の畑山さんとは帰宅時間が合わない。部活組と一緒に帰るには早過ぎだし、帰宅組と一緒に帰るには遅すぎるのだ。部活組を待つという手段もないではないが、今日はさっきの書類を片付けなければならないため、そうもしていられないらしい。

 僕は教室の時計に目をやった。午後5時半を少し過ぎていた。

 「途中まで同じ方向なのに、わざわざ別々に帰るなんて寂しいじゃない? 安達が、どうしても嫌なら、無理にとは言わないけど」

 どうしても嫌ならいい、という棘(とげ)のある表現で畑山さんは僕に聞く。これで嫌だと言えば、僕は畑山さんを強く拒絶したことになる。事実上、ハイとしか答えられない誘導尋問みたいなものだ。

 しかも、帰り道でいろいろ話しておきたいことがあるしね、と畑山さんは付け加える。僕は驚いた。さっきあれだけしゃべっておいて、まだ言いたいことがあるなんて。女子ってなんておしゃべりなんだろうと思ったが、怖くて言えなかった。

 「安達。あたしのこと、おしゃべりな奴だと思ってるでしょ」

 本心を言い当てられ、僕は言葉に詰まる。

 「女の子って、いつでもおしゃべりで、食いしん坊な生き物なの! わかったら、さっさと行くよ!」

 畑山さんの強気の姿勢に流されて、僕は結局承諾していた。帰り支度を整え、僕たちは教室を出る。僕が教室に鍵をかけた後、2人、並んで歩き出す。職員室の隅にあるキーボックスに鍵を返し、校舎の外に出る。すでに5時半を過ぎ、鍵はかけられていないものの、校門は閉ざされていた。こんな遅い時間に帰ったことのない僕は、校門が閉まっているのを、休日以外では初めて見た。

 畑山さんに門を開けるよう言われた僕は、校門を開ける。2人が通り抜けると、また門を閉める。こんな弱っちぃ僕でも、畑山さんよりは腕力、あるんだろうか。そんなくだらないことを考えながらきょろきょろと周囲を見回す。その様子がよほどおかしかったのか、畑山さんが笑う。

 「なにきょろきょろしてんのよ? それじゃあまるで不審者じゃない?」

 「え、いや、誰かに見られたりしたら、まずくないですか?」

 「何がまずいの?」

 畑山さんは、あっけらかんとしている。2人は、同じ方向に歩き出した。

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 森本学園中等部に入学して、はや1年。週末や祝日を除いて、毎日歩く通学路。春夏秋冬、それぞれに違った表情を見せながらも、僕にとって何の変哲もなく、代わり映えもしない通学路。ありふれたいつもの道を歩きながら、僕は、今、眼前で展開している出来事が、現実とは信じられなかった。

 つい1か月前、いや、学級委員に選ばれるつい1週間前まで、女子と話すどころか顔もまともに見ることのできなかったこの僕が、今、あろう事か、女子と一緒に通学路を歩いて帰っている。しかも一緒に歩いているのは、「森本のマリー・アントワネット」と呼ばれ、気の強さは中等部一とまで言われる畑山さん。どう見ても、僕の人生で最も遠いところにいると思っていた女子なのだ――。

 畑山さんは、どんな考えがあってこんなこと、しているんだろう? あまりの急展開に、僕の頭は混乱の極致にあった。

 「どうしたの? 安達」

 「こ、これ、誰が見てもデートじゃ……」

 「そんなわけないでしょ。一緒に帰ってるだけじゃない?」

 「こんなところ、誰かに見られたら……」

 「そんなに心配することかな? あたしたち、別に悪いことしてるわけじゃないんだから。その、オドオドするのが安達の良くないとこ。もっと堂々としなさいったら」

 畑山さんが僕のそばでそう言っているが、なんだか上の空だった。僕の胸は、さっきからずっと高鳴っている。

 「ひとつだけ言っておきたいことがあるの。さっき、教室で泣いてたとき、安達は言ったよね。『何もできない自分が悲しい』って」

 畑山さんは、教室にいるときと同じように話しかけてくる。僕は、はい、と返事をする。

 「気持ちを抑えられないときは、別に泣いてもいい。涙は気持ちをきれいにしてくれるから。あたしたちの祖父母の世代みたいに、男の子は人前で泣いちゃいけないとか、そんなこと言うつもりもない。でもね、悲しくて流す涙からは、何も生まれないよ」

