=20世紀を振り返って=

20世紀に徘徊した「妖怪」、社会主義〜経済、そして思想〜

〔目次〕

・はじめに〜序論〜
1.社会主義と共産主義の違いについて
2.「理想郷」とそれを実現するための前提条件について
3.革命は一段階か二段階か
4.理想と現実〜早すぎた政権
5.ボルシェヴィキの裏切り〜錆びつく理想
6.社会主義の運命を決めた男・スターリン
7.生命力尽きた理想〜惰性と崩壊の時代へ
8.社会主義とは何か?
・補論1・・・中国の「社会主義市場経済」に関する考察
・補論2・・・錆びつく理想、虚ろな国歌
・補論3・・・共産主義と国家社会主義
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・はじめに〜序論〜
「恐るべき“妖怪”が徘徊している。共産主義という名の妖怪が」・・・現代の社会主義国家へと繋がる「科学的社会主義」の始祖となったマルクスは「共産党宣言」の中で、自らが提唱した共産主義を妖怪に擬して見せたのですが、このほど終焉を迎えた「戦争と動乱の20世紀」において確かにそれはこの人類世界に存在し、いくつかの国家を実際に支配し、その支配下にあった国家では折からの世界大戦ともあいまって人々を数奇な運命に陥れた、と言う意味において、その「妖怪」との形容は実に適切であったと言えます。
21世紀という新しい時代の扉が開かれた今、過ぎ去った100年間を振り返るにあたり、形のない「思想」としてのみならず、形を持った「社会体制」として確かにこの世に現れた「社会主義」「共産主義」の考察は避けて通れない課題であり、また人類の明るく豊かな未来について検討する上でもきわめて有為なものとなるでしょう。
社会主義、共産主義については、数々の先達によって実に様々な角度からの考察・研究が既に行われており、私ごときが今頃になって考察の対象とするにはあまりに「強敵」過ぎるのですが、それでも当サイトをご覧の皆様にとってこの稚拙な考察が少しでもお役に立てるなら、筆者としては喜びこれに勝るものはありません。
そういうわけで、内容的にはきわめて薄弱ではありますが、ここに拙論をまとめ、発表させていただくこととします。
 

2001.1.4
筆      者
 
1.社会主義と共産主義の違いについて

社会主義と共産主義の違いについては、定式化すれば、「労働に応じて分配される」のが社会主義、「欲求のおもむくままに分配される」のが共産主義ということになるでしょう。この定義に従えば、歴史上、どこの世界にも共産主義は存在しなかったことになります。
社会主義社会においては、マルクスが述べた「各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」が原則であり、
 
(1)能力以上に労働できる人間は当然のことながら存在せず、「能力に応じて社会に提供し、労働に応じて分配される」原則のもとでは、すべての人間が「分配される以上に提供しなければならない」点において資本主義的「搾取」を残存させていること
(2)勤勉な者とそうでない者との「分配の差」を当然の前提としていること
 
の2つの点において、資本主義から共産主義への途中段階と捉えられます。つまり、資本主義的な労働・分配関係を一部残しながら、生産手段だけを「社会的所有」に切り替えた段階を社会主義と定義するのが妥当と思われます。
 
(注)「資本主義的な労働・分配関係を一部残しながら、生産手段だけを社会的所有に切り替えた段階」と は、ここでは20世紀、地球上の全ての社会主義国がそうであったような体制・・・国家が企業を所有・経営し、雇用者として労働者を雇い入れる体制・・・のことを指す。この段階をそもそも社会主義と定義できるかどうかについては、共産主義者の間でさえ見解が分かれており、マルクスは「この段階でさえ、もっとも先進的な資本主義体制と比べてもなおはるかに優れている」と述べている。また、エンゲルスは、資本主義社会でも郵便、鉄道、電話などの大規模交通・通信機関に国有(ないし国有国営)が多い理由について、社会的性質の強い産業ほど「私有」という所有形態と経営との乖離がひどくなり、株式会社の下での管理が難しくなっていくためである、と説明している。 エンゲルスはまた、産業の国有化は資本主義国家の下で行われたものであっても「社会そのものによるいっさいの生産力の掌握にいたる新たな前段階に達したことを意味する」(「空想より科学へ」、1880年)点において進歩である、とマルクスの考えを認めた上で、ビスマルクですら鉄道の国有化を実施しており、生産力そのものの社会的所有は単なる産業の国有化だけでは達成できない、と述べ、産業が単に国有化されただけの形態は社会主義の「前段階」であるとした。

一方、トロツキーは、「社会主義の課題は連帯とあらゆる欲求の調和的な充足とを基礎とする無階級社会をつくりあげることだと考えるならば、この基本的な意味ではソ連には社会主義などまるで存在しない」(「裏切られた革命」、1936年)として、当時のソ連の体制を「国家独占資本主義」と呼んで社会主義と区別した。トロツキーの考えでは、当時のソ連の社会体制は、単に資本主義時代に資本家によって担われていた企業経営が官僚の手に委ねられたに過ぎず、 企業経営者たる官僚のもとでの「賃労働」の実態は資本主義の焼き直しとしてしか映らなかったようである。

なお、エンゲルスが社会主義の「前段階」とし、トロツキーが「国家独占資本主義」と断じたこの段階の社会も、本稿では前述したとおり、一応社会主義として以下、論述することにする。〔この部分、2001.11.4加筆〕

