・はじめに
みなさんは、旧国鉄「油須原線」という名前をご存じだろうか。九州・筑豊で産出される石炭を苅田港に運び出すための運炭路線として一度は輝ける未来を約束されながら、エネルギー革命と国鉄再建の嵐の中で命脈を絶たれ、ついに開業することなく終わった幻の鉄道である。
線路の敷設は全体の90%以上が完成し、添田線(注1)のレールまであと数百メートルで連結されるというところまでこぎ着けながら散っていっ た悲劇の未成線。一度も使われることなくうち捨てられたそのレールの上を「列車」が走ることはない・・・はずだった。しかし、工事中止から実に四半世紀を過ぎた1996(平成8)年、この悲劇の未成線に小さな奇跡が舞い降りる。人々を驚かせ、そしてひっそりと歓喜させた1日・・・ このレールの上に「列車」が走った奇跡の1日を、「未成線の悲劇」を生み出した油須原線建設当時の社会情勢に関する若干の考察などを交えつつレポートする。
1.油須原線 計画から基礎工事完成まで
国鉄解体まで日本の在来線鉄道建設の根拠となってきた鉄道敷設法(大正11年法律第37号)(注2)の第1条関係別表第110ノ3として、「福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道」がある。油須原線の建設計画はここにまで遡ることができる。
油須原線の建設目的は、上にも書いたとおり運炭で、それまで筑豊本線経由で若松港に運び出していた石炭輸送のルートを苅田港向けに振り替えることであった(注3)。当初の計画では、総工費24億円で昭和36(1961)年春の全線開通を目指していた。しかし、昭和32(1957) 年度政府予算に油須原線の建設費用が認められず、その後関係者の努力で予算は認められたものの、時あたかも石炭から石油へのエネルギー革命のまっただ中。昭和41(1966)年にようやく漆生〜豊前川崎間17.8kmが部分開業するだけにとどまった。しかもこの区間は油須原線ではなく既存路線である漆生線、上山田線の一部区間として取り扱われることとなったため、油須原線という名称は以降、未開業の豊前川崎〜油須原間を指すようになる。(このレポートでもこれ以降「油須原線」というときは、別に断りがない限りこの未開業区間を指すこととする。)
その「油須原線」は難航に難航を重ねながらも、昭和46(1971)年までに基礎工事をほぼ完成させる。この段階に至り、誰の目にも開業は確実となったかに思われた。
2.油須原線を襲った国鉄財政の悪化〜一瞬の希望も消え幻の鉄道へ
しかし、今度は国鉄財政の悪化が油須原線に襲いかかる。国鉄を監督する大蔵・運輸省から開業にストップがかかったのである。昭和39年、東海道新幹線の開業という偉業達成とひき換えるように赤字に転落した国鉄財政は、昭和40年代に入ると急速な人口の社会的流動=農村から都市への人口転移=とモータリゼーションの進行、航空の大衆化という社会的要因に加え、国鉄内部でもマル生運動の崩壊、スト権スト等による職場の荒廃が進み、急速に悪化していた。大蔵省(現・財務省)は赤字解消の見通しが立たないことを理由として、また運輸省(現・国土交通省)は主に「運炭」というこの路線に課せられた役割の終焉という見地からその開業に消極的であった。それでも地元だけは相変わらず開業へ向けた運動を展開していたが、一方で油須原線には、開業してもその1日の利用客が100人程度というきわめて残酷な予想数値が突きつけられていた。
この1日100人という数字は、いうまでもなく特定地方交通線に匹敵し、鉄道はおろかバスですら維持が困難な水準である。それは、国鉄問題がまだそれほど世間の耳目を集めていなかった当時としてもきわめて無残なものだった。油須原線工事はついにこの年、中止に追い込まれる。
