「20世紀とゾルゲ事件」シンポジウム 質問リストと回答要旨

ゾルゲ事件・総合研究のページに戻る

と き:1998.11.7(土)
ところ:東京シニアワーク(飯田橋)

<1>ゾルゲ事件について

 本日のテーマであるゾルゲ事件に関しては,渡部富哉氏の「偽りの烙印」を読ませていただきました。この中で,いわゆる「伊藤律スパイ説」(注1)は崩壊したとの確信を私も持ちました。
 ところで,そうだとすると,では北林トモ・宮城与徳の2人のことを日本の官憲に売り渡したのは誰なのかという疑問が生ずるわけですが,これについて,伊藤律本人が「野坂参三の特殊活動に就て」(「文藝春秋」1994年1月号)の中でこう書いております。
 『1930年代半ば,野坂はモスクワにあり,コミンテルン(注2)で働いていた。米国に潜行して活動することになり,それまで思想言行に疑惑を持たれ労働改造収容所(?)にいた日系米人ジョー・小出を救いだし先乗りとしてアメリカに送った。野坂がアメリカに渡ってから小出を秘書とした。その小出が「上部からの指令」と言って日系米共党員(注3)のリストを作成させた。後,小出がスパイであり,そのリストが日本政府内務省警保局(注4)と,米国政府当局の手中に渡っていることが判明した。それ以外17名は国外追放(強制帰国)を命ぜられた。だが彼等はソ連への亡命を選んだ。ところがソ連に渡った後,全部消されてしまった。(中略)このリスト作成の際,変に思い登録しなかったものは皆助かった。1941年,北林トモが捕らえられた際,特高にそのリストをつきつけられた。元米共党員とあった。

 最も合理的な推測は,当局はそのリストで北林を探し当てたが,その文件の存在を表に出す訳には行かない。だからこそ誰かが北林の名を話したことに装う必要がある。私がそれに利用されたのだ。

 北林と宮城をアメリカから日本へ情報要員として送り込む仕事は誰がやったのか?(中略)そこには野坂が介在したと見るのが至当である。なぜならコミンテルンにいた日本人のうち,片山(潜)はすでに死に,山本は病身(肺結核)で間もなくトロツキスト・スパイ(注5)として処刑された。』

 この記述によれば,野坂がジョー・小出なる人物に命じて作らせたリストが,北林,宮城の検挙のきっかけということになります。北林トモが日本入りしたのは1936年12月ですから,野坂がこのリストを作らせていた時期とちょうど重なるわけです。
 もし,伊藤律のこの記述が正しければ,野坂こそがゾルゲ・尾崎検挙に至る“真犯人”であり,また野坂は,北林,宮城を日本に送れば検挙されると知りながら,平然と2人を送り込んだことになります。もっとはっきり言えば,4人を公然と売り渡したことになりますが,この見方についてどう思われるでしょうか?またこれを補強するような新たな資料等は見つかっているのでしょうか?

回答要旨 回答者=渡部富哉氏(社会運動資料センター代表)

  この問題については,これまで,北林・宮城を日本へ送り込むのを担当した,コード名“ロイ”なる人物が誰なのかがその焦点になってきました。そして,おっしゃったようなジョー・小出の日系米国共産党員のリストから,“ロイ”を野坂ではないかとする見方が以前からありまし た。これに対し,“ロイ”は野坂ではないとする反論もありました。これまで,それをどちらとも断定できなかったのは,“ロイ”の正体について記された資料が見つかってなかったからです。
 ところが,最近になって,ついにモスクワの公文書館から,その資料が発見されました。それによりますと,宮城が日本向けに出発したのは1933年,野坂がアメリカ入りしたのは1934年となっていて,「風雪のあゆみ」で野坂が述べているとおりです。野坂はこの件には関与しておりませんでした。

