第3話 絶体絶命!
「ちょっと! あんた、何逃げようとしてんのよ!」
放課後。昨日と同じように西日に染まる放課後の教室。終礼とともに逃げ帰ろうとした僕の前に、畑山さんは有無を言わせず立ちふさがった。僕の腕をつかんで、教室の中央に引き戻す。 そのまま、僕の両肩を両手で押さえつけて、目についた椅子に僕を無理やり座らせた。
「さてと。気弱な安達くんも、ちゃ〜んと決心がついたよね」
畑山さんは、僕の前の席の椅子を引き出して座る。後ろを向いて僕を見ながら、それが当然だといわんばかりの口調だ。
僕は無言だった。畑山さんの言う決心とはもちろん、学級委員をやるという意味だ。僕は、昨日1日いろいろ考えたが、まだ結論を出せていなかった。家族に相談しようかと思ったが、そんなもの相談したが最後、「やれ」と言われるに決まっている。僕は家族にも言い出せず、悶々と過ごしたままこの日を迎えていた。
「ホントは決心がつくとかつかないとかいう問題じゃないんだよ。選ばれた以上、やるしかないの。それでも、あたしはあんたが学級委員、初めてだっていうから、納得して仕事をしてもらおうと思ってこうして待ってあげてるの。わかってる?」
明らかに畑山さんは苛立っていた。相変わらず口調もきつい。どうしよう。また頭が混乱してぐるぐると回り始めた。何か言わなければいけないのに、言葉が出ない。
「また無言なんだ。そのまま黙ってたら、いずれあたしがあきらめるとでも思ってる?」
突き刺すような言葉を次々に投げつけられる。僕は、目の前のこの女子――畑山さんが怖かった。あまりの気の強さに、畑山さんは一部の男子からマリー・アントワネットというあだ名を付けられていた。飢えに苦しむ民衆に向かって「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言い放った稀代の悪女。中国で権勢を振るった西太后などと同様、「世界の悪女図鑑」という本があれば間違いなく載るであろう無慈悲な王女。それが、この時点で僕がマリー・アントワネットに抱いているイメージだった。その名前をあだ名に持つのが、目の前のこの女子、畑山志織さん――。
「素朴な疑問なんだけど、あんた、そんなに嫌ならなんで立候補なんかしたのよ?」
もっともな疑問だった。だが、本当の理由は言えなかった。男子があみだくじで学級委員を選んだことを女子には絶対に言うなと加藤に強く言われている。「畑山なんかに知られたら男子全員、中庭に生きたまま埋められる」とも加藤は言っていた。あみだくじのことを話せば僕の命が危ない。でも、だからといって言わなければ、畑山さんのこの厳しい追及からいつ逃れられるかわからない。袋小路に追い詰められた僕は、また下を向いた。
「それも無言なんだ。少しは、あたしの質問に答えてよ。それとも、答えられない理由があるの?」
答えられない理由を答えられるくらいなら、こんな苦労なんてしてない。僕は、心の中でそう畑山さんに毒づいていた。もっとも、口に出して言えば何をされるかわからないが――。
激しい緊張のせいか、僕の目から涙がこぼれた。
「あれ? そこで泣いちゃうんだ? ただひとこと、『学級委員、やります』って言えばいいだけじゃないの、安達くん?」
僕はまた言葉が出なくなった。自分のこの性格が恨めしかった。
「ちゃんと『やります』って言えば、解放してあげるよ。言わないなら、あんたがそう言うまで、毎日でも締め上げてやるからね」
冷静に考えたら、この状況はおかしいような気がする。なぜ、帰るのに畑山さんの許可が必要なんだろう。別に僕は手錠をはめられているわけでも、全身を縛られてるわけでもないのに、なんで目の前のこの女子――畑山さんに、こんなにも逆らえないんだろう。
「学級委員をやるのが怖いとか?」
「あ、そ、その……なること自体、初めてなので、怖いです……」
僕は、思わず正直に言ってしまった。畑山さんは、きっぱり言った。
「それなら、あたしが全力でサポートするよ。だから、とにかくやりきる決意だけは持って。さすがのあたしも、決意までは代わってあげられないから」
畑山さんは、きつい言い方で僕が動かないと見たら、今度は甘い言葉で僕が『やる』と言わなければならないように仕向けてくる。なかなか手強い人だと思う。
「ホントに、全力でサポートしてくれますか」
僕は、畑山さんに尋ねた。
「当たり前じゃない? 学級委員が初めての安達に、人並みなんて求められないよ」
畑山さんは答えた。
「それじゃあ、あの、その、……よろしくお願いします」
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それから数日後。
「お、そういえば安達は学級委員だったな。これよろしく頼む」
クラス担任の杉本先生に呼ばれた昼休みの職員室。無事に用を終えての帰り際、僕は、杉本先生から思い出したようにプリントを渡された。
「これ、何ですか?」
「何ですかって、プリントに決まってるだろ?」
そうじゃなくて、このプリントをどうしたらいいか聞きたかったのに……。杉本先生は、時々、本当に聞きたかった答えからずれた回答を返すことがある。もっとも、僕の聞き方が悪いのかもしれないけれど。
「よろしくな。私は今から席を外すから、また質問は後にしてくれ」
先生は、そう言うと足早に立ち去った。部活動の顧問もしている杉本先生は割と忙しく、なかなかつかまらないことが多かった。僕は仕方なくそのプリントを持って教室に戻った。
改めてプリントを見ると、何かのアンケート調査のようだった。回答期限は来週月曜日と切迫していた。森本学園も他の学校と同様、週休2日制だ。今日は木曜日。もし、クラスの全員が対象だったら明日中に配らないといけないことくらいは、僕にも理解できた。だが、それ以上のことは僕にはわからなかった。誰を対象としているのか。クラスの全員なのか委員だけなのか。そもそもプリント自体、どうすればいいのか。
畑山さんに相談すればいいんだろう。でも、連絡先を聞いていなかった。それに、畑山さんの硬軟織り交ぜた戦術にハメられて、つい「よろしくお願いします」と言ってしまったが、僕はまだ、学級委員をやるという決心がついたわけではなかった。畑山さんの厳しい追及から一刻も早く逃れたくて、ついそう言ってしまったのだ。
畑山さんの親友、西野さん、杉田さんなら、教えてくれるかもしれなかった。だが杉田さんはともかく、西野さんも怖かった。それに、西野さんはいつも畑山さんと一緒にいるので、それなら畑山さんに相談するのと変わらなかった。
僕は何もできないまま、放課後になった。今なら杉本先生がいるかもしれないと思った僕は再び職員室に向かった。だが、
「先生方は会議中みたい。もう少し時間がかかるみたいよ」
別のクラスの女子生徒に告げられた。とぼとぼと重い足取りで、僕は教室に戻った。プリントの扱い方は分からないまま。教室の自分の席で、僕は溜め息をついた。教室に他に誰もいないことが唯一の救いだ。
あみだくじに当たったせいで学級委員にさせられた。学級委員というだけで、いきなりなんの説明もないまま仕事を頼まれ、頼んだ張本人の先生も会議で不在。畑山さんには連絡先さえ聞いていないままだった。いきなり訪れた絶体絶命の大ピンチ――。
ふと、僕は涙が出てきた。自分ひとりだけの教室は、泣くにはちょうどいい場所だった。