JR 西日本区間全線完乗を終えて

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 鉄道ファンとして、私がライフワークとしていることのひとつに全 線完乗が ある。完乗とは完全乗車のことで、全線全区間もれなく乗車することを指す。鉄道ファンの中でも主に乗車を楽しむ人のことを「乗り鉄」と俗 称するが、この 「乗り鉄」は写真撮影を楽しむ「撮り鉄」と並んで鉄道趣味の中では最もポピュラーな存在である。

 乗り鉄にとって、全線完乗は究極の目標である。国鉄〜JR線だけを乗車対象とする人、私鉄も含む人、路面電 車など法 律上は鉄道でない「軌道線」も含む人など乗車対象の範囲は様々で、ケーブルカーやスキー場のリフトにも鉄道事業法が適用されることから、人に よってはこれ らを全線乗車の対象に含むこともある。鉄道雑誌で紹介された完乗達成者の中には、リフトに乗るだけを目的としてスキー用具も持たずにスキー場 を訪れ、お目 当てのリフトに乗るだけ乗ったら帰り支度を始めたため、居並ぶスキー客に奇異の目を向けられた人もいる。

 1980年には、国鉄の増収策の一環とする狙いもあって、完乗を目指す鉄道ファンを対象に「いい旅チャレン ジ2万キ ロ」キャンペーンが始まった。路線ごとに始発駅と終着駅で「証拠写真」を撮って事務局に申請すれば、その路線を乗車したことが正式に認定され るというもの で、多くの鉄道ファンが国鉄全線でその認定を受けようと東奔西走し始めた。1980年は国鉄再建法制定の年だったから、「特定地方交通線(廃 止対象路線) をできるだけ減らすために鉄道ファンを利用しているのではないか」といううがった見方もあったようだが、このキャンペーンは結果的には鉄道 ファンに好評を 博した。国鉄分割民営化でJRとなった後もキャンペーンは続けられ、当初の約束通り10年経過した1990年をもって「いい旅チャレンジ2万 キロ」キャン ペーンは終了した。

 その後、第三者が乗車を公式に認定するシステムはなくなり、完乗は各鉄道ファンの自主的ルールに委ねられる ことに なった。ルールは人によって様々であり、夜行列車で寝ている間に通過した区間は乗車とみなさず、後日昼間に乗り直して初めて乗車とする、ポイ ントレールの ある場所では全てのポイントを通過して初めて完乗とみなす、二重線籍区間(線路の戸籍である「線籍」上で2つ以上の路線が重複している区間) は2回乗らな ければ完乗とみなさないなど、すさまじいルールを己に課している人もいるが、私の場合、そんなことをしていたらこの世にいる間に終わりそうも ないし、楽し くなくなるような厳格なルールは趣味の世界になじまないと考えているので、ルールは必要最小限にしてある。そうはいっても、8〜9割の鉄道 ファンから「そ のルールなら完乗」と認めてもらえるようなものでなければならないから、それなりに厳格なルールであるともいえる(私の完乗のルールは、こちらに示したとおりである)。

 生まれた頃から鉄道ファンだった私が、全線完乗を意識したのは意外(?)に遅く、1997年、それまで整理 されてい なかった乗車記録を初めてまとめたときである。手帳に書き留めたメモや切符、写真類から乗車記録をまとめて完乗達成率を割り出した。そのと き、すでに全国 のJR線・特定地方交通線転換第三セクター線のうち4割を超える達成率であることがわかり、それなら…と全線完乗を目標に掲げたのである。

 それから13年の歳月が流れ、すでにJR東海区間の完乗は達成、JR西日本の未乗車は1線のみ。JR東日本 は3線、 第三セクター線も2社3線を残すのみとなった。九州は残り5線、四国も残り3線である。まだ大半が未乗車のまま残る北海道を除けば、すでに完 乗達成は視野 に入りつつある。