 では,“ロイ”は誰なのかというと,それは野坂よりひと足先にアメリカ共産党員としてロサンゼルスで働いていて,野坂がアメリカ入りした約半年後にアメリカを離れた木元伝一という人物です。この人物が,宮城の日本入りを担当し たことが明らかになったわけです。
 (この回答により,北林・宮城を日本へ送り込んだ担当者が野坂ではなかったことが明らかにされたが,ジョー・小出の党員リスト製作が野坂の指示で行われたのではないかとする疑惑については何ら明らかにされていない。確かに野坂は“ロイ”ではなく,宮城の日本行きに関与することは物理的に不可能であるが,伊藤の原稿によると,野坂が小出に党員リストを作成させたのは「1930年代半ば」,一方宮城の逮捕は「1941年」であって,野坂が渡米後作らせたリストが宮城逮捕の端緒になったのではないかという推論が依然として成り立ち得ることから,これをもって野坂がゾルゲ事件に関してシロであったと結論付けることはできず,依然疑惑は完全には晴れていないと言える)

<2>日本共産党「50年問題」(注6)における伊藤律の隔離査問・除名,幽閉に至る経過とその際の「スターリン・メモ」の真偽について

 戦後,伊藤律は共産党に復帰するものの,GHQの弾圧を受けて地下に潜った党(所感派)が北京に作ったいわゆる「北京機関」の権力闘争に巻き込まれます。そこで伊藤律の除名・幽閉の原因となる「隔離査問」が行われるわけですが,その時の状況を伊藤本人が「回想録」の中でこう書いております。
  『野坂は即座に立ち上がって言った。「向こう(モスクワ)から重要なことを言ってきた。緊急幹部会議を開く」。(中略)まず,中国共産党 の幹部がわが党機関の会議に出席していることについて,野坂が釈明した。「問題が重大なので,中共中央を代表して李初梨さん(注7)に同席してもらう」。頭ごなしの言い方である。重大ならばなぜ友党幹部参加が必要なのかは一言もない。ウムを言わせない態度である。

 (中略)野坂は一枚の紙片を取り出しながら言った。「これはソ共中央のわが党への勧告で,中共中央の同意を得たものだ。名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない」。

 ソ共中央とは明らかにスターリンを意味した。そして野坂は手にした紙片をちらりと見てから宣告した。「伊藤律は節操のない人間であり,政治局(注8)はその証拠をもっているはずである。直ちにいっさいの職務から切り放し,問題を処理せよ」。』
 こうして,伊藤律は査問され,除名されていくわけですが,ここで問題になるのは査問に使われた,「節操のない人間…」云々の「スターリン・メモ」が本物なのかどうかということです。「闇の男・野坂参三の百年」のなかで,立花隆氏は「もしインチキなものだったら,中国共産党が野坂に協力するわけはない。本物をちゃんとモスクワから持ってきているから,中共が野坂側についたんであって,それは絶対僕は本物だと思う。つまり,そういうものをソ連から持ってこられるような特殊なコネクションがずっとあったんだ」と述べておられます。しかし一方,これについては伊藤律本人が前述の「回想録」の中で『(前略)私はこう判断した。野坂はソ共中央の「勧告」なるものを提示した訳ではない。野坂と,彼に親密な中共中連部幹部の手で仕組まれた企てであることは明白だ』と書いています。また伊藤律は「野坂参三の特殊活動に就て」の中で,いわゆる「コミンフォルムの野坂批判」(注9)に関連して,こうも書いています。『徳田書記長(注10)は極秘裡に対日理事会(注11)のソ連首席代表デレビヤンコ中将に会見し,国際批判について問い合わせた。中将の返事はこうであった。「この件について本国(ソ連)から何も言って来ていない。私にもわからない。ただ私が日本に赴任する際,スター リンが日本では徳田同志を信任する。野坂には若干問題がある」』。
 つまり,野坂氏はスターリン指導部からも危険人物と見做されていたことになります。また伊藤律氏も,野坂氏について,徳田書記長と相談せず,李初梨副部長と2人だけで勝手に行動することが度々あったと書いています。このことからすると,いわゆる「スターリン・メモ」は,伊藤律を査問するための十分な証拠を持ち合わせていない野坂が,自らの「処分」を正当化し,権威付けるために李初梨と周到に打合せの上行った演出であるという見方も成り立ち得ると思います。特に伊藤が,問題が重大ならなぜ友党幹部参加が必要なのか,野坂が全く説明しなかったことについて「ウムを言わせない態度である」と書いているのは重要な部分で,逆に言えばスターリン・メモが偽物だったからこそ力ずくで査問しなければならなかったのではないかという疑いが私は消えないわけです。そこで質問ですが,このスターリン・メモが本物かどうか,それを決定付けるような資料は見つかっているか,見つかっているとすれば結論はどちらなのか,お話いただきたいと思います。 