その後、昭和48(1973)年になって福岡県苅田町に日産自動車の工場進出が発表された際には、地元が工場用の部品輸送に活路を見いだそう
と模索した時期もあった。しかしそれも実らず、昭和52(1977)年にはとうとう地元も油須原線建設を諦めざるを得なかった。
大正11(1922)年の鉄道敷設法公布から55年、計画当初の開業予定だった昭和36(1961)年から数えても18年が経っていた。
3.「トロッコフェスタin赤村」の概要
油須原線工事が中止となった年に筆者は生まれた。地理的には同じ福岡県、それも筆者の住んでいた北九州地区と油須原線計画のあった「京筑地区」は隣同士という間柄ながら、物心つかない筆者にとって油須原線問題は遠い世界の出来事で、取り立てて関心もなかった。筑豊地方の鉄道と関わるようになったのも、国鉄が既にJRとなっていた1989(平成元)年、第3次特定地方交通線の最後の整理も終わろうとしていた時期である。この年に、平成筑豊鉄道に転換される予定だった伊田・糸田・田川線を巡ったのが筆者と筑豊の鉄道との最初の出会いと言っていい。そして筑豊の鉄道のとりこになった筆者は以降、就職して転勤で九州を離れる1998年まで丸10年を九州の鉄道の旅に費やすことになる。
そんな私が「トロッコフェスタin赤村」というイベントを知ったのは偶然であった。気動車・貨物列車の撮影に出かけていた筑豊のある駅で、並んでカメラを構えていた同好の士から口コミでイベントのことを聞きつけたのである。
「トロッコフェスタin赤村」とは、「油須原線に軌道自転車を走らせる会」主催のイベント。福岡県田川郡赤村役場とJR九州・後藤寺保線区の全面協力の下、油須原線の線路跡に軌道自転車を走らせ、未開業線のトンネルをくぐり抜けようというのである。軌道自転車というのは、国鉄の保線係員が線路や軌道、周辺施設の状況を走りながら監視するために乗る乗り物。詳細は下の写真をご覧いただきたい。
私にこのイベントのことを教えてくれた鉄道ファンによれば、このイベントは事前予約不要で誰でも参加できるとのこと。私は俄然色めき立ち、 このイベントへの参加を即決した。イベント当日に体調を崩してはいけないと数日前からは体調管理までした。
そして、ついにその日がやってきた。
一度も列車が走ることのなかった鉄路に、小さな奇跡が舞い降りようとしていた。
4.トロッコフェスタに参加して
その日・・・平成8(1996)年9月15日は抜けるような青空だった。9月とはいえ、南国・九州の残暑には厳しいものがあり、朝からすでに真夏のような暑さだった。
数日前、このイベントについて問い合わせた赤村役場によれば、会場には駐車場がないので自動車での来場は控え、平成筑豊鉄道を利用して欲しいとのことだったので、アドバイスに従って日豊本線で行橋まで行き、そこで平成筑豊鉄道の列車に乗り換えた。油須原駅に降り立つと、事前に準備されていたのだろう、「トロッコフェスタ」会場までの案内図と看板がそこかしこに出ていて、会場まではすんなりとたどり着くことができた。
私が会場に着いたのはなんと朝の8時ごろ。イベント開始は確か朝10時からだったと記憶する。2時間も前の到着である。記念列車の運転やグッズ販売等のイベントならともかく、この手のイベントにこんな早くからやってくる物好きはあるいは私くらいなのかもしれない。余裕の一番乗りだった。他の参加者はもちろん、スタッフすら到着していない。
やがて、スタッフとおぼしき関係者の一群が朝9時頃に数台の車でやってくる。そのうち1台は軽トラックで、荷台に軌道自転車が乗っている。私は、幌付きのトラックか何かで搬入するものと思っていたから、度肝を抜かれた。こんな濃いものを荷台に幌も付けず、衆人環視の状態のまま運んでくるとは、このスタッフたち、なかなか凄い。その軌道自転車をスタッフが運び込み、レールに乗せる。この作業を見るのも、鉄としてはなかなか面白い。