 ところで、全線完乗を進める鉄道ファンにとって、終盤まで未乗車で残る路線にはいくつかの特徴がある。

1.盲腸線(行き止まり路線)である。
2.列車本数が極端に少ない(2〜3時間に1本以下)。
3.大都市圏から遠く、アクセスが容易でない。
4.自然条件が厳しく、災害でしばしば止まる。

 私にとって、JR西日本区間に唯一残った未乗車路線である越美北線も、この4条件すべてに当てはまる典型的 な「乗車 困難路線」である。福井県の越前花堂〜九頭竜湖まで52.5キロメートルを結ぶこの盲腸線は、本来ならとっくに乗車を完了しているはずだった が、2004 年7月に発生した福井豪雨がその計画を狂わせた。豪雨で甚大な被害を受けた越美北線は、一乗谷〜美山間が不通となり、2007年6月に復旧す るまで3年近 くを要することになった。JR西日本区間でここが最後になるかもしれないという予感はこのときからあったが、その間、2008年11月1日、 紀勢本線・阪 和線の完乗を果たしたことで、予想通り、JR西日本区間では越美北線だけが未乗車のまま残ることになったのである。

 
「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを  聴きに行く」
上野駅のホームには、石川啄木の歌碑がある


 2010年2月12日、金曜日、夜。年休を取得した私は上野駅のホームにいた。来る3月改正で、上野〜金沢間を走る夜行列車「北陸」「能 登」が揃って廃 止になるので、その最後の姿を記録するとともに、「能登」に乗っておこうと思ったのだ。日頃、当コラムでさんざん「葬式鉄」(廃止の時しか現 場に出てこな い鉄道ファン)を批判しておきながら、自分が同じ行動を取るのはどうかという罪悪感にさいなまれるが、自宅からここまで鉄道で来たのだし、こ れから「能 登」に乗るのだし、その後も北陸各地を回るのだから、写真だけ撮ってさっさと帰ってしまう連中とは違うという自負心もあった。それに、昨年3 月の改正でと うとう半世紀の歴史を誇った九州寝台特急が姿を消した。東京〜北陸間の夜行も今回消える。北陸新幹線、北海道新幹線の工事も順調に進んでお り、2015年 には北海道夜行も消え、「夜行列車」という言葉自体が死語となる可能性が高い。夜行列車の姿を記録にとどめておこうと思うなら、ここ数年がラ ストチャンス であることは間違いないのだ。

 そんなことを考え、上野駅で「あけぼの」(今回はとりあえず廃止対象ではない)、「北陸」を撮影しながら 「能登」の 入線を待つ。23時13分、ようやく「能登」が入線。2号車に乗り込む。23時33分、定刻に上野を発車。大宮では、遅れている京浜東北線の 乗り継ぎ待ち のため「能登」も10分遅れとなったが、高崎で停車時間をカットしてダイヤを定刻に戻す。その高崎を過ぎると、夜行列車らしく車内は減光さ れ、私は急速に 眠気に襲われた。

  

                        <あけぼの>                        <北 陸>                         <能 登>


 翌朝、目を覚ますと列車は富山を発車してしばらくした頃だった。後ろ向きに走っていることに気付くが、長岡(新潟県)で進行方向が変わるの だからこうならないほうがおかしい。座席を回そうか考えたが、終点まで1時間を切っている状況で回してもたかが知れている。

 車窓には雪がちらついている。「能登」を降りた後は、いよいよ越美北線に行く予定になっている。覚悟して出 発したと はいえ、越美北線が雪で動かなかったらどうしようと思ったが、おそらくそんなことはなかろうと悪い考えを頭から追い出す。金沢から越美北線の 始発駅、越前 花堂までは100キロメートルもないのだから、ここまで来て行かなかったら乗り鉄の名が廃るというものだ。

 「能登」は2月13日午前6時29分、定刻通り金沢に到着した。6時55分発の普通列車で福井を目指す。福 井には8時27分の到着だ。越美北線は越前花堂が始発だが、列車は全て福井から運転される。9時6分の発車まで朝食をとりながら待つ。