回答要旨 回答者=小林峻一氏(ノンフィクション・ライター)

 これについては実は私も,おっしゃるような「メモ偽物説」に傾斜しております。「闇の男」 の座談会の中での立花氏の説は,一応彼に敬意を表して発言をそのまま載せているだけでして,彼自身,裏づけ調査もほとんどやっていないと聞いています。あなたが言われた,李初梨と野坂の自作自演であるという説を大変興味深く拝聴いたしました。おそらく私もそうだろうという気持ちをもっています。ただ一つ,あなたの説の中で,恐らくここは違うだろうという部分があるとすれば,野坂はそんな大それたことができるような,査問に向けてリーダーシップを取れるような男ではなかったであろうという点です。野坂という男は,言わば日和見主義的でありまして,もともと目的に向けて自分から何かしようという男,またできる男ではありませんから,そうなってくると伊藤律の査問にあたってはむしろ中共側が音頭を取ったのであろうと,そのように想像するところです。  

<3>いわゆる「野坂スパイ説」について

 野坂氏については,コミンテルン時代,また日本の占領時代にもスパイのうわさがつきまとっており,日本共産党の古参党員で知らない人はいないとまで言われております。実際,除名された元幹部の袴田里見氏(注12)などは,かなり執拗に疑惑を追求していました。ゾルゲ事件という,今日のシンポジウムの目的からは若干外れますが,この問題はゾルゲ事件とも少しは係わっておりますし,今日は世界的にも有名な日本共産党の研究者で,その道の第一人者でもいらっしゃるユーリー・ゲオルギエフさんも出席されており,またとない機会でもありますので,今少しお時間をいただいて,野坂スパイ説について次にお尋ねしたいと思います。
 私は,前述の「野坂参三の特殊活動に就て」や「闇の男・野坂参三の百年」の記述から,野坂スパイ説はもはや疑いがないと考えています。スターリンが彼を疑っていたということも,先のデレビヤンコ中将の発言からも明らかでしょう。そこで一つの疑問が湧くわけですが,スターリン時代のソ連では無実の人間までが大量にスパイ容疑を掛けられ,「粛清」されていった中で野坂氏がどうして生きていられたのかという疑問です。伊藤氏も,こう書いています。『彼が情報を送っていた相手は一体何の機関なのか? スターリン指導部と無関係なものではないか?(中略)野坂がかつて「ボクは向こう(モスクワ)に信用があるんだ」と言ったのは,ウソでなければ,スターリン指導部とは別の,はなはだしくは反スターリン派か機関ではないのか?』これが事実とすれば,野坂氏こそ真っ先に「粛清」されていてしかるべきです。立花隆氏は,野坂が,スターリンと通じていると同時にベリヤが牛耳っていたNKVD(注13)とも通じていて,スターリンにとっても利用価値があったからではないかと推測しています。とはいえ,この点については,伊藤氏も立花氏も推測で語っているだけであり,確定的な証拠は出ていなかったわけですが,この点について,新事実を含め,何か新たに判明したことはあるのでしょう か?