共産主義では、資本主義の負の遺産であるこれらの不平等がすべてなくなり、その後には不平等を前提にして、限られた生産財を「誰に優先的に分配し、誰を後回しにするか」を独占的に決定する国家の存在そのものが必要でなくなることから、この段階で国家は「死滅」、最終的に「社会主義的人民」による自主管理・自主分配に移行する、とされていたのです。
そして、この自主管理・自主分配が実現した後の社会では、労働は人々にとって既に「義務」ではなく「欲求」となっていて、必要最低限の財(社会全体の必要に見合っただけの分量)を生産するための最小限の労働しか必要でなくなるわ けですから、固定した「職業」を持ちかつそれに縛り付けられる必要もなくなることになります。
極端に言えば、全ての労働者達が、欲求のおもむくままにいつも違う仕事をし、従事する仕事を毎日変えていったとしても、一生のうちに二度と同じ仕事はしなくて済むくらい、仕事に対する自由度が高い社会が訪れることになるわけです。資本主義社会の下では、限られた人々だけに解放されている職業・・例えば特殊な技術・熟練を必要とし、俗にプロ○○とか○○士などと 呼ばれるような職業・・も、熟練した技能を高度に発達した科学技術でカバーすることによって誰にでも平等に開放されるのです。
「共産主義」がもたらす理想の姿は、およそ次の一文の中に集約されていると言えるでしょう。

「共産主義社会では、各人はそれだけに限定されたどのような活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で自分の腕を磨くことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、わたしはしたいと思うままに、今日はこれ、明日はこれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」(『ドイツ・イデオロギー』マルクス・エンゲルス)
 
2.「理想郷」とそれを実現するための前提条件について

社会主義と共産主義の違いについては、1で述べました。
ところで、「朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよい」社会はあくまでもマルクス、エンゲルスが描いた理想でした。
マルクス・エンゲルスは、このような理想社会が誕生するための条件として「生産力の高度な発達」を前提としていました。つまり、労働者が工場で機械のボタンをポンと押すだけで、その人が何十年もかかってようやく消費するような大量の物資が一瞬で生産されるような社会を想定していたのです。そのためにマルクス達は、社会主義の前段階として「ブルジョア資本主義」の段階が必要であると考えたのです。
マルクスによれば、利潤を目標として生産をコントロールしようとする資本家達によって生産力が極度に高度化されると、その高度な生産力と資本家による生産手段の独占的所有との間に矛盾が生じます。人が何十年もかかってようやく消費するような大量の物資が、資本家の利潤のために毎日生産され、労働者達も資本家の最大利潤のために過酷な労働を強いられ、決して解放されることはありません。(レーニンは後に、国内だけでは飽き足らなくなった資本家達が利潤を求めて外国にまで「経済侵略」を広げて行くさまを「帝国主義」と呼び、資本主義が崩壊する直前に現れる最終段階であると定義した。)
マルクス達共産主義者は、この矛盾を解決するために社会主義革命は起こる、と説きました。つまり、生産力が高度に発展したこの段階で生産手段を社会的所有に移せば、利潤と労働が切り離され、労働者は社会が必要とする最小限の物資を生産するための最小限の労働だけで済むようになり、結果、労働者は過酷な労働から解放される、と考えたのでした。
 
3.革命は一段階か二段階か〜3派の闘い

ところで、ロシア革命当時、ロシアでは社会主義革命を巡って3つの「革命党派」が勢力争いを 繰り広げていました。彼らは、帝政打倒の1点では完全に一致していましたが、その後の共産主義社会の建設を巡ってはそれぞれ主張が異なっていました。
まず、ナロードニキ(ロシア語で人民派の意)は、ロシア社会革命党(エス・エル党)を中心と する勢力で、「生産手段さえ社会的所有になれば、自然に共産主義に到達する。何よりも生産手段の社会的所有こそが大切だ」として、帝政から一気に共産主義を目指す「一段階革命論」を唱えました。このため、ナロードニキは大衆との共同を重視し、「大衆のなかへ!」(ヴ=ナロード)のスローガンを掲げますが、そもそも生産力の裏付けがない状態でどのようにして物質的充足を実現するかに関する展望を全く欠いていたため、やがて帝政を支える主要人物に対する個人テロなど過激で場当たり的な政治運動に堕して自滅、革命運動の中でヘゲモニーを握ることはありませんでした。
これに対し、残りの2派・・・メンシェヴィキとボルシェヴィキは、「“各人の欲求のおもむくままに分配できる”理想社会は、生産力の高度な発展があって初めて可能になる」として、「資本主義を実現するためのブルジョア市民革命」 と「社会主義革命」の二段階が必要である・・・と「二段階革命論」を主張しました。この主張は、物質的生産力の裏付けを持っている点でナロードニキに比べてはるかに現実的な主張といえます。その上で、メンシェヴィキはとりあえず資本主義体制の下で生産力が成長するのを待ってから漸進的に政権を取って社会主義へ移行していくことを唱える一方、ボルシェヴィキは「一段階目の革命から二段階目の革命へは急速に移行するべきである」として急進的二段階革命を唱えたのがその大きな違いでした。ナロードニキとメンシェヴィキ・ボルシェヴィキのうちどちらがマルクス・エンゲルスに忠実であったかと言えば、それは後者の方でしょう。〔この項、2001.11.4全面書き替え〕
 
