鉄道ブームの影で〜撮影マナー非常事態宣言
数年前からマスコミが火をつけた鉄道ブームは、一般人をも巻き込んでさらに拡大の様相を見せている。巷では鉄道アイドルを標榜する女性タレントまで現れた。鉄道ファンが「根暗、オタク」と言われ続けた冬の時代を含め、35年以上鉄道ファンを続けてきた私にとって、この趣味への理解者が増えるのは結構なことだが、一方で一昨年ごろから目立ち始めた写真撮影のマナーの悪化は、今や 「第3次非常事態宣言」を出さなければならない深刻な状況を迎えつつある。
その象徴が、2010年2月14日に関西本線で起きた事件だろう。河内堅上駅周辺を中心に、年に数回しか走行しない臨時運転のお座敷電車「あすか」を撮影しようと集まった50人ほどの鉄道ファンの一部が線路敷内にはみ出していたため、現場を通る列車が急停車。JR西日本社員が構外に出るよう説得したが、一部のファンは聞き入れず、19本の列車が運休し、警察が出動する騒ぎになった。JR西日本は、この種の事件としては きわめて異例の措置として被害届を提出し、大阪府警が鉄道営業法違反(鉄道地内立ち入り)容疑での捜査を始めた。場合によっては列車往来危険罪の適用も視野に入れたものになるという。
事件現場となった河内堅上駅は、川に沿って走る関西本線の列車が山峡の勾配を上っていく絶好の場所にある。 関西本線でも最も景色が美しいところであり、少しでもいい写真を撮りたいという気持ちは理解できないわけではないが、今回のファンの行動はあまりにも度を超している。このままでは、一部の不心得者のために善良な大勢のファンも含め、鉄道写真の撮影が不可能となる事態も予想される。
とはいえ、鉄道ファンの撮影マナーが問題化するのは今回が初めてではない。寄せては返す波のように興亡を繰り返してきた鉄道趣味の歴史の中で、マナー問題 もまた幾度となく浮かんでは消えた。そうした過去の歴史を振り返ることは、撮影マナー問題を考える上で決して無駄ではないと思う。
鉄道ファンの写真撮影マナーが問題となった歴史上最初の時代は、筆者の知る限りでは1972年頃から始まっ たSL(蒸気機関車)ブームだろう。国鉄が策定した動力近代化計画によって、1975年までに全てのSLは引退し、電気機関車・電車やディーゼル機関車・気動車に置き換えられることになっていた。国鉄が動力近代化を進めた背景には、SLのばい煙に苦しむ沿線住民からの無煙化への要望に加え、発生させたエネルギーの6〜7%程度しか動力に使えないというSL特有の動力効率の悪さがあった(ちなみに、ディーゼル車両では発生させたエネルギーの30〜40%程度、電車・電気機関車では50%程度は動力として使えるといわれている)。しかし、いざSL全廃が決まってみると、今度は力強く煙を上げて走るSLへの郷愁から、文化遺産としてSLの動態保存(動かせる状態に整備し、実際に走らせながら保存を行うこと)を求める声が高まることになった。
第1次写真撮影マナー問題は、こうした時代背景のもと、SLブームの高まりによって1972年頃から次第に表面化した。この年10月、SLを使って汐留〜東横浜間で運行された「鉄道100周年記念号」で大混乱が起き、国鉄内部でも安全運行を危ぶむ声が大きくなったが、 ついに1976年9月4日、古参鉄道ファンの間で今も「負の歴史」として語り継がれる大惨事が起きるのである。
この日、東海道本線京都〜大阪間開通100周年を記念して、京都市の梅小路蒸気機関車館に展示されていたC57型を使用した列車「京阪100年号」が運転された。この列車の運転は関西マスコミで大々的に予告され、当日は多くのファンが沿線に繰り出した。途中、いくつもひやりとする場面はあったが、京都発の下り列車は無事に大阪に到着し、折り返しの列車が京都駅に向かう途中のことだった。写真撮影を狙う鉄道ファンの暴走は次第にエスカレート、何人ものファンが線路に進入し、向かってくるSL列車を正面から撮影しては線路外に脱出するという危険きわまりない行為が繰り返さ れた。当然、機関士は警笛を鳴らして警告を発したが、聞き入れる者などなかった。そして、とうとう小学生男児が列車の直前でカメラを持って線路内に進入するに至った。自業自得とはいえこの暴走行為の代償は大きく、男児は写真撮影後、線路から脱出しようとしたが間に合わず、わずか10歳の短い生涯を閉じたのである。
この事故は社会に大きな衝撃を与え、都市部でのSL動態保存運転は永遠に不可能になったといわれた。動態保存運転によってSLの復活を図ろうと考えていた国鉄は計画再考を迫られ、結局、首都圏からも関西からも遠く離れた山口線で1979年から「SLやまぐち号」の運転が開始された。その後も、SLの動態保存運転は首都圏から遠いローカル線に追いやられたまま現在に至っている。
