競争から協調へ? 〜日光の現場から

 2006年11月25〜26日の2日間、奥日光に出かけてきた。最大の目的は、今年3月改正で登場したJR〜東武鉄道直通特急「日光」「きぬが わ」に乗車するためである。

 JRと東武を結ぶこの2つの直通列車の登場は突然の出来事であり、鉄道ファンからも驚きをもって迎えられた。もともと日光の観光客輸送では、国 鉄と東武が激しくしのぎを削った栄光の過去があるからだ。戦後、高度成長の足音が聞こえる頃からその競争は幕を開け、国鉄は当時としては最新鋭車 両を使った準急 「日光」を繰り出す一方、東武も新型特急電車で対抗した。だが、この競争のピークは1960年頃で、次第に東武が優勢となると、国鉄は日光行き準 急に使用 していた当時最新鋭の車両を東海道本線に転用させ、日光線準急は他の路線と同じ急行型車両に身を落とした。さらに時代は下った1982年、国鉄は 日光線に 残っていた急行列車を廃止。かくて、国鉄は東武に完敗した。

  こうした過去の大競争時代を知る多くの鉄道ファンにとって、その国鉄〜JRと東武が手を結ぶなどということは、さながら犬と猿が手を結ぶようなも のであり、あり得ないと考えられてきたから驚きの出来事だったのである。

 JRと東武は、どちらも1067mm軌間の狭軌であり、またどちらも直流1500V区間である。だからといって今日明日にも直通運転をやりま しょう、は いそうですかというわけにはいかず、当然ながら越えるべきハードルはいくつもある。

 とりわけ大きな問題が、車両の規格と信号保安設備だった。JRは国有鉄道建設規程、車両構造基準規程に基づいて建設された国鉄を引き継いでいる のに対 し、最初から民鉄としてスタートした東武は地方鉄道建設規程に基づいている。両者は車両の大きさ・幅などの許容値が異なり、国鉄の方により大きな 車両を許 容していたため、JRの車両をそのまま東武に乗り入れさせた場合、車両が駅でホームにぶつかるなどの可能性があった。また、信号保安設備も、基本 的な考え 方は同じだが別々の物を用いていたためにその統一も課題となった。当時の政府がなぜ国鉄と私鉄で車両規格を別々に設定したかは明らかでないが、こ れらの規格が定められた当時はまだ762mm軌間のナローゲージや馬車鉄道などが各地に存在していた時代であり、そうした中小私鉄に配慮したのか もしれない。

 しかし、両社で事前に調査した結果、車両規格の問題は簡単にクリアできることがわかった。もともと鉄道車両は高価な買い物であり、自前で新車を 調達する 余裕のない私鉄では国鉄のお下がりを導入して走らせることがしばしばあった。また、東武は他の私鉄と比べても国鉄〜JRとの間の貨物連絡輸送が多 く、国鉄 線内から走ってきた貨車を機関車だけ付け替えて東武線内へ引っ張るという運用も活発に行われていた。そのためか、もともと国鉄規格の車両を受け入 れられる 構造になっていたのだ。

 信号保安設備に関しては、ATSの仕様が両社で異なるため、両方の会社のATS装置を取り付けなければならなかった。とりわけ東武鉄道の車両に JR型の ATS−P型を取り付ける場所がなかなか見つからず苦労したそうだ。結局、客室の床上という、乗客から丸見えのところに仕方なくJR型の ATS−Pを取り 付けたという。そのような両社の苦労を経て直通運転は実現したのである。
 25日午後1時過ぎ、首都圏から日光への特急列車往復と一部区間の東武バスをセットで割引した「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を手にして、新宿駅 の湘南新 宿ライン用ホームに上がったところ列車はもう入線している。車両は国鉄時代から活躍している485系と呼ばれるもので、交流(50Hz、 60Hz)、直流 の3電源方式すべてを走れる優れ物だ。だが、車両カラーは白・赤・オレンジに塗り分けられている。鉄道ファン、あるいはファンでなくても東武沿線 の人なら 特急「スペーシア」と同じ色の組み合わせだとすぐにわかる色である。