(注1)このように、第一段階の革命から社会主義へと至る第二段階への革命までの期間を長期間と見て漸進的に革命を進めるか、短期間と見て急進的に革命を進めるかの違いはあるが、最終的な目標として社会主義を目指している点においてメンシェヴィキとボルシェヴィキは一致していた。この点で両者は、最終的目標として社会主義を目指さず、資本主義社会そのものを容認してその中での改良を目指す西欧諸国共産党のトリアッチ路線(いわゆる「ユーロコミュニズム」)とは明確に一線を画している。メンシェヴィキも一応社会主義革命に至るまでの過渡期においては資本主義を許容しているが、それは自らが目指す社会主義社会の成功にとって欠かせない要件である「高度に発達した生産力」を資本主義に「準備させる」ためであり、その準備が整ったら直ちに社会主義を目指していくのである(ボルシェヴィキについては後述)。蛇足になるが、日本共産党は「資本主義から社会主義への移行までには長い時間がかかり、その間は大企業を民主的に統制するなどの施策を通じて働く者の権利を追求していく」としているものの、いまだ社会主義への移行を公式には否定しておらず、その意味ではメンシェヴィキの思想を比較的忠実に追求していることが見て取れる。〔この部分、 2001.11.4加筆〕
 
(注2)レーニンたちの党の名称については一般に「ボルシェヴィキ」「ボルシェヴィキ党」「共産党」な どの呼称が混在していて、かなり混乱が見られる。そもそもレーニンが率いていた党は当初ロシア「社会民主労働党」であり、これがやがてロシア共産党に変化していく。一方「ボルシェヴィキ」は、主にメンシェヴィキに対して、急進的二段階革命を主張したレーニンたちの一派を区別する呼称であったが、やがて革命運動の中でレーニンがヘゲモニーを握るにつれロシア共産党そのものに対する別称として使われるようになった。革命によって権力を握った後、ソビエトは15の民族共和国からなる連邦国家に姿を変えるが、それでも「ロシア」共産党の名称はそのままであり、連邦国家としてのソビエトを指導する政党としてふさわしい「全ソ共産党」という名称に変わったのはかなり後になってのことである。なお、全ソ共産党という名称に変わった後も、しばらくの間は党名の下に括弧書きでボルシェヴィキという単語をつけたものが党名として使われており、スターリン時代の公文書にはしばしば「全ソ共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会書記ヨシフ・スターリン」の署名が見られる。括弧書きによる「ボルシェヴィキ」が使用されなくなるのはフルシチョフ時代以降のことであり、その後は「全ソ共産党」がソビエト連邦とその中核であるロシア共和国の両方を代表するという体制が長期間続く。1980年代に入り、ロシア共和国大統領となったエリツィンによって連邦共産党と別個にロシア共和国共産党が創設されるまでの間、ロシア共和国には独自の共産党組織は存在していなかった。〔この部分2001.11.4加筆〕
 
4.理想と現実〜早すぎた政権

共産主義によって実現される理想社会の姿については2で述べました。しかし、歴史上他の多くの事象がそうであったように、ここでも当然のことながら社会主義の現実は、理想とは全く異なるものでした。
世界で初めて社会主義政権が生まれたのはロシアのボルシェヴィキ(共産党)政権が初ですが、 ロシアでこの政権が誕生したとき、ロシアは極度の後進国であり、生産力の高度な発展どころか「資本主義の鎖の最も弱い環」(レーニン)しか存在しない社会でした。
それまで、社会主義が世界中のどこにも存在せず、もっぱら想像の産物に過ぎなかったことを思えば、この程度の違いは無理からぬことであり、マルクス達ですら、その現実の姿については想像すらできなかったのでしょう。
 
(注)とはいえ、生産力の裏付けのないまま社会主義が成立する可能性についてマルクスが全く考慮しなかったわけではない。彼は、社会主義が「一般的な貧困」を土台として成立した場合、「・・・必需品をめぐるたたかいがはじまるに違い なく、古いごたごたの全体が再びよみがえるに違いない」と述べている。このことは第二次大戦後、ソ連・東欧での「パンを買うための行列」によって見事に証明された。〔この部分2001.11.4加筆〕
 
ロシアは、「2月革命」「10月革命」という二段階の革命を通過します。最初、ロマノフ王朝が2月革命で倒され、ケレンスキーを首班とする臨時政府ができますが、ケレンスキー政権はロシア国民の間に充満していた厭戦気分を読むことができず、第一次大戦からの撤退を渋ったため、やがて10月革命が起こり、ボルシェヴィキに倒されました。
歴史に「もし」は禁物ですが(^^;;、もしケレンスキー政権がある程度長続きし、その間に 資本主義体制の元で生産力が高度の発展を遂げれば、その後を引き継いだボルシェヴィキ政権の元でロシアには理想社会へ至る道が用意されて いたのかも知れません。しかし、ここでケレンスキー政権が数ヶ月しか持たなかったことは、二段階革命論を唱えたボルシェヴィキ指導部の計算が大きく狂ったことを、事実上意味するものでした。
ボルシェヴィキにとって、ロシアでの政権奪取は「早すぎた」のです。
それでも、ボルシェヴィキ指導部は希望を捨てませんでした。

「(ブルジョア市民革命の担い手である)ロシアのブルジョアジーが無力であるなら、自分たちがブルジョアジーに代わって第一段階の革命もやればよい」と考えたのです。その認識に立って、革命直後のロシアではいったん、資本主義的手法を取り入れた新経済政策「ネップ」が実行に移されました。

---ネップの元で生産力を高度に発展させ、その後に社会主義政策を実行する。

これにより、ソ連では理想郷が約束されたかに見えました。

しかし、やがて理想郷への道を永遠に閉ざす重大な出来事が起こります。しかも、その重大な出来事は驚くべきことに、ボルシェヴィキ内部からやって来たのです。

(注)そもそも、史的唯物論においては、歴史は原始的社会・・アジア的社会・・封建的社会・・資本主義社会・・社会主義社会の順で展開するとしていた。そこでは、社会主義社会へ向けた高度の生産力を準備するため、資本主義社会はある程度の期間続くことが想定されていたから、その意味ではマルクスのもっとも正統な継承者はボルシェヴィキではなくメンシェヴィキであったといえよう。しかし、「ロシアのブルジョアジーが無力であったため、君主制や農民の半農奴的隷属性の廃絶といった後進ロシアの民主主義的課題はプロレタリアートの独裁を通じてしか解決できなかった。・・・ロシアがプロレタリア革命の道に踏み入ったのは、ロシアの経済が最初に社会主義的変革への準備がととのったからではなく、資本主義の基盤の上ではもはやまったく経済が発達できなかったからで ある。まず国を未開状態からぬけださせるために生産手段の所有を社会化することが不可欠な条件となった」(「裏切られた革命」)。