私は、スタッフよりも早く到着していたので、スタッフに問い合わせたところ、先着順に軌道自転車の乗車整理券を配るという。並ぶ場所もこっそり教えてもらえたので、スタッフによる案内が始まる前から乗車券の配布場所付近に陣取りじっと待つ。早起きは三文の得とはよくぞ言ったもの。
執念と気合の勝利である(^^;;
やがて、スタッフから参加者全員に、イベント概要を説明した資料一式が配られた。どういうわけか資料は赤村役場の封筒に入れられており、改めてこのイベントが行政主導であることをうかがわせる。しかし、どう考えても自治体主導のイベントと思えない。誰だよ、こんな濃い、オタク丸出しのイベント企画したのは(^^;;;
整理券配布が始まるまでの暇つぶしに資料を読む。ショックだったのは、このイベントが始めてではなく2回目、しかも前年も開かれていたということである。ちなみに、封筒に入れられていた資料は、会場の地図、「走らせる会」執筆のイベント説明ビラ、油須原線に関する資料の他、 「源じいの森」(平成筑豊鉄道・田川線沿線にある保養・観光施設)、赤村特産物センターなどのパンフレットといったところ。
やがて、整理券配布が始まった。当然のごとく、一番乗りしていた私の番号は1番・・・と思いきや、に、2番!? ちょっと待てよ、なぜ2番? 朝っぱらから一番乗りしてきているこっちの気も知らず、俺の1番札を横取りした奴は誰だ! しかも、後ろに並んでいた参加者に聞いても、1番札を持っている人は見あたらない。1番の番号札はどこに行ったのだ?
怒り心頭に達したが、気持ちを落ち着ける。よくよく考えれば、真っ暗なトンネルの中に真っ先に飛び込んでいくのは無謀だ。どこのどいつか知らないが、誰かを導役に配して2番手を行く方が利口である。そう思って気を取り直す(この時私はスタッフに、1番札をなぜくれないのか抗議するつもりだった。余りにも大人げないと思って結局はやめたのだが、後になって抗議しなくてよかったとホッとすることになる。その理由については後述)。
5.ついに「発車」!〜地元の長年の「悲願」叶う!?(写真をクリックすると大きくなります(^^;;)
そんなこんなでイベント開始時刻の10時になった。主催者を代表し、赤村役場の道広幸(みち・ひろゆき)総務課長が挨拶して、イベントは始まった。 さっきまでは人が少なかった会場は、事前にマスコミでもこのイベントが取り上げられたせいかいつの間にやら100人近い人が集まっている。参加者の層は、大きく分けて鉄と家族連れ(笑)
総務課長の挨拶もそこそこに、それでは出発しましょうということになり、発車式の準備。「すぐ出発しますから1番札を持っている方は乗車場所に来てくださ〜い!」と声がかかる。
そうだ、思い出した! 一番乗りした俺を差し置いて1番札を持っている奴は誰だ!(まだ言ってる)
「1番の方、いませんか〜!」となおも呼びかける、「走らせる会」メンバーとおぼしきスタッフ。そこに、村役場の職員らしい別のスタッフから声がかかる。
「1番は村長です」
なんだ、そーゆーコトだったのね。それにしても、普通こういうイベントって開会の挨拶は村長の役目のはずなのに、部下の総務課長に挨拶させて自分は挨拶しないなんて、結局は自分が軌道自転車乗りたいだけなんちゃうんかと(以下省略)。まぁいいか(笑)。とにかく出発である。軌道自転車は見たところ3台用意されているから、2番札を持っている私はすぐ出発になるはずである。
乗車場所まで行ってみると、軌道自転車はやはり二人乗りになっている。とはいえ、1番札を持っているのは村長だから、一般参加者の私は3番札の男性と相乗りになる。乗車に先立ち、トンネル区間走行用のヘッドランプが配られる。
