「スプーンおじさん」にご用心! 面白くてためになる「希釈」と「濃縮」のお話
やっぱり汚染水は海に流してはいけない

2021年11月19日

 2021年11月13日、福島県いわき市で「汚染水を海に流すな! 海といのちを守る集い」が開かれました。この集会では、鈴木譲・東大名誉教授の「放出された放射性物質は『希釈される』と東電は説明しているが、決して薄まることはない。放射性物質はまとまって海洋を浮遊するだけで、水に溶け込んで薄まって、なくなるものではない」と発言されました。福島県から京都市に避難された方がそれを聞いて「衝撃を受けた」という感想を述べていたのが、私にはとても印象に残りました。

 公害を垂れ流す企業や、その側に立って被害を小さく見せたがっている「御用学者」と呼ばれている人たちは、しばしばこういうレトリックを使って市民を欺こうとします。今日は、そんなレトリックにごまかされてしまわないよう、科学的思考法を市民のみなさんに身につけていただくことを目的として、この記事を作成しました。



 ●「希釈すれば減る」って正しいの? ~「減るけど減らない」ビミョーなお話

 東京電力の「希釈すれば減る」という説明は果たして正しいでしょうか。

 日常的に料理をしている方なら誰でも経験があると思いますが、スープを味見してみて「ちょっとしょっぱいかな」と感じたらどうしますか。お鍋に水かお湯を足すと思います。経験豊富な方は、目分量で適当に水やお湯を足し、もう一度味見して、ちょうどいい塩加減になるまでこれを繰り返します。「希釈」は日常生活の中にもあふれています。

 薄める前は塩味が濃すぎて他人には食べさせられないな、と思っていたスープに水かお湯を足す。もう一度味見をして、ちょうどいい塩加減になったのを確認すると、なんだか塩味が薄くなったせいか、減ったような気がしますよね。

 いや、実際、減ってるんです。「単位体積当たり」の塩の含有量としては。ここでいう単位体積当たりとは、全体の中で一部分を取り出して、その一部分を基準としてその中に特定の物質がどれだけ入っているかという話のことです。例えば体積1立方メートル当たり○○gとか、重量1キログラム当たり何ベクレルという含有量のことです。料理なら「スプーン1杯当たり含有量」です。

 スープを作ってみて味見をしたら、しょっぱい。そこで水やお湯を入れ「希釈」する。もう一度味見をすると、ほどよい塩加減になっている。なぜそうなったかというと、お鍋の中の水の量を増やすことで「スプーン1杯当たり」の塩の量が減ったからです。くどいようですが、実際、減ってるんです。「スプーン1杯当たり」で見るなら、という条件付きですが。

 でも、お鍋の中に含まれる塩の総量としては、減ってなどいません。水やお湯を足していくら「希釈」しても、減らせるのは「単位体積当たり」含有量、つまりスプーン1杯当たりの含有量だけです。一度お鍋に入れてしまった塩の総量を減らすことはできません。「覆水盆に返らず」ならぬ「覆放射能、炉に返らず」です。

 私は、原発事故が起きた後3年目くらいまでは、よく各地で講演会の講師として福島の体験を話す機会がありました(最近は世間もこの話を忘れたいのか、ほとんど依頼もなくなりましたが)。そこで聞かれるのが「海に流せば放射性物質は減るという人がいるが、あれは本当ですか」です。

 「単位体積当たり」の話であれば、狭い場所から広い場所に移すことでどんな汚染物質でも減らせます。でも汚染物質の「総量」はどんなに頑張っても減らす方法はありません。「減るけど減らない」とでも答えることにしましょうか。

 ●「スプーンおじさん」の話は「ウソ」ではないが……

 「(単位体積当たりとしては)減るけど(総量としては)減らない」のが希釈であるとすれば、東電や御用学者は決してウソをついているわけではありません。悪意をもって市民を騙す目的でそういう言い方をしているのかというと、そうとも言い切れないような気がします。それではなぜ市民と「御用学者」の話はいつまでもすれ違い、かみ合わないのでしょうか。

 それは、学者はいつも「単位体積当たり」の話をしているのに対し、市民は「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」という疑問に解を求めているからなのです。でも残念ですが、彼らにその解をいくら求めたとしても、たぶん徒労に終わると思います。

 そもそも彼らはそういう文化の下で育てられていません。大学では単位体積当たりで物事を考えるのが当然だと教えられてきましたし、自分たちも学生にそう教えています。1キログラム当たり何ベクレルとか、大気1立方メートル当たり何ppmなど特定単位で「定量的」に評価することが科学だと信じているんです。単位体積当たりでしか物事を捉えられない、そういう人たちのことを昔、ある原発関係の講演で「スプーンおじさん」と呼んだら会場は大爆笑でした。もちろん、福島の深刻な放射能汚染の状況を考えたら笑っている場合ではないのですが、ともすれば退屈になりがちな講演会で聴衆に聞き耳を立ててもらうためには、笑わせる仕掛けもときには必要です。

 スプーンおじさんって何だい? と思った特に若い人たちのために説明しておきますと、1980年代に「スプーンおばさん」というアニメがNHKで放映されていました。スプーンおじさんはそのパロディーです。御用学者には女性もいますが圧倒的多数は男性です。時代と社会がジェンダーにうるさくなってきた今、特定の性別や属性に紐付けて批判をするのは可能な限り避けるべきでしょう。しかし、権力を持っている側、社会や組織を支配している側への批判となれば話は別です。圧倒的権力を持っている圧倒的多数の男性学者たちが「汚染総量」のことが知りたい市民を欺き「単位体積当たり」の話に巧妙にすり替え、公害垂れ流し企業を擁護しているときに、彼らをスプーンおじさんと批判することが間違っているとは思いません。