<4>日本共産党について

 最近,日本共産党の選挙での躍進ぶりがマスコミ等でも言われております。それはそれでマスコミ関係者が報道しているような理由が背景にあるでしょう。しかし,私がこの党に対して抱いている大きな不安は,この党がこれまでに1度も党として,自らの過ちを認めようとしてこなかったことです。官僚的で,独裁的で高圧的だったソ連共産党が崩壊に追い込まれる一方,「誤っていれば,やり直せばいい」とプラグマチックに問題に対処してきた中国共産党が,人権等若干の問題を抱えながらも存続しているのは決して偶然ではないと思います。冷戦も終結し,手垢にまみれた「無謬理論」を振りかざし,批判を拒み続けるこの党が将来,本当に「民主連合政府」を作り,政権を取ろうと考えるのであればどうしてもこの部分を避けて通ることはできないと思われます。パネリストの皆様,どなたでも結構ですので,日本共産党のこの点に対してご意見をお聞かせください。
<質問1,2については懇親会の席上で回答をいただいたもので,質問3,4については時間の 関係で割愛となった>

(注解)

(注1)伊藤律スパイ説・・・ゾルゲ事件に関しては、当初「伊藤律スパイ説」が有力であった。ゾルゲ事件は、もともと最初に伊藤が北林トモ、宮城与徳の名を自供し、そこからゾルゲ・尾崎につながって全容が解明されたとされてきた。しかし、伊藤律スパイ説に疑問を抱いた社会運動資料センター所長、渡部冨哉氏の長年にわたるねばり強い調査の末、このシンポジウムを直前に控え、伊藤律のスパイ説は否定されたと捉える識者が多くなった。
 なお、詳細は渡部氏の著書「偽 りの烙印」(五月書房)を参照されたい。

(注2)コミンテルン・・・世界同時多発的に共産主義革命を勃発させることを目的として、レーニン時代に設立された共産主義インターナ ショナルの別称。国際共産党と呼ぶこともある。原則的には世界各国の共産党の上部組織であり、加盟した各国共産党はコミンテルンの指導を受けるとされていたが、現実にはロシア共産党(ボルシェヴィキ党)の支配下にあった。この「世界同時革命」路線は、ボルシェヴィキ党内でスターリンの反対派として暗殺されたトロツキーの提唱した路線であることから、「一国社会主義」路線を採るスターリン指導部にとって厄介な存在となり、後にスターリンにより解散させられる。

  なお、各国の共産党など左翼政党や労働組合の中には、現在でも「インターナショナル」を愛唱する団体があるが、この歌はそもそもコミンテルンが組織の歌として採用し、そこから国際共産主義運動や労働運動の象徴として愛唱されるようになった経緯がある。

(注3)日系米共党員のリスト・・・コミンテルンの米国支部として組織されたアメリカ共産党の日系人・日本人党員のリスト。当時、日本共 産党をはじめ非合法下で活動していた共産党は、国家権力に組織の全容を知られることを防ぐため、党員リストの作成を禁じているところがほとんどだった。

(注4)内務省警保局・・・戦前の日本では、思想警察である特別高等警察(特高)は内務省が管轄しており、警保局が指揮していた。GHQの占領政策により思想警察は解体されたため、現在日本にこれに類似する組織はないが、都道府県警察の公安部門を指揮する警察庁警備局が最もこれに近い組織であると思われる。

(注5)トロツキスト・スパイ・・・トロツキー派のスパイ、というほどの意味。もともとはスターリンが党内における権力を固めるため、反対派であるトロツキー・ジノーヴィエフ派の追い落としの口実として使用していたが、後にはスターリン体制下での無差別な「粛清」を正当化するため、反対派に対して思想の別なく多用されるようになった。なお、文中に登場する山本懸蔵に関しては、当初処刑の理由は分からない とされてきたが、ソ連崩壊後に行われた日本共産党の調査で、処刑が野坂参三の密告によるものであることが判明したため、野坂の日本共産党名誉議長解任−−除名処分へと発展した。