 9時6分、いよいよ越美北線の列車は福井駅を滑り出した。くれぐれも道中、何もないようにと願う。いくら鉄 道ファンが強い意志を持っていても事故と災害には勝てない。全線完乗には「運」の要素もある。

 越美北線に入った列車の車窓は次第に険しさを増し、最後まで不通区間だった一乗谷〜美山間に差し掛かる。険 しい峡谷 の間を縫うように流れる川を鉄橋で列車が渡っていく。並行して走るのは2車線の国道1本のみ。なるほど復旧に時間もかかるというものだ。儲か らないローカ ル線を抱えながら復旧させたJR西日本に、当然とはいえ敬意を表する。リニア新幹線のために5兆円用意しながら、名松線復旧には金を出そうと もしないJR 東海は、JR西日本の爪の垢でも煎じて飲むがいい。

 途中、10時2分着の越前大野駅では13分間の小休止。2両編成だった列車は切り離され、後ろの1両はこの まま福井 行きとして折り返す。一方、先へ進む前方の1両にとって、ここから終点、九頭竜湖まではスタフ閉そく式となる。スタフを持った1列車だけが進 入を許され、 その列車が戻ってくるまで他の列車は入ってゆけない。鉄道の保安方式としては最も単純かつ原始的なものだが、人の手のぬくもりが感じられ、な ぜかホッとす るやり方でもある。10時15分、いよいよスタフ閉そく区間に列車は分け入ってゆく。車窓は1メートル近い雪が積もった銀世界で、もはや雪以 外に何もな い。心配していた天気は回復し青空が広がっている。日光を反射する一面の雪がまぶしい。勾配の厳しいローカル線のためにJR西日本が送り込ん だワンマン運 転用気動車・キハ120形に上り勾配の苦しさは感じない。

 列車は相変わらず峡谷の間を縫って流れる川を、時々鉄橋で渡りながら走る。地形に逆らわずに敷かれた線路 は、この路 線がトンネル技術の拙かった昔に建設されたことを示している。川を渡る橋の上からふと車窓を見る。黒い山、黒い川…何もかも黒く染まった陰鬱 な風景を純白 の雪が覆うその美しさに一瞬、はっと息をのむ。それはあたかも水墨画の中の世界に迷い込んでしまったかのようである。この水墨画の世界を走る ローカル線が 私は好きだ。春は新緑、秋には紅葉、それもきっと美しいに違いないが、冬の水墨画の世界にはきっとかなわないと思ってしまう。

   

                                   <越美北線のキハ120>                 <水墨画のような車窓風景>

 列車は長いトンネルに突入した。地形に逆らわないように作られたローカル線も、四方を山に囲まれた谷底から 出るとき はさすがにトンネルに頼らざるを得ない。そして、盲腸線は谷底を抜けて一定の規模を持つ集落に達したときに終着を迎えることが多いという事実 を、私は経験 上知っている。つまり、長いトンネルは盲腸線の終着駅が近いことの表れなのだ。

 トンネルを抜けると、景色が山峡から小さな集落に変わった。まもなく終点にたどり着く。車内がざわつき始め たが、明 らかに旅装の人はおらず、地元の人たちのように見えた。そして午前10時46分。私を乗せたたった1両だけの列車は、定刻通り終点・九頭竜湖 に到着した。 この瞬間、JR西日本区間の全線完乗が、ついに成った。


<九頭竜湖駅>

 九頭竜湖駅は、終点の小さな駅ながらも、観光拠点としてそれなりに機能していることが明らかだった。委託駅 員が配置 され切符が売られている。駅前には「和泉ふれあい会館」があり、地域の観光名所の案内や特産品の販売を行っている。駅前に小さな食堂が営業し ており、店員 とみられる女性が高く積もった玄関前の雪をシャベルで片付ける作業をしていた。季節になれば、新緑や紅葉を求めてこの周辺を訪れる人は多そう だ。