 ●スプーンおじさんが忘れている濃縮の話

 ゼロリスクを求め、少しでも汚染物質が環境中にあると怖い怖いと叫ぶ「“定性的”にしか物事を考えられない市民」をスプーンおじさんたちは心の底では非科学的と馬鹿にしています。しかし、子どもを放射能から守りたいと必死になっている福島の親たち、政府が避難指示を出してもいない地域から、あえてすべてを捨ててまで避難した人たちは、果たして嘲笑されなければならないほど愚かなのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、笑っている御用学者たちの「科学的」な「定量信仰」にこそ異を唱えたいと思います。

 もし忖度という文字の読み方も意味も知らない、そもそもこんな漢字見たこともないという心のきれいな市民がいたとして、その人が「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」と無邪気に質問したとしましょう。すると、それまで「ニコニコしている人には放射線は来ない」とばかりに笑顔だったスプーンおじさん達は一転して般若のような怖い顔になり、無邪気な質問をした善良な市民に対し、オマエは地球人類の敵だとでも言わんばかりの謎の総攻撃をしてきます。企業の経済活動のために放出された汚染物質の総量を聞くなんてことは「分別ある大人」のすることではないという「確固たる空気」ができているのが不思議の国ニッポンのニッポンたるゆえんなのです。

 スプーンおじさん達は、分別ある大人は単位体積当たり、スプーン1杯当たり含有量の話をしていればそれで事足りるのだという根拠のない自信に満ちあふれています。理由を尋ねると「大食い自慢の芸能人でも一度に吉野家の牛丼特盛を10杯は食えないでしょ。だから人間の胃の中に収容可能な単位体積当たりで基準値以下ならいいんです」と大声で謎の威圧をしてきます(これは私の作り話などではなく、実際に北大原子力工学科の御用学者から言われたことがあります)。

 でもスプーンおじさん達、ちょっと待ってくださいよ。人間以外の生物にまで世界を広げれば「一度に吉野家の牛丼特盛を10杯」以上食べる生物なんてざらに存在します。全長が人間の何十倍もあるクジラなんかは典型でしょう。アーンと口を開け、パクッと閉じると、牛丼特盛10杯どころか100杯くらい一度に食べてしまう生物はこの地球上にいくらでもいます。

 そういう生物が一度にたくさんの汚染物質を飲み込んで、体内に蓄積する。それを繰り返して、クジラの筋肉の中に大量の汚染物質が蓄積されたところで、IWC(国際捕鯨委員会)なんかクソ食らえとばかりに脱退し、国際社会に背を向けてガラパゴス街道をひた走る日本の漁船がそのクジラを捕って、さばいて売る。それを我々人間が食べる。過去の公害は全部このパターンで起きたんです。

 この一番大事なことを、スプーンおじさん達は忘れています。何でもかんでもスプーン1杯単位でばっかり考えていると、井の中の蛙になり大海が見えなくなる。スプーンおじさんはスプーン1杯より大きな数量は計れません。そんな人たちに福島県民の運命を委ねてはならないのです。

 ●スプーンおじさんも本当は知っている

 いま私は、スプーンおじさんはスプーン1杯より大きな数量は計れないと言いましたが、厳密にはそうではありません。スプーンおじさん達も本当は知っているんです。自分たちが「単位体積レトリック」で市民をごまかしながら擁護してきた公害企業が、どれだけ多くの汚染物質を自然環境中に垂れ流してきたか。

 それは別の表現をすれば「どれだけ自然と生命に多くの危害を加えてきたか」と同義です。「自分たちが自然と生命に対してどれだけ巨大な罪を犯したか」と表現してもいいでしょう。だからこそ「企業の経済活動のために放出された汚染物質の総量を聞く」人に対し「分別ある大人」のすることではないなどとレッテル貼りをし、謎の大声で威圧、攻撃してくるのです。自分たちの巨大な罪を暴こうとする存在に対しては、どんな生物でも防衛反応が働きます。自分の立場をそれで固めてきたスプーンおじさん達が自分の「大切なもの」を守るためそうせざるを得ないというのであれば、「理解」できなくもありません。

 (この場合の理解とは、「そういう社会的立場はあり得るよね」という意味での理解です。これに対し、私たちは私たちで被害者としての「大切なもの」を守るため、それに「理解」を与えないという社会的立場が当然あり得ます。そして私は論じるまでもなくその立場にあります)。

 私は、この記事に目を通している「あなた」には、忖度という態度を身に付けてほしくありません。こんな読みにくく難しい漢字、今後も覚える必要はありません。世の中には知らないほうが幸せなこともたくさんあり、忖度もそのひとつだからです。

 世の中というのは大変うまくできていて、「世界を変えよう」なんて大上段に構え、粉骨砕身して頑張っている人にはなかなか世界を変えられません。むしろ、そのような大それたことはこれっぽっちも考えておらず「ただ無邪気に疑問に思ったことは口に出してみたいだけ」の人の何気ない問いかけが世界を変えるきっかけになることのほうが多いような気がします。

 人との約束を破ってはいけませんが、世界記録と理不尽な空気は破るためにあります。「で、結局東京電力さんが環境中に放出した放射性物質の総量はいくらで、それは私たちの健康や生活にどのくらい影響するんですか?」と無邪気に質問できる「あなた」であってほしいと願っています。

 あなたのその質問に答える意思、能力が「スプーンおじさん」にあるかどうかは私にはわかりません。

 ●汚染水はやっぱり流してはいけない

 最後にもう一度結論を確認しておきましょう。どんなに頑張っても減らせるのは「単位体積当たり含有量」だけであり、一度流れ出た汚染物質の総量は絶対に減らすことができないという結論に変わりはありません。汚染水はどんなことがあっても海になど流してはいけません。

(終わり)

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