第5話 はじめてのおしごと


 畑山さんは、僕のことなどお構いなしにさっさと歩き始める。僕は慌てて教室の鍵を持ち、後を追う。待ってくださいと僕はとっさに言ったが、畑山さんは全く気にしていない。悔しいけど、僕は教えてもらう立場。しかも、やっと畑山さんの機嫌が直ってここまで来れたのに、また機嫌を損ねたらどうしようもなかった。

 廊下に出た僕は、教室のドアに鍵をかけるべきか迷った。少しの間だから大丈夫と思う反面、何かあったら……と心配にもなったので、畑山さんに聞いてみる。足早に歩いていた畑山さんは歩みを一瞬止め、振り向きながら、一応かけといて、と言う。僕は言われたとおりに鍵をかける。先を歩いている畑山さんに小走りでようやく追いついた。

 向かう先は資料室だ。そういえば、職員室の隣に何か部屋があったような気がする。たまに人が出入りしているのも見かけるが、看板もかかっていないその部屋が何に使われているのか、今まで考えたこともなかった。

 「そのプリントだけど、中身をよく見て。ひとつは春の交通安全運動。要するに、学校の行き帰りに事故に遭わないように気をつけましょう、って生徒の保護者に呼びかけるものでしょ。もうひとつは秋の文化祭の希望を聞くアンケート。どっちも全員に配るんだけど、交通安全のほうは配って読んでもらえば終わり。文化祭のほうは、みんなに家に持って帰ってもらい、書いてもらって、月曜日に集めて先生に渡す。 だから、両方ともうちのクラス全員分、コピーを取らなきゃいけないんだけど、コピー機があるのが資料室なのよ」

 畑山さんは説明を始めた。歩く時間も有効活用とは、僕とはひと味もふた味も違う。資料室の使われ方が、森本生活1年にして初めてわかる。畑山さんによれば、このプリントは2種類とも、毎年、この時期になったら必ずあるものだから、覚えておくといいらしい。

 しばらく歩いて、僕たちは資料室にたどり着く。がらりと、畑山さんがドアを開けて中に入る。僕は続けて入った。

 「あれ? 誰もいない。いつもここは混んでるのに、珍しいね」

 そう言って畑山さんは、コピー機のある部屋の奥に進んだ。初めて入る資料室がもの珍しくて、僕がボーッとしていると、

 「安達、ドア閉めてよ。寒いじゃない!」

と、いきなりきつい口調で言われる。僕は慌ててドアを閉める。

 「電気つけて。スイッチはそこ!」

 畑山さんは相変わらずの口調だ。頭ごなしに命令され、悔しくないと言えばウソになる。だが仕事を教えてもらう立場の僕はぐっと抑えて耐えた。西日が差しているものの、午後5時を過ぎて薄暗くなり始めていた資料室は、僕がスイッチを入れると明るくなった。僕はようやく、コピー機が置いてある資料室の奥に進む。

 畑山さんは、初心者の僕にもわかるよう、丁寧に教えてくれた。コピーする前と後に、カウンターの数字を確認してノートに記録することから、用紙のセッティング方法、失敗しないコピーのやり方に至るまで。おまけに、A4の原稿を2枚並べて1枚のA3にまとめれば、枚数が半分になってコピー代が安くなるよ、とも言った。

 「じゃあ安達、あたしが今、教えたとおりにやってみて」

 「……いきなり僕がやるんですか?」

 「当たり前でしょ。自分でやらなきゃ、いつまでも覚えないよ。やってみて覚えるの!」

 僕は、畑山さんの顔を見た。はっきりと僕を見る、揺るぎない目。僕に経験させて覚えさせるという、強い意志をたたえた目だった。僕は、不安で思わず下を向く。そんな気持ちを察したのか、畑山さんが言った。

 「1〜2枚くらいなら失敗してもいいよ。怒らないから。不安なら、まず1枚、試しにやってみたらいいじゃない?」

 やっぱり、この人に逆らうなんて、僕には無理そうだ。観念した僕は、試しに1枚、コピーしてみる。すぐにプリントが1枚吐き出される。

 「ほら、やればできるじゃない? じゃあ、うちのクラス全員分、30枚コピーして。枚数を30にセットし直すだけだよ」

 畑山さんの指示通り、枚数を設定し直す。ボタンを押すと、あっという間にコピーが終わった。コピー機任せにしないで自分でも枚数を確認するよう言われた僕は吐き出されたプリントの枚数を数える。たどたどしい手つきで数え、なんとか30枚あることが確認できた。コピーしたばかりの2種類のプリントを見ながら、僕は、この2種類のプリントをホチキスで留めるべきかどうか迷った。2種類以上のプリントが配られるとき、ホチキス止めにしてあることが多いような気がしたからだ。畑山さんに判断を求めると、そんなの留めなくていいよ、との答えが返ってきた。

 「どうしてですか?」

 「もちろん、留めたらバラバラにならなくていいんだけど、よく考えてみて。今回の2種類のプリントのうち、ひとつはみんなに見てもらえば終わりのもので、もうひとつ、アンケートのほうは答えて月曜日に提出してもらうものじゃない? もしホチキスで留めても、配られた人は結局、アンケートのほうだけ切り離して提出しなければいけないわけだから、手間ばっかり増えて、意味ないでしょ? あたしたちは留めるだけ手間が増える。配られたみんなも切り離す手間が増える。そんな無駄なことはしなくていいよ」

 わかりました、と僕は答えた。畑山さんのことは今までまじめな性格だと思っていたけど、意外と大ざっぱなのかもしれないと思い直す。畑山さんにプリントを教室まで運ぶよう言われたので、僕はプリントを持つ。両手がふさがってしまった僕の代わりに、今度は畑山さんが資料室の電気を消す。僕たちは資料室を出ると教室に向かって歩き始めた。