 駅のすぐ前を通っている国道158号線を20キロメートルほど東へ走ると、長良川鉄道の終点・北濃駅に抜け ることが できる。そんなわずかな距離ならどうして鉄道を接続させなかったのかと不思議に思う人も多いかもしれないが、もともとこの両線は1つにつなが る予定だっ た。越前花堂から越美北線、美濃太田(岐阜県)から越美南線として工事が進められたこの両線は、いずれは越美線としてつながり、福井から美濃 太田へ抜けら れるようになるはずだった。しかし、九頭竜湖と北濃まで工事が進んだところで国鉄再建法施行に伴い工事は凍結となった。越美南線は特定地方交 通線の指定を 受け、長良川鉄道へと姿を変える。今でも長良川鉄道沿線では、同線を越美南線と呼ぶ人に出会うことがある。かつては両線を結んで走るJRバス の路線があ り、福井〜美濃太田間を抜けることが可能だったが、それも2002年に廃止され、両線は正真正銘の盲腸線となった。国鉄再建法になんとか間に 合い、1本に つながった三江線のような幸運な路線もある一方、こんな悲しい路線もある。

 わずかな折り返し時間を利用して駅前を散策した私は九頭竜湖駅に戻った。ふと窓口を覗いてみると「到着証明 書」なる ものを配っているという。無料ということもあり、迷わず申し出ると、日付印で今日の日付を印字した絵葉書タイプの到着証明書をもらうことがで きた。『本 日、あなたは福井県最東端にあり豊かな自然に囲まれたJR越美北線の終点駅九頭竜湖駅に到着したことを証明します 九頭竜湖駅』

 過去、いろいろな鉄道路線を旅し、乗車証明書などはもらったことがあるが、到着証明書というのは初めての経 験だ。な かなか粋な計らいだと思うと同時に、嬉しさがこみ上げてきた。水害による不通に陥り、いつまでも復旧の気配を見せない越美北線に苛立ち、恨め しく思った時 期もあった。しかし今はそれすらも私への祝福であるかのように思えた。ローカル線、終着駅、水墨画のようなモノトーンの世界と、粋な到着証明 書。もしここ が水害で不通になることもなく、私がJR西日本区間の全線完乗を阪和線で終えていたら、都会の中の終着駅でもない幹線が完乗達成地点になって いた。そのよ うに考えると、待った甲斐があったというものだろう。


<到着証明書>

 九頭竜湖からの折り返し列車の発車時刻が迫った。私は簡単に写真撮影を済ませて車内に戻った。列車は軽くエンジンを吹かせると、思い出の地と なった九頭 竜湖を後にした。今回の旅は、所用で大阪に出かける途中のルートに「能登」と越美北線を組み込んだ経緯もあり、妻は一緒ではなかった。私は帰りの 列車の中 で、彼女の携帯電話に宛てて「完乗達成」のメールを送った。程なくして「おめでとさん」という返信があった。シャイな彼女は嬉しいときにわざとそ のような 表現をする。喜んでくれているのだな、と思った。

 列車は再び長いトンネルを越えて集落から山峡へと入り福井へと向かう。思えば、本格的な鉄道乗車活動に踏み 出した私 が初めてJR西日本区間に入ったのは1989年、下関駅でのことである。それからゴールまでに21年もかかったわけだ。全国全線完乗達成者が 出版した本に よると、JR線全線完乗はすべてを捨てて専念すれば2ヶ月ちょっとで達成できるというが、普段仕事を持っている私にそんなことは無理だ。それ に、私はもと もとJR西日本区間の全線完乗を達成したからといって、それを有頂天になって祝おうという気はさらさらなかった。祝えば、旧国鉄の全国ネット ワークをずた ずたに引き裂いた23年前の「分割民営化」を承認することになるからだ。私はあの「改革」とやらを承認する気持ちには今もなれない。だから、 今回のJR西 日本区間の全線完乗も、全国全線完乗へ向けたひとつの区切りとして記録するにとどめておきたいと思っている。

 いずれにせよ、私のJR線乗車率は90%を越えた。そう遠くない時期に、全国全線完乗を達成するときが来 る。そのときこそ多くの人に祝福してもらおうと思っている。そのときが訪れるまで、終着駅は、新しい旅への始まりに過ぎない。

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