私の 原点・日比谷線事故

 2000年3月8日、営団地下鉄(現・東京地下鉄)日比谷線・中 目黒駅で 起きた脱線事故から早いもので9年経った。例年、この事故に関するマスコミ報道はきわめて冷淡なものだったが、どういうわけか今年は例年 よりも扱いが良 かったような気がする。慰霊祭では、死亡した5人の乗客の遺族の他、東京地下鉄の梅崎寿社長も献花。「9年が経ちましたが、心から申し訳 なく思っており、 改めておわびするとともに亡くなられた方にご冥福をお祈りします」と追悼の辞を述べたという。

 9年前の「あの日」…2000年3月8日の出来事を、私は今も忘れない。横浜勤務で、大船に住んでいた当時 の私は、 その日、高田馬場で仕事を命じられ、同じ仕事を言い渡された同僚と2人で高田馬場へ向かうことになっていた。大船から横浜までJRで行き、横 浜から東急東 横線に乗り換える。渋谷まで東横線で行き、JR山手線で高田馬場へ…というルートで行こうと前日から打ち合わせていた。

 ところが、いつもは集合時間より早めに来ている同僚から、その日に限って少し遅れると電話があった。「横 浜、渋谷で 2回も乗り換えしていたら時間ヤバいよ。乗り換え回数を減らした方が早くなりそうだから、少し遠回りになってもJRにしない?」と同僚から ルート変更の提案があったので、私は承諾し、大船から品川までJRで直行、そのまま山手線に乗り換え高田馬場に着いた。

 途中、午前9時15分頃だっただろうか。品川で東海道線から山手線に乗り換えようとしたとき、駅のアナウン スが「地 下鉄日比谷線が爆発事故で運転見合わせ」を告げた。同僚と「爆発? あり得ないよな。誰かのいたずらだろう」と言い合いながら、私たちは山手 線に乗り換えたのだった。

 午後3時過ぎ、高田馬場で仕事を終えた私は、残務がある同僚より一足先に帰ろうと高田馬場駅に着いた。この とき、駅 の張り紙で日比谷線がまだ不通のまま、復旧のめども立っていないことを知った。事あるごとに復旧が遅いJR東日本と違い、いつもはすぐ復旧す るはずの営団 地下鉄が、運転見合わせから6時間経っても再開のめどすら立たないとは、よほどの重大事態だと思った。やがて、日比谷線で脱線事故が起き、乗 客が亡くなっ ていることを電光表示のニュースで知ったとき、私は全身が震えるのを感じた。今朝、もし当初の予定通り東横線に乗っていたら、まさに事故が起 きた午前9時 頃、現場の中目黒を通過するタイミングだったからだ。

 同僚の遅刻が、結果的には私たちの命を助けてくれたのだと、そのとき知った。亡くなった5人の乗客と、助 かった私た ちの間に存在していたのは、ほんの少しの場所と時間の違いだけだった。同僚が遅刻してこなければ、私たちと5人が入れ替わっていた可能性は高 かった。この とき私は、運命の非情さ、冷酷さを思わずにいられなかった。


 運輸省(当時)の調査によって、この事故の原因が、急カーブでの横圧による脱線だったことが突き止められた。中目黒は、日比谷線と東急東横 線が合流する 地点にあり、地下を走っている日比谷線が地上に躍り出てくるところである。ここには、通常運転方式の鉄道としては限界値に近い35パーミル (1000分の 35)の急勾配があり、しかもその急勾配区間に半径160メートルの急カーブがあった。

 160メートルが鉄道線路の半径としていかに小さいか。それは、2005年に脱線転覆事故が起きたJR福知 山線の事 故現場のカーブが半径300メートルだったことを付け加えておけば十分だろう。福知山線のカーブのほぼ半分の半径だ。しかもこのカーブが、 35パーミルの 登り勾配の途中に位置しているのである。誤解を恐れず言えば、ちょっとしたジェットコースターのようなものである。

 脱線防止のための護輪軌条(いわゆるガードレール)はなかった。営団は、半径140メートル以下のカーブに は護輪軌 条を設けなければならないという社内規定を制定してはいたが、この社内規定はアリバイ作りと断定してもいいほどの酷いものだった。なぜなら、 そもそも当 時、鉄道施設・設備の基準だった運輸省令「普通鉄道構造規則」が、鉄道の曲線の最小半径を160メートルとし、それより小さい半径を認めてい なかったから である。つまり、この時点での営団の規定は「護輪軌条はどこにも設置しなくてよい」というのと事実上同じことであり、全くの無意味だった。

 この場所では、1965年、1992年にも事故が起きており「魔のカーブ」と言われていた。しかも、電車の 左右の車 輪にかかる重量(輪重比)が最大で30%以上も偏っているという危険な状態がありながら放置され続けていた。輪重比の極端な偏りに危険を感じ た現場から、 会社上層部に対し、実態解明のための輪重計設置を要求する声が公然と上がっていたが、会社は無視した。1941年の創立以来、(踏切とホーム 転落を除け ば)一度も死亡事故を起こしていなかった帝都高速度交通営団の輝かしい歴史とは裏腹に、「魔のカーブ」はいつ犠牲者が出てもおかしくない危険 な状態だった のだ。

 事故後、営団は現場に護輪軌条を設置するとともに、運転速度を落とす措置を取った。運転速度を落とせば、遠 心力に起 因する横圧は減少するから、脱線の危険性も大きく減る。だが、これはあくまでも対症療法的な措置に過ぎないのであって、このような危険な状態 を放置してい た営団の責任は、きわめて重い。


 9年前のあの日、同僚の遅刻によって私たちは偶然、命を救われた。なんの取り柄もないのに生き残った私は凄惨な現場のすぐそばにいた。私と 引き替えるよ うに散っていった5つの貴い命。みずからが持っている鉄道の知識を安全向上のために使おうと決意したのは、このときだった。

 日比谷線事故は、鉄道の安全向上に取り組む私にとって「原点」となった事故である。あれから9年…乗客が死 亡する鉄 道事故は不幸にして3件発生している(京福電鉄列車正面衝突事故、尼崎脱線事故、羽越線事故)。鉄道その他、公共交通の安全を求める私の活動 は、これから も続く。

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