つまり、ボルシェヴィキ指導部の計算は決して「狂った」のではなかった。ロシア社会の現実を見ればマルクスの原典から逸脱したこの方法しかなかったし、彼らもまたそのことを認識していた。

「急速な二段階革命」を特徴とするボルシェヴィズムそのものがロシア固有の歴史的実験に基づく一種の経験則であり、それはマルクス主義思想全体の中ではメンシェヴィキに比べて「異端」に近いものであった。しかし、社会の現実から出発し実証を積み上げている点で、レーニンたちのボルシェヴィキは社会主義がまだ存在しなかった時代に理論だけを唱えたマルクスよりも勝っていた。彼らのやり方は、ロシアの実情にもっともよく見合った社会主義の実践だったのである。〔この部分、2001.11.4加筆〕
 
5.ボルシェヴィキの裏切り〜錆びつく理想

ネップによって理想郷への道を立派に約束したかに見えたボルシェヴィキ指導部。しかし、ネップによって生じた不平等は、次第に彼らにとって耐え難いものになっていきます。
「我々は“市場”という悪魔をよみがえらせた。これから資本主義の嵐が吹き荒れるであろう。 近い将来、我が国土の一つ一つの部分を、資本主義の遠心力と戦い、歯でかみつくやり方で死守せねばならないときが来るかも知れない」

ボルシェヴィキ指導部の一員だったトロツキーは、早くもネップ開始直後、半ば脅しめいた文句でそう警告します。

ボルシェヴィキ指導部は結局、資本主義化への道を恐れ、ネップを道半ばで中止します。
さらに1922年、ボルシェヴィキ党の書記長に、スターリンが就任します。彼は、「社会主義 は一国的で、行政的な性格を持つ」と頑なに信じ、国家的所有がイコール社会主義的所有であるとして、事実上社会主義の定義の変更に踏み 切ったのです。

生産力の高度な発展を基礎とした、「社会主義的人民」による自主生産・自主分配への道を否定 し、すべての生産・分配を国家が管理することを正当化した彼の政策は、事実上理想郷への道を永遠に閉ざすものでした。
しかし、「国家の手によらない自主生産・自主分配」が否定されたとしても、国家管理の元で生産力が高度な発展を遂げれば、いずれソ連国民に「効率的な生産体制による最小限の労働」が約束される可能性は、まだ残されていました。

それを不可能にしたのは、折からソ連を襲った第二次大戦であり、もう一つはスターリン体制下で起こった「恐怖政治」でした。

第二次大戦は、ソ連を徹底的に破壊し、経済を麻痺させ、ソ連国内は戦争遂行のための物資調達が追いつかない状況になりました。密告と粛清の「恐怖政治」はこうした背景を基に成立し、生み出された大量の「無実の政治犯」達は、囚人労働を支えるための労働力として、最大限に利用されることになります。

この結果、ソ連国民にとって約束されるはずだった生産力の高度な発展は実際にはやって来ないまま、後には戦争で疲弊した国土だけが残りました。
 
6.社会主義の運命を決めた男・スターリン

国家的所有こそが社会主義的所有であるとする重大な定義の変更が、スターリン時代に行われたことは既に述べました。この変更を、うわべだけの言葉の問題と捉えるのは大きな誤りで、実際は、社会主義とは何か、そして世界で初めての社会主義政権が資本主義世界、第三世界に対してどのように接していくかに関する政策にも影響を与えずにはいませんでした。
実は、スターリンは、10月革命当時、ボルシェヴィキ党の中央委員に名前を連ねていない、全く無名の存在でした。
・・・「もし10月革命当時、現在の中央委員会の姿をスターリンに映して見せたとしたら、 まっさきにかれ自身が驚いたはずだし、その驚きには偽りの謙遜はなかったはずである」(『裏切られた革命』トロツキー)
その彼が頭角を現し始めたのは、民族主義に関する彼の論文が、レーニンの高い評価を受けてからでした。レーニンは、自分のあとに来るべき指導者としてスターリンとトロツキーを想定し、2人の協力を望んでいたと言われます。しか し、1922年に共産党書記長の職についたスターリンは、レーニンの思惑とは全く違う方向へ党と国家を「指導」し始めるのです。
もともと、ロシアという国は、官僚主義の強固さにおいて世界でも屈指の存在であると言われていますが、ボルシェヴィキにとって、その官僚制は「国家の死滅」へと至る生産力の高度な発展のプロセスの中で、やがては国家もろともうち倒し、滅ぼさなければならない「悪」でした。自分たちにとって都合のいいように生産・分配を管理し、統制できる官僚達の存在は、ボルシェ ヴィキ指導部にとっては、「朕は国家なり!」の言葉と共に権勢を欲しいままにしたニコライ2世と同様の姿に見えていたのです。
しかし、もともと正統派ボルシェヴィキでなく、ボルシェヴィキ的歴史観を持たなかったスターリンにとっては、官僚達は自分が国家を支配していくための「友」でした。社会主義を「一国的で行政的な性格を持つ」と信じていたスターリ ンにとって、官僚制はうち倒すべき絶対悪ではなく、必要に応じて利用していく便利な存在だったのです。事実、スターリンは官僚達に必要な保証を与えることにより、官僚制の生き残りを事実上約束することになります。