 13時5分。新宿駅を発車する。東北本線に入ると列車は加速する。大宮からは車内販売員が乗り込んでくる。郊外に向かうにつれ、車窓はビルから 田園風景 へと変わってゆく。冬枯れのこの季節を象徴するかのように車窓に茶色が多くなる。

 この列車の最大のハイライトはJRと東武が接続する栗橋駅である。栗橋到着直前、「まもなく、東武線内に入りますが、その前にいったん車内の電 気が消え ることがありますのでご注意ください」と放送案内が流れる。このコラムでは過去に何度か、異なる電源方式の境界となる区間に置かれる死電区間 (デッドセク ション)の話をした。しかし、東北本線の黒磯以南と東武はどちらも直流1500V区間であり、電源方式は同じである。それではこの死電区間はなん のために 存在するのだろうと思うが、その答えは簡単だ。私の向かい側の席にいる女性4人組の乗客が「あら、やっぱり鉄道会社が違うと電気代が違うのね」と 言ってい る。正解! 死電区間と言うより両社の責任分界点といった方がいいかもしれない。

 栗橋に着くと、JRと東武の駅が並行しており、なるほど、これは両社の接続にちょうど良い地理的条件だと感心する。「日光」「きぬがわ」を通す ため、両 社の駅に挟まれるように新設された連絡線に入った列車はいったん停車。「セクション入」という標識が設置された電柱の横を通り、スルスルと東武線 内に入 る。

 東武線内に入った列車は再び加速する。東武線内の駅を列車が通過する際になにげなく駅名標を見ると、列車と同じ白・赤・オレンジに塗り分けされ ている。 いうまでもなくスペーシアの車両カラーである。今回の乗り入れがあくまで東武鉄道主役であり、国鉄を退けて日光への観光客輸送の覇権を確立した東 武に対し てJRが敬意を表する形で実現したものだということを、これほど見事に象徴する色はないだろう。

 栃木、新鹿沼と停車してきた列車はいよいよ下今市に近づく。私の乗った「きぬがわ」はこの先、鬼怒川温泉まで走るが、日光に行くにはここで降り なければ ならない。下今市で東武日光線の普通列車に乗り換える。東武日光駅で列車を降り、改札を抜けたところで、手にした「日光・鬼怒川フリーきっぷ」を 眺めた私 は驚いた。JRが発行する割引切符なのに、フリー区間にJR線が含まれていない。JR日光線すら含まれていないのだ。おまけにフリー区間の入口駅 は東武鉄 道の駅である下今市のみ。今市〜日光間はJR日光線と東武日光線が並行しているにもかかわらず、JR線でフリー区間に入ることができないのであ る。日光に 来たい者は東武で来なさい、ということである。いかに過去の「敗北」があるとはいえ、この痛ましいまでのJRの姿勢に私は哀れみを覚えた。せめて JR日光 線をフリー区間の入口駅に指定し、両方乗れるようにしてもらえれば、片道は東武、片道はJRに乗って未乗区間であるJR日光線の初乗車も果たせる と思って いたのに…。

 列車とバスを乗り継ぎ、奥日光に着くとそこはすでに真冬の寒さだった。もう夕方だったのでそのまま宿に入る。時々猿が顔を出すこともあるという 露天風呂 に浸かったが、残念ながらこの日、「来客」は現れなかった。

 翌26日は朝からバスで中禅寺湖へ移動し、湖を一周する遊覧船に乗る。デッキに出ると寒かったが、中禅寺湖はとても雄大で、遊覧船から見える男 体山が美 しかった。午後からは華厳の滝と東照宮を見た。東照宮はいかにも江戸幕府が最も安定した治世を誇っていた時期に造られただけのことはあって、そこ かしこが 金色にきらめいていた。

