JR可部線(可部〜三段峡)最終乗車記

 少し時間が経ってしまったが、11月29日〜30日、可部線に出かけてきた。可部線は、可部〜三段峡間が2003年11月30日限りで廃 止となることが決まっていた。私が見たその最終日の模様をお伝えするとともに、この問題について考えたい。
 

可部線の四季は美しい。私が訪れた日、中国山地に寒波襲来。可部線は雪化 粧した。
(1999.1.10 可部線・上殿駅付近にて撮影)

 可部線は、広島駅のすぐ西隣の駅である山陽本線・横川と、三段峡までを結ぶ営業キロ60.2kmの路線だった。区間としては横川〜三段峡 だが、列車はすべて広島方面から乗り入れていた。横川から途中、広島市安佐北区に位置する可部駅までは電化されており、電車による運転。可 部〜三段峡までが気動車(ディーゼルカー;バスやトラックのように軽油を燃料として走る)に よる運転。今回廃止となったのは、この気動車によって運転されている区間である。もともとは、三段峡を経て島根県・浜田(山陰本線)へ抜ける 路線として計画されたが、浜田延長の夢はかなわなかった。 

 終点・三段峡駅は、三段構造の滝(三段滝)などを擁する国定公園・三段峡の入口に当たり、特に美しい紅葉と渓谷美のみられる秋は多くの観 光客が訪れる。広島駅からバスも運行されており、中国自動車道・戸河内ICからも至近距離で、中国山地のまっただ中という地理的条件の割には 交通の便に恵まれている方だろう。

 そして、私にとって三段峡は単なる観光地ではない。また可部線も単なるローカル線ではなく、いまも特別な存在として私の中にある。国鉄が 分割・民営化されると聞いたとき、私は日本の鉄道はこれでおしまいだと深く失望し、数年間、鉄道趣味から離れていた。このまま「新生」(とマスコミが喧伝していた)JRが利益優先の鉄道へと変わってゆくなら、私は鉄道ファンを廃業する 決心をしていた。そして1989年11月、私がやってきたのがここ可部線だったのである。 

 このときの私には自分に「踏み絵」を課する目的もあった。自分は鉄道ファンであり続けたいのかそうでないのか。この気動車に揺られ、紅葉 美しい渓谷に足を踏み入れたとき、隠されている私の本当の気持ちが明らかになる。その時、心は決まる…。そこには人生の岐路にさしかかってい る自分がいたのだ。

 可部線と三段峡ではいろいろな人・ものに出会い、いろいろな出来事に遭遇した。初めてのひとり旅でふらりと訪れた私を暖かくもてなしてく れた民宿のご主人。時が止まったかのようにトコトコとのんびり走り続ける気動車と、その車中での地元の人たちとの心温まる交流。そして、ハッ と息をのむような美しい渓谷と紅葉。全てを洗い流すような川のせせらぎ。そこにいるだけで背筋がピンと伸びるような、張りつめた山の空 気…。 

 美しい渓谷から戻って再び可部線の人となったとき、私の心は決まっていた。いったい自分は何を迷っていたのだろう? なぜ鉄道ファンを廃 業しようなどと考えたのだろう? こんなにもすばらしい未知の世界が私を迎えるために待ちかまえているというのに、ここでくじけていてどうす るのだろう?

 それから14年。今も可部線と三段峡は、私にとっての「原点」であり続けている。汽車旅のすばらしさ、ローカル線と大自然、そして「ひ と」の心の美しさを教えてくれた原点として。私を鉄道ファンの道へ導いてくれた日豊本線の車両たちが、鉄道ファンとしての私の「生みの親」だ とすれば、可部線と三段峡は、鉄道へのロマンを失いかけた私に希望を吹き込んでくれた「育ての親」。 

 その可部線がなくなるというのは、私にとって親の死と同じである。「偉大な可部線の子」である私が「親」の死に目に立ち会わないなどとい うことがどうして許されようか?

 廃止前日の29日、私は可部線を使って三段峡を目指していた。列車も長くてせいぜい2両というのが普段のこの路線の姿だが、この日は可部 駅でさらに2両を増結し4両となる。それでも乗り切れず、すし詰め状態の列車にうんざりしつつ、「普段からこんな風であれば廃止なんかされな いのに」とぼやく地元の人たちの姿が、国鉄末期の特定地方交通線整理の時に重なる。やはり歴史は繰り返しているのだ。 

  11時前に三段峡へ着く。この日は最終日でないので目立ったイベントもなく、三段峡の峡谷歩きをする。学生時代以来、14年ぶりの三段峡。前回来たときは 軽やかにステップした記憶のある同じ峡谷が、今度は前回よりもきつく感じる。2日後には師走に入ろうという時期なのに季節外れの小春日和。ぬ かりなく防寒対策をしてきた旅人たちがたまらず上着を脱いでいる。 

 結局、この日は三段峡名物の三段滝と二段滝を、約2時間かけて歩き回った。夕方、可部線の写真撮影をし、三段峡前の小さな旅館に落ち着 く。たまたま旅館の浴場で一緒になった中年男性がぼやいていたのが印象に残った。「時ならぬ廃線パニックで人が多くて落ち着かないし、お目当 てだったスキー場はこの暖かさのせいで人工雪も作れないそうで参ったよ」。