 「ホント、杉本先生って酷いよね?」

 職員室の前を通りながら、畑山さんが言う。

 「畑山さん、ここ職員室の前です。聞こえますよ」

 「いいじゃない別に。ホントのことなんだし。だいたい、学級委員の経験があって慣れてるあたしにならともかく、委員が初めての安達に向かって、なにも説明せず『これよろしく頼む』じゃわかんないよね」

 僕は驚いた。それは今、まさに僕が思っていたのと同じだったからだ。

 「すごいですね。僕の気持ちがわかるなんて」

 僕がそう言うと、僕の横を並んで歩いている畑山さんが、僕の方を振り向き、初めて笑みを浮かべながら言った。

 「すごいですねって……あんた、あたしが初めからこんなふうだと思ってたの? あたしにだって初めてのときがあったんだから。その心細かったときの気持ちを思い出してみたの。それに、あたしが一番腹が立ったのはね、……安達、そのアンケートのほう、右上に日付が書いてるでしょ。いつになってる?」

 僕は、ちらりと日付に目をやった。今週の月曜になっていた。

 「そう。で、あんたがこのプリント、先生から受け取ったのは今日の昼でしょ。今日は木曜日。つまり、3日間もなにやってたの、って話なのよ。先生がちゃんと、もらってすぐにあたしたちに渡してくれてたら、こんなに急ぐことなかったんだよ」

 確かに、畑山さんの言うことはいちいちもっともだった。今度、先生に会ったらあたし、お説教してやるから――と畑山さんは言った。生徒なのに、先生に説教するなんて。

 「当然でしょ。人に仕事を指示するなら、いつまでに、誰が、何を、どうするかまでちゃんと言うのが当たり前。それがない指示なんて、指示のうちに入らないよ」

 畑山さんは、なかなか手厳しい。こんな調子で生徒会の後輩たちは大丈夫だろうかと少し心配になったが、怖くて言えなかった。

 「それって、英語の時間に聞きましたよね。ええっと、何だったっけ……」

 自分で言い出しておきながら度忘れしてしまった僕。畑山さんは、そんな僕を笑いながら、5W1Hだよ、と言った。そうだ。who(誰が)、what(何を)、when(いつ)、where(どこで)、why(なぜ)に加え、how(どうやって)を加えた基本中の基本だ。

 「安達だって一緒だよ。さっき、ただひたすら助けてって言ったでしょ。気持ちはわかるけど、そんなのじゃあたしも助けてあげられないよ。助けてほしかったら、ちゃんと5W1Hで言って」

 ぐさっと、畑山さんの言葉が胸に突き刺さった。僕は無言だった。

 「どっちにしても、3日もプリント渡さないでほったらかすなんて論外だけどね。杉本先生もまた最近、たるんでるみたいだから、たっぷりお説教してやるとするか」

 「畑山さん、いいんですか。生徒が先生になんて……」

 「そういうことはちゃんと言っておかないと、あんた、また同じ目に遭うよ。それでもいいの?」

 僕は率直に、嫌です、と答える。

 「それに、自分が正しいと思ったら、相手が誰だろうと言うべきことは言うのがあたしのポリシーなの。悪い?」

 「いえ、悪くないです。カッコいいです」

 僕は正直な気持ちを言った。確かに畑山さんは、相手がだれであろうと自分の主張は譲らない。男子の中には、そんな畑山さんをよく思わず、あからさまに「生意気」だと言う人もいた。「畑山って生意気とお前も思うだろ?」と同意を求められたこともある。確かその時は、あいまいに返事をした記憶がある。僕から見た畑山さんは、生意気と言うよりカッコよく、憧れで、いつか自分もそんな風に自分の意見を言ってみたいと思っていた。

 そんなことを話しているうちに、僕たちは教室に着いた。両手がふさがっている僕に代わって畑山さんが鍵を開ける。

 「そのプリント、明日の帰りのホームルームにでも配るから、なくさないように保管しといて」

 教室に入るなり、畑山さんはそう言った。僕は自分の机に大切にプリントをしまう。

 「今日は、いろいろ教えてくれて、ありがとうございました。おかげで助かりました」

 僕は、畑山さんにお礼を言った。いいのよ、気にしないで、と答えが返ってきた。

 「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

 いいけど、と畑山さんが答えたので、僕は、この前はあんなに怒ってたのに、どうして今日、自分に仕事を教えてくれる気になったのか聞いた。畑山さんは、教室の中をゆっくりと歩き、グラウンド側の窓際まで行くと、外を見つめた。部活動をする生徒の声が、閉まった窓越しに少しだけ聞こえる。やがて、畑山さんは振り返り、僕のほうを見ながら言った。

 「理由はいくつかあるけど、安達がきちんと自分の非を認めて謝ってくれたこと。そして、泣きながらも結局、逃げなかったことかな。あのとき、逃げようと思わなかったの? ……あ、別にあたしは逃げるのを勧めてるわけじゃないよ。ただ、あれだけ委員なんて絶対無理、できないって言ってたあんたが、逃げなかったわけが知りたくて」

 「最初は逃げようと思いました。先生にもらったプリントを畑山さんの机に置いて、そのまま逃げたら楽になる気がして。……でも、無理だと悟ったんです。僕がいかに委員なんてやりたくない、できない、逃げたいって思っていても、先生はそんなことお構いなしに仕事を頼んでくるんです。もし、今日、この場は逃げられたとしても、次はまた同じことになるんだろうな、と思うと、もう逃げられない気がして……」

 僕がそう言うと、畑山さんは、いたずらっぽい表情で笑いながら言った。

 「あみだくじで委員に当たった、世界一かわいそうな安達くんも、とうとうあきらめがついたようだね」

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