そもそも、10月革命によってボルシェヴィキ政権が成立したとき、レーニンはソビエトの建国宣言をしませんでした。なぜなら、ソビエトという「国家」は生産力の高度な発展によってやがて「死滅」する運命にあり、「殺す」予定になっている国家が生まれたことを内外に宣言する必要がなかったからです。しかし、スターリンが書記長になると、彼は建国を内外に宣言しま した。それは、ソビエトという国家が、「いつまでも生き続ける」ことを宣言するものであり、そのこと自体が理想郷の否定という重大な路線変更を意味するものだったのです。

一方、脳卒中の発作により余命幾ばくもない状態だったレーニンは、一時的に体調が回復して臨んだ党大会の席で、官僚主義の恐るべき成長と理想郷から遠ざかって行く自国の姿に震え上がり、官僚達との闘いを決意します。彼は、病身にむち打つように立ち上がった壇上で、声を張り上げます。「誰が誰を導いているのか? 導いているのが共産主義者と言えるかどうか、大いに疑問である」・・・。しかし結局彼は再び発作で倒れ、闘いを完遂することが出来ないまま、事態はますます官僚制の強化へと向かっていきます。

このあと、スターリンの下で、もともと強力だったこの国の官僚制が究極の形にまで強化された体制ができあがり、やがて誰にも逆らうことの出来ない「密告と粛清の恐怖政治」がやってくることになるのです。

当初の「気高い理想」はどこへやら・・・今やすっかり輝きを失ったその「理想」は、共産党の独裁を正当化する方便へと堕していきます。

社会主義の運命は、このとき決まっていたのかも知れません。
 
7.生命力尽きた理想〜惰性と崩壊の時代へ

第二次大戦という同情すべき事情があったとはいえ、高度に発達した生産力を国民に用意できなかったソ連が辿るべき運命は、もはや決まっていました。

国民を過酷な労働から解放するための唯一の武器を手に入れられず、しかも社会主義国として憎むべき敵・ナチスに勝った、というプライドが、もう一度ネップという「資本主義への一時的後退」を行わせる勇気をソ連指導部から奪い去ったからです。

ところで、本稿をここまで読み進んできた方の中で、本稿を正確に読解されている方であれば、 筆者に対し、次のような反論を容易に提出できるでしょう;すなわち、「国家の手によらない自主生産・自主分配が否定されたとしても、国家管理の元で生産力が高度な発展を遂げれば、いずれソ連国民に“効率的な生産体制による最小限の労働”が約束される可能性はまだ残されている」と一方で述べながら、他方で、ソ連経済が生産力の高度な発展に達していないこの段階を捉えて「社会主義の運命は決まった」と結論づけるのは時期尚早ではないか? 自己矛盾なのではないか?
このような反論者を筆者が納得させ、反論を引っ込めさせるためには、「ソ連において、今後引き続き共産主義者が権力を握り続けたとしても、生産力の高度な発展に決してたどり着けないと信ずるに足る合理的な理由」を筆者は提示しなければなりません。
この疑問は、社会主義が共産主義に到達して行く過渡期における労働への動機付けの問題と深く 関わっています。

「朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよい」社会が、共産主義の段階に到達して初めてもたらされるものであることは、既にマルクス達からして気付いていました。つまり、この段階に達する以前の社会主義の時期にあっては、労働者を強制的に労働へと駆り立てる外的刺激が必要になってくるのです。

この外的刺激は、資本主義社会の下では利潤であり、国家が直接的に手を下すまでもなく、資本家達が利潤に刺激され、労働者を労働に駆り立ててくれます。しかし、生産手段が社会的所有に移された社会主義では、利潤は労働と切り離されており、もはや労働に対する外的刺激とはなり得ません。
革命直後のソ連で、この問題を解決する手段としてネップが試みられたことは既に述べました。 つまり、共産党政権下で利潤を労働への刺激として一時的に利用したのです。この政策は成功し、革命直後のソ連では鉄鋼の生産が革命前と比べて一気に140%増、つまり2.4倍にまで達します。恐らく、資本主義への道を恐れたボルシェヴィキ指導部が無理矢理にネップを打ち切 らなければ、比較的早い時期にソ連は「ブルジョア資本主義」の段階に達していたかも知れません。
ネップが打ち切られたあとのソ連で次に試みられたのが、スターリン政権下での個人崇拝でした。スターリン個人への忠誠心を利用して労働させるやり方です。この政策は、折からソ連を襲った第二次大戦下の「大祖国戦争」キャンペー ンを通じた愛国主義とも結びついて大きな成果を上げました。独ソ戦初期において軍隊への補給もままならなかったソ連が勝利を収めることができたのは、個人崇拝と「大祖国戦争」キャンペーンによる国威発揚を通じて、労働者をフル生産へと駆り立てることができた点が大きかったと言えます。
しかし、戦時下という特殊な状況があったとはいえ、ソ連経済をフル稼働させた外的要因が政治的キャンペーンであったことは、裏を返せば、ソ連経済が極端に肥大化した官僚主義による指令経済であることをまざまざと示す結果にもなりました。ソ連を恐怖の密告と粛清に陥れた官僚主義が、経済をもがっちり支配下に収めていることが示されたわけです。
こうした官僚主義に加え、スターリン政権下で国民を襲った恐怖政治と言われなき迫害とは、やがて第二次大戦が終了すると、国家に対する忠誠心の破壊という結果になって現れます。スターリンが生きているうちはそれでもなんとか機能 していた指令経済は、彼の死後、完全にガタガタになり、官僚達がどんなに命令しても命令しても、国民はサボタージュしてますます怠惰になっていく悪循環に陥っていくのです。
国家を疲弊させた戦争が終わり、平和な時代になったのだから、とりあえず官僚達の指令通りに働いていれば、やがて理想郷がやってくるかも知れないことも知らずに・・・。
フルシチョフ時代以降のソ連では、もはや労働者を労働へ駆り立てるための政策はその場しのぎに過ぎず、指導部の持ち合わせている対策と言えば「労働規律引き締めキャンペーン」くらいという状況になっていました。