 翌30日、いよいよ可部線最終日となるこの日の朝は旅館で明けた。この日は、朝から歩いて写真撮影。11時前に到着する列車を撮って駅前 に戻ると、可部線に感謝する神楽の上演が始まっていた。13時から、地元の関係者専用の臨時列車が出発するのに合わせてセレモニーが行われ、 臨時列車が発車していった。 

 15時までに神楽の上演も終了。最終列車が発車する際に再度小さなセレモニーが行われ、可部線の最終日は幕を閉じた(と聞いている。私は最後までいなかったもので…)

 さて、最終日の可部線は、感慨に浸る間もないままこうして慌ただしく過ぎていったわけだが、JR西日本が廃止の意向打診をしてから5年 間、地元を揺さぶり続けた可部線問題をどのように捉えればいいのだろうか? 

 この区間の廃止の噂が持ち上がった99年、私は地元・加計町役場に可部線の経営成績について問い合わせたことがある。可部線の赤字額は 「横川〜可部間(電化区間)が4億円、可部〜三段峡間(非電化区間)が6億円」という回答だった。これが事実なら、今回廃止される可部〜三段 峡間の営業成績だけが特別に悪いわけではない。横川〜可部間14.0km、可部〜三段峡間46.2kmという営業キロ数から1km当たり赤字 額を算出すると、むしろ今回廃止となる可部〜三段峡間の方が半分以下であり、相対的には営業成績がよいとさえ言えるのだ。しかも、可部線より 営業成績の悪い線区が、同じ中国地方にいくらでもある(木次線、三江線など)ことを考えるな ら、地元住民ならずともこの廃止劇に釈然としないものを感じるのは当然だろう。 

 私は、今回の可部〜三段峡間の廃止理由は、盲腸線(行き止まり路線)であることに尽きる と考えている。他の路線に抜けることができない盲腸線では、その路線のためだけに車両を仕立てなければならないからだ。可部線より営業成績が 悪い路線として引き合いに出した木次線や三江線の場合、他路線に抜けられるため、その線区内の乗客が少なくても、車両は線路がつながっている 他線区から乗り入れることで必要とする車両数をある程度少なくでき、結果的にコストは安くなる。可部線の場合、これに加え、横川〜可部間に電 化区間が存在するため、可部〜三段峡間のためだけに気動車を十数両も用意せざるを得なかった。そのことが、多額の運行コストを発生させる要因 になっていたことは想像に難くないからだ。国鉄末期に廃止された特定地方交通線にも盲腸線が多かったし、JR化以降、特定地方交通線以外で廃 止された路線の中でも函館本線・上砂川支線は盲腸線だったのである。

 日本の赤字ローカル線問題の歴史を追っていくと、面白い事実に突き当たる。戦後の国鉄にとって最初のローカル線問題は、1968(昭 43)年、国鉄諮問委員会が「使命を終えた」83線区の廃止を答申した、いわゆる「赤字83線問題」であろう。その次が、ご存じ国鉄再建法の 制定で、同法の基準によって特定地方交通線となったのが、またもや同じ83線区だったのである(この時の対 象路線は68年のものとは異なる)。そして、特定地方交通線のうち最初の廃止線・白糠線のバス転換が1983(昭58)の ことである。 

 そして、ここ数年、今度は私鉄で次々と廃止路線が出ている。いくつかの第三セクター鉄道でも経営危機が表面化しつつある。どうやら日本で は、鉄道の経営が相次いで破綻する15年くらいの周期があるようだ。「赤字83線」の1968年、特定地方交通線の転換が開始した1983年 と来て今は98年くらいから始まった「第3次鉄道危機」のまっただ中というのが私の現状評価である。今度は私鉄・第三セクターを中心にまた 83線区程度が日本の鉄道地図から消えるのだろうか? ふと、そんなことを思い憂鬱になる。 

 しかし、今後に向け希望を感じさせる動きもある。実は、可部線のレールは廃止後も撤去されていない。将来へ向け、地元で復活運動が続いて いることも理由のひとつである。鉄道事業が届出だけで1年後には廃止できる、とした鉄道事業法の改悪にもかかわらず、鉄道会社による廃止表明 から廃止までに5年もかかったこと自体、根強い運動の成果と捉えることもできよう。鉄道は社会資本であり、公共交通であり、鉄道会社の玩具で はない…そのことをはっきり示すことができた、意義のある5年間だったといえないだろうか。 

 日本の鉄道は相変わらず長期低落傾向の中にある。地元では当面、観光鉄道としての復活を目指すとしているが、車両を1両作るだけでも数億 の費用がかかる鉄道の復活には相当の覚悟も必要だろう。しかし、事故から2年間運休を続けた京福電鉄が、地元の存続運動の結果、えちぜん鉄道 として復活した例もある。理屈では困難だと解っていても、ファンとして、きっとまたいつか「かべせん」に逢える日が来ることを信じた い。 

 サヨナラなんて言わないぞ!

(管理者より)可部線の復活運動については太田川流域鉄道再生協会サ イトに詳しい内容が載っています。趣旨に賛同いただける方はぜひカンパをお願いします。
 

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