 こうして私は日光観光を終えたわけだが、実際にJR〜東武鉄道直通列車の乗車という体験を終えた今でも、なんだか夢の中の出来事のような気がす る。思え ば、鉄道全盛期にはあちこちで国鉄と私鉄との相互乗り入れや「連絡運輸」(切符の通し発売)が行われていた。富山地鉄と直通する列車や、島原鉄道 との直通 急行など、ネットワークとしての鉄道の利点を生かした縦横無尽の輸送形態がそこにはあった。それが国鉄末期から、地方の中小民鉄との相互乗り入 れ、連絡運 輸は縮小の一途をたどり、JRになってからもその流れは変わらなかった。今では相互乗り入れといえば、大都市部の地下鉄との直通運転を指すものだ というの が一般的認識であろう。地方での新たな相互直通運転といえば、せいぜい国鉄再建法施行に伴う工事凍結線を復活させた第三セクター鉄道との直通運転 程度にと どまっている(北越急行、智頭急行などの例)。

 北海道から鹿児島までつながっている全国ネットワークの線路をわざわざ6つに分割してできたのがJRである。ネットワークとしての鉄道の価値に 正面から 逆行する形で生まれた分割JRにネットワークとしての鉄道活用などできるわけがないと言われれば全くそのとおりであり、信越本線横川〜軽井沢間 (碓氷峠) や新幹線「並行在来線」の切り捨てなど、全国鉄道ネットワークを活かしていく方向とは逆の政策ばかり採られてきた。それが、部分的とはいえJRと 私鉄地方 路線との相互直通運転がこうして始まったのである。

 今回のJR〜東武鉄道直通特急の運転開始が、尼崎・羽越などの相次ぐ大事故によって始まった民営JR体制崩壊の時代の徒花で終わるのか、それと もネット ワークとしての鉄道の価値を見直していこうという確かな潮流になるのかは、もう少し今後の推移を見なければわからない。しかし仮に後者であった場 合、しば らく時が経ってから「いま思えばあのときが転換点だった」として引き合いに出される出来事になることは間違いないだろう。たかがひとつの直通運転 くらい で…と疑問に思う向きもあるかもしれないが、今回の直通運転開始に当たって、大塚陸毅・JR東日本社長は「競争する場面では競争するが、協調すべ きは協調 する」と述べたとされる。民営化以来、競争一辺倒だったJRの営業政策に微妙な変化が出始めている。

 2007年春には、JR・私鉄・バスなど関東のほとんどの交通事業者が参加する共通カードシステム"Pasmo"(パスモ)の運用開始も控えて いる。鉄 道事業者が、会社の垣根を越えてひとつのカードシステムで運賃を決済できる新たなシステムの導入という流れにJRも否応なく巻き込まれている。

 そのように考えると、JR発足以来の競争から脱して協調に向かう流れの中に今回の直通運転は位置づけられると思う。日本の鉄道が、大競争の時代 にはいつ も衰退し、競争を抑制して協調・統合を進めた時代にはいつでも発展してきたことは、日本の鉄道の歴史を少しでも学んだ者なら誰でも知っている。鉄 道の競争 の時代にも積極的な割引施策が採られたり、鉄道従業員の言葉遣いや態度がよくなると言ったことは確かにあるかもしれない。しかしそれらはすべて副 次的なも のであって、安全向上や技術発展、あるいは職人的な意識を持った鉄道員の養成といった、鉄道にとって真の財産となるような本質的な部分の発展は、 いつも協 調と統合の時代に実現してきたのが日本と世界の鉄道史なのである。そのような鉄道史を知る一ファンとして、ネットワークとしての鉄道の活用に各鉄 道事業者が真剣に取り組み始めたことは、明るい話題が少ない最近の鉄道界にとって久々の朗報である。ぜひともこの流れを確実なものにすることで、 私も鉄道の発展の ための力になりたいと思っている。

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