そして、この状態のまま、ソ連は崩壊の日を迎えたのです。

結局、ソ連国民は、最後まで「各人からはその能力に応じて」国家に搾取され、「各人にはその労働に比べて不当に低く」分配されるままの存在でした。

その実態は、奇しくもブレジネフ時代以降、ソ連で頻繁に使われるようになった「現実の社会主義」という言葉が、見事なまでに象徴していました。
 
8.社会主義とは何か?

(1)結局、ソ連が生み出した体制は、本当に社会主義だといえるのでしょうか?
(2)また、社会主義は貧困による平等に過ぎないのでしょうか?
 
まず、(1)について。

ロシア人経済学者のセルゲイ・ブラギンスキー氏はこう結論づけています。

「その姿が、マルクス・エンゲルスが描いた姿とあまりにかけ離れたものになってしまったという意味においてはノーである。しかし、マルクス・エンゲルスの理論を基に社会を作ろうと思えば、現実にはこのような社会しか作れないという意味では、イエスでもある」(『ソ連経済の歴史的転換はなるか』セルゲイ・ブラギンスキー、ヴィタリー・シュヴィドコー、講談社現代新書)
 
(2)について。
これは、社会主義の歴史的生成過程でこのような結果になったものと考えられ、歴史の展開次第では別の可能性があったのではないかと考えられることから、一応私はノーと結論づけたいと思っています。利潤という労働への刺激が働かない社会において、高度な生産力が実現されるまでの過渡期にどうしたら強制力を伴わずに労働への意欲を保持することができるか、という最大の難問が未解決のままですが・・・

マルクスが理論づけたように、高度な生産力を「都合良く」資本主義から引き継ぐことができるなら、社会主義は貧困の哲学ではなくなるでしょう。
20世紀の歴史の中で、社会主義国・ソ連もまた二度の世界大戦に翻弄されました。社会主義が「理想と違う形で生まれ」「理想と違う形で育った」のは大戦の影響を受けていたと思います。
本当に、歴史に「もし」は禁物ですが、もし二度の世界大戦がなかったとしたら、ソ連は地上の楽園になり得たでしょうか?
それは、私にも分かりません。

なぜなら、歴史は「もし」の答えは用意してくれないからです。
 

(本論 終わり)
 
・補論1・・・中国の「社会主義市場経済」に関する考察

さて、本稿はソ連型社会主義を考察したものであり、以下は本題を外れた周辺部分の考察に属するので、本論の一部ではなく「補論」として付け加えておきます。
中国の社会主義を考える場合、資本主義体制による生産力の高度な発展の段階を経ないまま、後進国の共産党が早すぎる政権奪取をした、という点ではロシアと事情は全く同じです。つまり、ここでも社会主義から共産主義へ至る過渡期に おいては、ネップか個人崇拝のどちらかを必要とするのです。
中国では、長らく国民が「毛沢東語録」を手に毛沢東思想の学習をし、それを労働への動機付けにする時代が続きました。つまり個人崇拝だったわけです。それが、文化大革命を経て社会混乱に至ると、指導部は文革を「過ちであり、中国に10年の災厄をもたらした」とする「歴史決議」を採択、毛沢東の死と「四人組」の一斉検挙も手伝って、政治的キャンペーンによる指令的経済運営から撤退します。そして、改革・解放の時代を迎えた中国は、今日に至る大胆な資本主義化へと踏み出すのです。

中国共産党は、1987年の党大会で、中国の社会主義は発展へ至る初級の段階である、とする「社会主義初級段階論」を発表、次いで1992年の党大会ではついに「社会主義市場経済論」を打ち出し、限りなく資本主義へと近づいている現実の経済体制の追認に踏み切りました。

「初級段階論」が発表されたとき、テレビ朝日「ニュースステーション」の久米宏キャスターは、「革命後40年経ってまだ“初級段階”であるとすれば、中国が完全な社会主義に到達するのは何百年後になるのだろうか」という趣旨の皮肉めいたコメントをしました。また、社会主義市場経済については、「社会主義と市場経済という、決してくっつきようのない水と油を、接着剤で強引にくっつけたような奇怪な理論」との論評をしました。
久米キャスターのこの悪意に満ちたコメントを見るまでもなく、中国の社会主義市場経済が、何も知らない人々にとって「社会主義の放棄」「資本主義への後退」と映っていることは想像に難くありません。しかし、それはあくまでも二段階革命論を理解していない人間の思考であり、それを正しく理解し、中国に先駆けて進んできたソ連の歴史をきちんと念頭に置いて思考する人間の視点で眺めれば、この社会主義市場経済は全く違ったものに見えてくるでしょう。
「社会主義市場経済」は中国版ネップである、と捉えることができるのです。
そう考えれば、中国経済が実態としては限りなく資本主義に近づいているにもかかわらず、中国共産党が「社会主義」市場経済である、としてあくまで社会主義に固執する理由も理解できますし、一党独裁を放棄せず、将来も自分たちが支配していく構えを維持し続けるのにも自然に納得が行きます。
中国において、共産党が支配を続ける限り、資本主義的な政策が採られることがあっても、それは全て「共産主義へ至る道の途中」であり、現在の中国のすさまじい高度成長ぶりも考え併せれば理想郷はむしろ中国で成立の可能性が残されている、と考えなければならないでしょう。

