第1話 神様、心が折れそうです
自己紹介が遅れたが、僕の名前は安達正人(あだち まさと)という。生まれた時から引っ込み思案で極端に気が弱い。一緒のクラスになった人は、例外なく僕を学園で1、2を争うヘタレだと言う。反論できなくなると黙ってしまうのが自分の短所だ。できるだけその短所は直そうと意識的に行動してきたつもりだが、いつも一番肝心な場面で立ちすくみ、言葉が出なくなってしまう。
今さっきだってそうだ。あみだくじの結果に納得できなければ反論すればいいと思うかもしれないが、それができるならこんな苦労なんてするはずもなく、結果としてまた加藤にいいようにされてしまった。
―――――――――――――――――――― ◇ ――――――――――――――――――――
僕の通う森本学園は、住所が某県某市森本町であることからその名がついた。地元では割と知られた私立の中高一貫校で、中等部1〜3年に各3クラス、高等部1〜3年に各3クラスがある。以前は男女別学で、男子部と女子部が別々にあり、それぞれに中等部と高等部があったが、西暦2000年のミレニアム記念に「少子化社会への対応」という理事長の意味不明かつ気まぐれな理由で男子部と女子部が統合、事実上共学化した。「少人数学級の編成に取り組む」を名目に1クラスの生徒数もそれまでの約40人から約30人となった。この少人数学級化には教員の雇用対策という話もある。
偏差値は標準より少し上、男女比はほぼ半々とバランスが取れていて、地元の公立中学に良い感情を抱いていない保護者を中心に、「お受験」させてでも森本学園に子どもを通わせたいという需要は根強くある。中等部の入試も他の中高一貫校に比べて楽なので、森本学園は公立中学を避けたい保護者や生徒の格好の受け皿になっていた。
森本学園中等部の入試が他の中高一貫校のそれよりも楽なのには理由があった。そもそも森本学園では、中等部の全員がエスカレーター式に高等部に上がれるわけではなかった。エスカレーター式進学は中等部の上位2割のみで、それ以外の生徒が高等部に上がるには編入試験を受け合格しなければならない。残る8割が一般入試での採用枠で、編入試験で合格しなかった生徒は、公立中学から高等部に進学する生徒に交じって一般入試を受けるか、他の高校を受験するということになっている。
中等部の上位2割以外は高等部入学の際、もう一度ふるいにかけるのだから、学園側とすれば、中等部入試の段階でハードルを極端に上げて優秀な生徒だけに入学資格を絞り込む必要はなかった。優秀で多様な人材を高等部の段階でも選抜し直すことができるよう、「中等部の入試のレベルは、公立中学で成績下位となるであろう生徒をふるい落とせる程度でよい」というのが理事会の基本方針だった。
生徒会やクラブの活動は公立中学より活発で、県大会に進む体育部、コンクールで入賞する文化部など実績もなかなかのものだった。
そんな中、僕は授業を受ける以外のことはほぼ何もしていなかった。目立った活動もなく、学級委員はおろか班長さえ務めたことがない。経験したことがあるのは、出席番号順に輪番で割り当てられる日直程度というのが、この時点における僕の基本スペックだった。
森本学園では、学級委員は公立中学校と同じように各クラス、男女1名ずつが務める。委員は選挙で、男女各1名の候補者をあらかじめ絞った上で信任投票にすることも、候補者を事前調整せず、複数の候補を立てて本選挙にすることもできる。運用も各クラスまちまちで統一的な基準があるわけでもない。要するに、そのクラスの生徒の総意に基づき選出された、と説明できるのであればどちらでもかまわないとされていた。
今回、2年C組男子があみだくじで僕を選出したのは選挙ではなく事前調整に当たる。つまり男子生徒の間では、僕以外の候補は立てず、選挙では全員が信任の投票をする、というのが了解事項であることを意味していた。僕は、信任投票で不信任が半数を超えれば学級委員にならなくて済むのにと思ったが、この経過からそれはあり得そうになかった。
そうなると、(自分で言うのもなんだが)学園随一のヘタレの僕にとって、女子の学級委員が誰になるのかが最大の気がかりだった。なにしろ学級委員は半年ごとに改選で、前期だと4月から夏休みを挟んで9月まで務めることになる。小学校時代から女子と話すどころか、まともに顔を見ることさえできなかった僕が、半年間、女子の学級委員とコミュニケーションを強制される――そう考えただけでも頭痛がしそうだった。学級委員選出が避けられないならば、できるだけ、一緒に委員を務める女子はおとなしくて優しそうな人がいいと僕は漠然と思っていた。
―――――――――――――――――――― ◇ ――――――――――――――――――――
「ちょっと、あんた何ボーッとしてんのよ! 人の話、聞いてんの? 下ばっかり向いてないで、ちゃんと人の目を見て、何とか言いなさいよ!」
夕暮れ時、西日に染まって赤みを増す教室。クラスメートたちは三々五々、部活動や家路に急ぎ、2人だけになった放課後の教室で、僕は、学級委員に決まった女子に詰問されていた。詰問というより罵倒に近いかもしれない。不利な状況になると言葉が出なくなるいつもの癖で、僕はまた何も反論できなくなってしまい、ひたすら下を向いて耐えていた。もう30分近くなるだろうか。この時間が長くて長くて、地獄のようだ。
目の前の女子、畑山志織(はたやま しおり)さんは、ふう、と深く溜め息をつき、言った。
「今日はもういいから、一晩、じっくり考えて、明日までに決心をしてきて。必ず、前向きな答えを聞かせてね」
「やっぱり、やりますって答えないと、いけないんですか……?」
僕が弱々しい声で尋ねると、畑山さんは
「当たり前でしょ! 今さらできないとか、やりたくないなんて言葉、絶対許さないから!」
と、僕の言葉を容赦なくはねつけた。
「今日はもう帰っていいから、明日、必ず『やります』って返事をするのよ。いい?」
「……はい」
僕が消え入りそうな声で弱々しく答えるのを聞くと、畑山さんは帰り支度を始めた。鞄を持ち、ドアに向かって歩き出す。
「帰らないの? あたし、先に帰るよ。じゃあ戸締まりして、この鍵、職員室に返しといて」
そう言って畑山さんは、手に持っていた教室の鍵を僕に向かって投げる。僕は、偶然にもそれを直接両手でつかみ取った。
「お! ナイスキャッチ! じゃあまた明日ね!」
そう言い残すと、畑山さんの姿は見えなくなった。そのとたん、僕の目から、堪えていた涙があふれ出した。
畑山さんは、気の強さは中等部一と言われるほどで、地元の公立小学校の頃から男子との口喧嘩でも負けたことがないともっぱらの噂だった。誰が相手でもはっきり意見を言うので、一部の男子からは生意気と言われていたが、畑山さんがそれを気にしている様子はなかった。
一緒に委員を務める女子はおとなしくて優しそうな人がいいという僕のささやかな願いは、いきなり打ち砕かれた。僕は教室の戸締まりをすると、鍵を職員室に返し、家路についた。
こんな気が強い人と、僕はこれからどうやって一緒に学級委員をやっていけばいいんだろう。そう考えると憂鬱になった。