村長と、同乗するスタッフの背中を見ながら私たちも出発。前方を行く村長の軌道自転車だけはイワハシ3号と呼ばれる動力付きのもので、漕がなくてもよい仕組みになっているらしい。こちらは動力付きではないから、頼りになるのは自分の足だけ。相乗りの男性との「協調運転」でギコギコと漕いで進む。軌道自転車のペダルは、予想していたよりもずっと軽い。子供のころ乗っていた補助輪付きの小さな自転車を思い出す。その軽さ故にスピードは遅いけど(^^;; ブレーキをかけるときは、これも自転車同様手ブレーキである。
加速がついてくると、吹き付ける風が心地よい。朝から真夏のような暑さで、油須原駅から歩いてきたときにはもう全身汗だくだったから、この風がひときわ涼しい。全身の皮膚から気化熱が奪われていくような、えもいわれぬ快感である。
やがて私の漕ぐ「列車」はトンネルに突入した。今日のイベント、ハイライト区間である。ゴーッという音とともに、さっきよりもずっと涼しい風が吹き付けてきて寒いほどだ。会話を交わすと声が壁に反響して跳ね返ってくる。まるで肝試しをしているようなスリルが加わる。
トンネルを1分ほど走ったとき、思いがけない出来事が起きた。村長の乗っているイワハシ3号が突然停まってしまったのである。
しかもトンネルのど真ん中でである。イワハシ3号は動力が電源を兼ねているらしく、ライトも消えてしまった。
「村長! 下は線路です。危険ですから動かないでください。降りないでください!」と叫ぶスタッフの声がトンネルの壁に反響する。やがて私たちの乗った軌道自転車がイワハシ3号に追いつく。そこで私は、とんでもない事態が起きていることを悟った。
私たちも、ヘッドライトを頼りに線路に降り、イワハシ3号を点検するスタッフたちを助けるためあたりを照らす。スタッフが色々点検している。やがて、スタッフが何か操作するといきなり動力が復活した。この間5分くらいだったと思う。あるいはもっと短い時間だったのが、暗闇だったため長く感じられたのかもしれない(ちなみに、後でスタッフに故障原因を尋ねたところ、「まーちょっとしたエンストみたいなもんですよアッハッハ」ってアナタ・・・)。
イワハシ3号は定刻の5分(くらいの)遅れで再び発車した。私たちも再び発車。770mのトンネルを10分ほどかかっただろうか。 トンネルを出たところが「列車」の終点。後続の軌道自転車の到着を待つ。この区間は単線で、途中にすれ違う場所もないから、後続が来るまで折り返せない。
数分して、3台目の軌道自転車が到着。私たちは軌道自転車を反転させ、折り返して元の地点に戻る。今度は前方を行くイワハシ3号にトラブルもなく、暗いトンネルを一気に駆け抜けた。まさに「快感」の一言だった。村長も、トラブルにあったにもかかわらず、「面白い体験ができたよ」とまんざらでもない様子だったという(某スタッフ・談)。
この日のイベントは、午後3時に終了したと記憶している。
6.消えゆく痕跡・・・その第2の人生
一般人も含めなかなかの人気を誇るこの「トロッコフェスタ」は、伝え聞くところによればその後も上山田線跡に場所を移し、昨年まで毎年1回秋に開催されているという。しかし、油須原線跡を使ったトロッコフェスタとしては、私の参加したこの年が実は最後となった。というのも、この区間に残されていた線路が、ある事情によりこの年を最後に撤去されることになったからで
ある。
その事情とは、地元で進められている導水管敷設のためである。実は、油須原線のある京筑地区〜厳密に言えば