(注)社会主義を最終的目標として掲げながら、そこに至るまでの過渡期にかなり長期間にわたって資本主義を許容し、それによって生産力の増強をはかる中国共産党の路線も、その意味ではメンシェヴィキ的である。ただ、中国では文化大革命当時、「生産力さえ増強すれば自然に社会主義に至る」との主張に対し、「世界一の生産力を持つアメリカはなぜ今もって資本主義なのか」とする攻撃が保守派によって行われ、その主張に与していた一派が「走資派」(=資本主義の道を歩む実権派)として失脚させられるなど、激しい政治闘争に発展した。〔この部分、2001.11.4加筆〕

ただ、中国にとって、理想郷への道を阻むものとして、ロシアには存在しなかった難敵が存在します。それは、15億人を超える膨大な人口です。
これだけの人口を抱える国家が、「朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判することが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよい」社会に移行しようとすれば、一体どれだけすさまじい科学技術を必要とするでしょうか? そして、20世紀の歴史の中で科学技術が、おびただしい天然資源の消費と環境破壊を前提に成り立ってきたことをも考え併せれば、中国が理想郷に到達する前に「宇宙船地球号」がギブアップする事態になりかねないのです。
そうであるならば、中国には永遠に後進国のままであってほしい・・・と思うのは、既に先進国である日本に住む筆者のエゴなのでしょうね(^^;;
 
・補論2・・・錆びつく理想、虚ろな国歌

ところで、20世紀最後の年の昨年、日本では「国旗・国歌法」が大きな議論の的になりまし た。

国歌とは、一言で言えば、「この国がどのような政治的、社会的、経済的方針を採るのかについて内外に宣明するもの」ですから、そのメロディー、歌詞、またその制定過程においてはどうしても政治の影がつきまとうことは避けられません。
世界で初の社会主義国家・ソ連についてもそれは例外ではなく、時の指導部の方針の変化に合わせて国歌もまた政治の影に翻弄され、様々な変遷を辿ってきました。
ここでは、ソ連の国歌の変遷を通じて、その辿った道を側面から眺めてみたいと思います。本論から外れた部分ですので、これも補論とします。
 
(1)レーニン時代・・・「インターナショナル」
「立て、飢えたる者よ 今ぞ日は近し」で始まる国際的な革命歌、インターナショナルが、建国当初のソ連国歌でした。
もともとこの歌は、「世界革命」「全世界の共産主義化」を掲げた共産主義インターナショナルの組織歌として制定されたものでした。

共産主義インターナショナルは、当時コミンテルン、国際共産党とも呼ばれた共産党、労働者党の世界組織で、加盟した各国の共産党はその指導を受けることとされており、日本共産党ももちろん加盟していました。
建国直後のボルシェヴィキ指導部は、理想郷はソ連一国では達成不可能で、その前提条件である生産力の高度な発展を実現するためには、分布が偏っている天然資源や人口、工業技術力を理想郷のために自由自在に利用できるようにする必要があると考え、世界革命を掲げたのです。
コミンテルンも、そのために設立された組織でした。驚くべきことに、当時はアメリカにも共産党があり、コミンテルンのアメリカ支部として共産主義化へ向けた活動をしていたのです。
ソ連が建国当初、インターナショナルを国歌に採用したのは、世界初の社会主義政権を樹立したボルシェヴィキが、世界革命の「司令塔」としての役割を果たしていこうとする、強い決意の現れだったと考えられるでしょう。

「インターナショナル」の視聴


(2)スターリン時代・・・国歌にも反映された個人崇拝と「一国社会主義」

スターリン時代に入ると、ソ連国内では国家的所有が社会主義的所有であるとするマルクス・レーニン主義の「改竄」が行われた結果、次第に理想郷が色あせ始め、それに伴ってコミンテルンも変質していきます。
初めは各国共産党の上部組織として、加盟各国の共産党に対し指導的地位にあったはずのコミンテルンが、次第にボルシェヴィキ党の下部組織と化し、スターリンによっていいように利用される存在になっていくのです。おまけに、スターリンが「一国社会主義」路線(社会主義は一国だけで達成可能であるとする考え方)を打ち出すと、世界革命を目指すコミンテルンは厄介者と なり、のち、スターリンによって解散の運命を辿ります。
世界革命路線が正式に放棄され、ネップが道半ばで打ち切られたソ連国内で次第にスターリン個人崇拝路線が強まると、動きはやがて国歌の変更へと進んでいきます。
スターリン時代に制定された国歌は、アレクサンドロフ作曲・ミハルコフ作詞の「祖国は我らのために」で、「スターリンは我々を 人民に忠実なれと育て 労働や偉業へと励ます」という驚くべき内容の歌詞になっていました。
スターリンの個人崇拝は、ここでついに極まったのです。
「祖国は我らのために」の歌詞の意味、及び視聴はこちら

(3)フルシチョフ時代以後・・・スターリン批判を経て「原点回帰」

スターリンの死後、ソ連共産党第一書記として権力についたフルシチョフは、1956年、同党第20回大会において、世界に衝撃を与えた秘密報告「スターリン批判」を行います。そこでは、スターリンへの個人崇拝が、文字通り徹底的な批判を受けます。
個人崇拝への批判は、当然ながら国歌にも及び、スターリン批判後のソ連では、「祖国の歌」のメロディだけが演奏され、個人崇拝を象徴する歌詞は、全く歌われなくなります。
以降、しばらくソ連国歌はメロディだけの時代が続きますが、ブレジネフ時代に入ってから、原点回帰とも言うべき、共産党を賛美する内容の歌詞が採用されます。