第2次撮影マナー問題は、1978年頃から始まったブルートレイン(寝台特急)ブームだ。1975年に山陽新幹線が博多駅まで開業したため、並行する東海道・山陽本線を走る寝台特急は大きな削減の時代を迎えていた。ダイヤ改正のたびに削減される寝台特急を撮影しよう と、小中学生を中心に再び撮影ブームがやってきた。寝台特急が停車する大都市のターミナル駅では、深夜まで撮影目的の小中学生たちであふれた。中には、カメラからフィルムを取り出す方法も知らずに撮影に来て、使い切ったフィルムを前に途方に暮れた挙げ句、深夜の駅のホームで「誰かフィルムを抜いてくれませんか!」と大声で叫ぶ呆れた者もいたという。結局、この時も深夜まで駅構内にいた一部の子どもたちが警察官や鉄道公安官から職務質問を受けたり、補導される事態にまで発展したため、マスコミからもブームを煽った反省が生まれ、報道は次第に沈静化していった。
5年ほど前から続く今回の鉄道ブームは、質・量ともに当時に匹敵するか、またはそれをしのぐ勢いを持ちつつある。当時と大きく違っているのは、カメラがデジタル化したこと、ビデオカメラを回す者が増えたこと、カメラ付き携帯電話の性能アップにより女性の参入が増えたことであろうか。そのこと自体は喜ばしく、否定すべきことではないが、初心者の参入がそのままマナーの低下をもたらした過去2回のブームと同じ状況を迎えつつある。本来なら、この道数十年の我々のような古参ファンがきちんと注意しなければならないのであろうが、どうしても躊躇してしまう。JR社員の説得も聞き入れないような連中が我々の説得など受け入れるはずもないし、下手をするとこちらが刺されかねないからだ。
こうした鉄道ファンのマナーの低下は、突き詰めると結局、社会的存在である公共交通機関をあたかも自分の私有物であるかのように思い始めることから始まる。いつもは鉄道会社を批判することも多い当コラムだが、今回ばかりは愛する鉄道に迷惑をかけて何が鉄道ファンかと強い憤りを感じる。鉄道は社会の公器であるという認識をファンも再度新たにすべきだ。
ブームを煽り続けるマスコミにも大きな責任がある。特に、ある路線や列車の廃止が決まると「さあ、最後だから乗りに 行こう!」という報道のあり方には大きな疑問を感じる。こうした廃止の時にしか現場に出てこない鉄道ファンが、仲間内でも「葬式鉄」(列車の葬式を挙げるのが専門の鉄道ファン)と呼ばれ、特に忌み嫌われている事実を知らないのだろうか。そうでなくとも、こうしたファンを見ていると、まるで普段は冷たくしておいて、恋人から別れ話を切り出された途端に慌てふためく男のようで滑稽だ。
鉄道の写真撮影は、多額の交通費を支払わなくても自宅の近所で手軽に始められることから、通常、鉄道ファンへの登竜門といわれる。写真撮影をある程度コンスタントに続けるようになった段階で、その人は鉄道ファンの一員とみなされ、「撮り鉄」の称号を与えられる。「撮り鉄」の多くはやがて、実際に鉄道に乗車して楽しむ「乗り鉄」その他へと成長を遂げる。鉄道会社にとってみれば、鉄道に金も落とさず写真だけ撮ってさっさと帰っていく「撮り鉄」は、職員や警備員の増員によって手間とコストだけがかかる厄介な存在である。いなくなっても痛くもかゆくもないが、それでも彼らが将来、社会常識と経済力を兼ね備えた立派な「乗り鉄」(=お客様)に育ってくれることを期待し、将来への投資として受け入れているのである。もし彼らが常軌を逸した行動を続けた結果、利益にならないと判断したら、鉄道会社はいつでも鉄道ファンを閉め出すに違いない。
線路やホームで自分勝手な振る舞いをしている「自称鉄道ファン」諸君に、当コラムは強く警告する。少なくとも私は、 鉄道に迷惑をかけている自覚もなく愚行を繰り返す諸君をファン仲間とは認めない。職員に言われるまでもなく、線路や他人の私有地(庭、田畑など)に無断で 入らない、ホームでは黄色い線から出ないなどは常識以前の問題である。夜間、走行中の列車に向かってフラッシュを発光させるのも、運転士の目をくらませ、 一瞬、前方の安全確認を不可能にさせる危険行為として慎まなければならない。それから、写真撮影それ自体が鉄道会社に負担をかける行為なのだから、少なく とも撮影場所へ出かけるのには鉄道を利用してほしい。これらは、当コラムからの最低限のお願いであり、これさえ守れない者は写真撮影などやめて退去すべきだ。お小遣いの少ない子どもたちで当コラムを読んでいる人がいたら、撮影させてくれた鉄道会社に感謝して、せめて年に1回は家族で鉄道旅行に出かけて欲し いと思う。
一般マスコミではあまり報じられていないが、2008年11月には神奈川県茅ヶ崎市のJR東海道本線の踏切で、倒れた三脚を立て直そうとしていた鉄道ファンらしき男性が列車にはねられて死亡する事故も起きている。過去2回のブームの際に起きた悲劇は決して他人事ではな い。ルールを守らない者には、34年前、わずか10歳で命を散らした男子小学生と同じ運命が待っていることを、改めて強調しておこう。