赤村のある田川郡は京筑地区には入らない(筑豊地方に入る)が、行橋市、犀川町といった京筑の主要地域に隣接している〜は、 地域住民に水を供給できる大規模な河川がなく、梅雨の降水量が少ないとすぐに水不足に見舞われる「渇水常襲地帯」だった。福岡県など行政は、この地区の水事情改善のため、油須原線の線路跡を利用して導水管を建設する方針を決めたのである。
筆者は、トロッコフェスタから半年過ぎた平成9(1997)年春のある日、愛車を駆って、トロッコフェスタが行われた線路跡を見に行ったこと
がある。この時はまだ線路は剥がされておらず、その気になればまたトロッコフェスタが開けるほど手つかずの状態だった。
残念ながら、筆者はこれ以降、この区間の線路跡がどうなっているのかについての追跡調査はできないままである。仕事で九州を離れざるを得なく なったことが大きい。しかし、廃線跡はしょせん廃線跡である。列車は走らないし、国鉄財政を破綻に追い込んだ社会的背景を考察する生きた教材にはなり得ても、それ以上のものではない。むしろ、その跡を導水管として地域住民のために生かそうという姿勢は行政としては当然のものであろう。
油須原線は、導水管に転用が決まったこの地区だけでなく、大任町でも一部区間の線路跡が道路に転用されるなど、全般として線路跡の転用は進んでいる方だと言えよう。鉄道こそ実現しなかったが、その跡が放置されるのでなく、別のインフラとしてきちんと整備されていく。鉄道の廃線跡を追いかけている鉄道ファンには忍びないことだが、古い衣装を脱ぎ捨ててこそ新しい衣装に袖を通せることもまた事実なのである。私があの日、あの場所で出会った「小さな奇跡」は、消えゆく廃線跡が私たちに見せてくれた最後の意地だったのかもしれない。
線路の撤去によってもう奇跡が舞い降りることもなくなった旧油須原線跡であるが、新しい衣装に袖を通した京筑地方の新時代が、地域住民にとってよい時代になるよう願ってやまない。
(なお、その後の油須原線跡の追跡調査レポートはこちら)
7.最後におまけ
ここでイベントがらみの資料、グッズをご紹介しよう。図らずも、上記イベントがどんな性格のものだったかを知る絶好のものばかりである。
グッズ・・・軌道自転車の「乗車整理券」
軌道自転車の「乗車券」? ちなみに1番は上記レポートのとおり「村長特別枠」だったので、事実上私の持っている2番が一般参加者の一番乗りということになる。厚紙に「走らせる会」のスタンプを押し、マジックで番号を書いただけの簡単なもので、ほぼ実物大。
資料・・・ 「油須原線に軌道自転車を走らせる会」のイベント説明用ビラ
大した文量ではないので私がテキストエディタ使って転記しちゃうという手もあったのだけれど・・・(^^;;
イベントの雰囲気を少しでも皆さんに伝えたいし、とにかく現物をご覧いただこう。これもほぼ実物大。
(注1)添田線・・・日田彦山線香春から上伊田〜大任を経由して添田に至る路線。第1次特定地方交通線として、昭和60(1985)年4月1日限りで廃止。同じく第1次線だった美幸線(北海道)と赤字日本一のタイトルを奪い合う。
(注2)鉄道敷設法・・・日本の国鉄線は、「全国新幹線鉄道整備法」に根拠を置く「整備新幹線」を除き、すべてこの法律を建設の根拠としていた。昭和62年のJR発足時、「日本国有鉄道改革法等施行法」により廃止される。
(注3)運炭ルートの苅田港への振り替え・・・現在、日豊本線の小波瀬西工大前駅から苅田港へ延びる「苅田港線」というJR貨物の1種免許区間があり、1日1往復のコンテナ貨物列車が運転されているが、もともとはこの苅田港線も油須原線経由の石炭輸送に対応するためのものだっ た。線路が行橋方面を向いているのもその名残である。
<参考文献>
「いま姿を消す悲劇の鉄道の痕跡 国鉄油須原線」(笹田昌宏・著、月刊「鉄道ピクトリアル」(株式会社電気車研究会・鉄道図書刊行会)1995年5月号所収)