「レーニンの党、国民の力は、我々を共産主義の勝利に導く」・・・思えば、理想郷への道は色あせ、国民を労働へと駆り立てる手段としても「規律引き締めキャンペーン」くらいしか対策が残っていなかった当時の指導部にとって、「共産主義」という言葉は最後の夢だったのかも知れません。

ソ連国歌は結局、この歌詞のまま崩壊の日まで歌い続けられることになります。
 
・補論3・・・共産主義と国家社会主義

国家社会主義という概念については、私も詳しくありませんが、一般的には「国家権力を媒介にして、ある特定のイデオロギーを国民全体に強制していく全体主義的社会」を指すものといえます。主な特徴としては、(1)一党独裁(対立する政治的意見、政治的存在を認めない)であるが形式上は議会制の形を取る、(2)カリスマ的指導者の強いリーダーシップによるトップダウン方式の意志決定、(3)世俗性(反宗教、もしくは政教分離)、といった点が挙げられます。
戦前のドイツの場合は、(1)議会制を前提とするものの実態はナチス党独裁、(2)カリスマ的指導者、ヒトラーの強いリーダーシップ、(3)ゲルマン民族至上主義思想の強制、など全てにおいて条件を満たしており、典型的な国家社会主義であると言えます。ちなみに、現在の世界で国家社会主義に当たる政治体制を採っている国の実例としては、シリアとイラクを挙げておきましょう。この両国は、どちらも大統領制で議会があるものの、実態はバース党(アラビア語で“アラブ復興社会主義党”の意味)の一党独裁で政権批判は許されず、アラブ民族至上主義を国民は強制されています。また、アラブ社会の一員でありながらイスラム教の政治介入を嫌い、徹底した政教分離策を採っている点でも、国家社会主義の条件を満たしています。(ちなみに戦前の日本の場合は、国家権力による特定思 想(皇国史観)の強制、「大政翼賛会」の独裁・・・等の点で国家社会主義に類似しているものの、「国家神道」つまり宗教を指導原理としていた点では世俗的と言えず、国家社会主義の要件を満たしているとはいえない。)
ところで、一党独裁、トップダウンによる意志決定、世俗性、といった国家社会主義の要件につ いて考えてみたとき、社会主義国家は見事にこれらの要件を満たしていることにお気づきになると思います。共産党独裁、社会主義思想の全国民強制、宗教への徹底した弾圧・・・、まさに国家社会主義の形式的要件は、社会主義国家において最も貫徹されているといっても過言ではないのです。その意味で、「国家の死滅」を究極の目標としないスターリン型社会主義は、それ自身、国家社会主義の一形態であると結論づけて差し支えないでしょう。
一方、ナチスについてもう少し考察してみましょう。ナチスは、国家「社会主義」ドイツ「労働者党」という党名を掲げていたせいか、結党直後は左翼政党と疑われ、治安当局から徹底的にマークされたそうです。結局、治安当局の調査によって「右」であることが判明し、監視体制は緩められるのですが、この辺りにも国家社会主義と共産主義の接近を感じ取ることができます。
話を世界史レベルに再び引き上げて考えると、独ソ不可侵条約の締結は、まさに国家社会主義と共産主義・・・似た者同士の接近以外の何ものでもありませんでした。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国をソ連に売り渡した「モロトフ・リッペントロップ協定」に至っては、「悪魔と悪魔の握手」の真骨頂でもあったのです。
第二次世界大戦では、民主主義陣営、ファシズム陣営、共産主義陣営が三つどもえの戦いを展開し、結果的に民主主義陣営と共産主義陣営が手を結んでファシズム陣営を破るわけですが、ファシズム陣営の中心だったナチス・ドイツと共産主義陣営のソ連との、その思想的、手法的な近さを考えれば、共産主義陣営とファシズム陣営が「悪魔同士の握手」によって手を結ぶ可能性も大いにあったものと思われ、そうなっていれば世界の歴史は大きく変わったことでしょう。

結果的にそうならず、共産主義陣営とファシズム陣営が敵対する結果になった原因が、両者が余りに近すぎるが故の近親憎悪にあったとすれば、それもまた興味深いですね(^^;; 世界史の分析としては何だか少し下世話な感じがしないでもありませんが、少なくとも世界史というものを面白く見るための素材にはなりそうな気がします。(いいんでしょうか、こんな結論で(^^;;)
 

(この稿、終わり)
 
・参考文献
最後に、本稿を記するに当たって参考とした文献をご紹介しておきます。「重要度」は、筆者が本稿を執筆する上での参考度を示す3段階評価です。
 
・「ドイツ・イデオロギー」マルクス・エンゲルス(重要度3)
・「共産党宣言」マルクス、岩波文庫(重要度1)
・「空想より科学へ」エンゲルス、岩波文庫(重要度1)
・「裏切られた革命」トロツキー、岩波文庫(重要度3)
・「帝国主義」レーニン、岩波文庫(重要度1)
・「フルシチョフ秘密報告 スターリン批判全訳解説」志水速雄訳・解説、講談社学術文庫(重要度2)
・「歴史としての社会主義」和田春樹、岩波新書(重要度3)
・「ソ連経済の歴史的転換はなるか」S・ブラギンスキー、V・シュヴィドコー、講談社現代新書(重要度3)
・「ゴルバチョフの2500日」秋野豊、講談社現代新書(重要度1)

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