 僕はどう反応したらいいかわからず、うつむきながら聞いていた。畑山さんは、まっすぐ前を見て歩きながら、時折ちらちらと僕のほうに顔を向けつつ続ける。

 「それに比べて、悔しくて流す涙からは力が生まれる。次は勝ってやろう、だったり、同じミスを繰り返さないよう努力してみよう、だったり、憧れのあの人に少しでも近づこう、だったり、いろいろだけど、どっちにしても、悔しさは明日への力になる。だから安達、泣いてもいいけど、悲しいなんて絶対言わないで。心の中では悲しいと思っても、せめてあたしやみんなの前では、悔し涙だと思うようにして」

 そんなこと言われても……。どうしたらそんなことができるのかわからなかった。僕の戸惑った表情を察知したのか、畑山さんは

 「難しいようだったら、口に出してみればいいのよ。これは悲し涙なんかじゃない、悔し涙なんだって」

と言った。

 「それは、強がれってことですか」

 「強がるんじゃなくて、気持ちを強く、前向きに持つってこと!」

 「その違い、よくわからないんですけど……」

 「それなら、強がるでもいいよ。とにかく、人前では強がるの。学級委員はクラスの代表、みんなをまとめる立場でしょ。その委員がオドオドしてたら、クラスのみんなも不安になっちゃう。だから、みんなを不安にさせないためにも、学級委員は人前では堂々としていなくちゃだめ。いい?」

 言っていることは、頭ではよく理解できるが、自分の気持ちがついてくるか確信が持てないまま、僕は、弱々しい声で、はいと返事をした。教室なら聞き取れるであろうその声を、外の雑踏の中で畑山さんはちゃんと聞いてくれただろうか。

 目の前の横断歩道の信号が赤になり、僕たちは立ち止まる。周りの人に聞かれていないのを確認すると、僕は気持ちを振り絞るようにして聞いてみる。

 「僕には、畑山さんのような知識も、経験も、度胸もありません。『逃げないで、精いっぱい努力する』だけしかない僕に、学級委員、務まりますか」

 「大丈夫だよ。十分、務まる」

 畑山さんは即答した。

 「もちろん、学級委員を何度も経験して、仕事もわかってる人が『逃げないで、精いっぱい努力する』だけだったら、あたしは怒るよ。でも、安達の場合、初めてなんだから、それがあれば十分だし、それで務まるように、後はあたしが何とかするから」

 畑山さんは、何かを決意するようにきっぱり言った。

 「あたしが何とかするって、どういう意味ですか?」

 僕は遠慮なく尋ねる。

 「あら、忘れちゃった? この前言ったでしょ? あたしが全力でサポートするって。だからとりあえず、何があってもやりきるんだっていう気持ちだけは持って。気持ちだけは、いくらあたしでも代わってあげられないからね。気持ちさえ前向きに持てば、たいていのことは何とかなる。10個、物事があるとしたら、……そうね、5個か6個くらいは気持ちで何とかできるよ」

 僕が返事をしかけたところで信号が青になった。横断歩道を渡ると森本中央公園にさしかかる。僕は学校からの帰り道、いつもなら通学路の途中にあるこの公園の入口の手前で右折し、公園を左に見ながら自宅を目指す。ここで右折せず、公園を右に見ながら通り過ぎると『玉井』がある。そこで右折し、『玉井』と森本中央公園の間の道を進んでも自宅までの所要時間は全く変わらないが、人混みや喧噪が苦手な僕は、普段、できるだけそのルートは避けるようにしていた。そんな僕が、なぜ今日に限って苦手なこのルートを通る気になったのか、わからなかった。

 「着いたね。安達の家は、どっちなの?」

 『玉井』に着いたところで畑山さんが言った。

 「ここから右折です」

 「そう? あたしはこのまままっすぐ、中央駅に行く途中なの」

 中央駅とは、地元を走る私鉄の森本中央駅のことで、森本学園の生徒はこう呼んでいた。電車通学の生徒は中央駅で下車し、この道を歩いて通学している。

 「あ、そうだ、大事なこと忘れてた!」

 畑山さんは、鞄から手帳を取り出すと、挟んでいた小さなメモを僕に渡した。そこには11桁の数字があった。

 「畑山さん、これ……」

 「うん、あたしのケータイ。これから一緒に学級委員やるんだもん。必要でしょ。家に帰ったらでいいから、安達のケータイに登録して、それから試しにメールして。他の男子にはそれ、絶対教えちゃダメだよ」

 「わかりました。本当に、今日はありがとうございました」

 「じゃあ、また明日ね!」

 帰りのあいさつをして、僕たちはそれぞれ別の道に家路を急いだ。僕にとって、それは生まれて初めての夢のような時間だった。

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