(注6)50年問題・・・日本共産党が朝鮮戦争下の1950年、コミンフォルムの日共批判を契機に「所感派」と「国際派」に分裂した問題を指す。この分裂状態は5年間続いたが、1955(昭和30)年に開催された同党の第六回全国協議会(六全協)で両派が再び合流して解 消する。なお、1955年はこのほか、自由党と民主党に分裂していた保守政界が両党の合併により自由民主党を結成(保守合同)、また左右両派に分裂していた日本社会党も再び一本化し、自社二大政党によっていわゆる「55年体制」が完成した年であることはご承知のとおりである。なお、日本共産党は公式にはこの分裂を否定しており、同党の「正史」である「日本共産党の70年」にはこの分裂は記載されていない。

 このほか、「コミン フォルムの日共批判」に関しては、(注9)を参照のこと。

(注7)李初梨さん・・・中国共産党中央対外連絡部(中連部)副部長。毛沢東による過激な「継続革命論」には批判的で、北京機関(注9参照)では「日和見主義」の野坂と一緒に行動することが多かったとされる。後に、文化大革命により失脚。

(注8)政治局・・・日本共産党中央委員会政治局。当時、同党の中枢部門だった。政治局は50年問題により分裂していた両派が55年に 合流した後、組織改正により「常任幹部会」となり現在に至る。

(注9)コミンフォルムの野坂批判・・・敗戦による治安維持法廃止と、集会・結社の自由を認める日本国憲法施行により、戦後、日本共産 党は合法的活動を許された。しかも、GHQ当局がA級戦犯の捜査を行おうとしても保守政界からの協力が得られず、共産党がこれを告発するなどして協力したため、一時期GHQ当局と共産党は蜜月関係にあった。しかし、この蜜月関係は朝鮮戦争で東西冷戦が激化するにつれ、崩れる。こうした中、スターリンはコミンフォルム(※)の総会で、日本共産党の「議会主義革命路線」(※※)を痛烈に批判する。これがコミンフォルムの日共批判であるが、研究者の間では日共の路線批判に名を借りた、スターリンの野坂に対する個人批判であるとする研究もある。

 第二次大戦を勝利に導き、当時の国際社会で権威でもあったスターリンからのこの批判により、大混乱に陥った日本共産党は、占領下という特殊状況にある共産党は、手段を選びつつ慎重に行動すべきである、とする趣旨の「政治局所感」を発表する。この政治局所感に賛成したグループが「所感派」と呼ばれ、一方スターリンに賛成した一派が「国際派」と呼ばれた。後、GHQ当局により、所感派幹部の逮捕命令が出ると、逮捕を逃れるため地下に潜行した所感派幹部は、すでに革命で共産化していた中国に渡り、北京に指導部(これが文中にでてくる「北京機関」)を結成、日本向けの宣伝放送「自由日本放送」を作り、これによって対日宣伝工作を行うようになる。伊藤律は、この自由日本放送の責任者でもあった。

※コミンフォルム=ソ連東欧共産党・ 労働者党会議。戦後、新たな国際共産主義運動を模索するため設立され、ソ連・東欧など社会主義革命を成し遂げた国の共産党・労働者党で構成された国際組織

※※議会主義革命路線=国会を通じて合法的に権力を奪取し、革命を行うとする路線

(注10)徳田書記長・・・日本共産党の徳田球一書記長。戦前に転向歴のある伊藤律の卓越した事務能力に注目し、伊藤を党内ナンバー2政治局員にまで引き上げたのはこの人である。毛沢東と懇意であり、共産党幹部にありがちなエリート性とは縁遠い庶民派だったことから労働者・農民の人気も高かったが、李初梨など「穏健派」(日和見?)からは煙たい存在だったとされる。50年問題では所感派を率いて北京機関の最高指導者としての立場にあったが、潜行当時すでに糖尿病が重く、国際派との再統一を見ないまま北京で客死した。徳田の客死により、庇護者を失った伊藤が査問−幽閉への道をたどるのはこの直後である。

(注11)対日理事会・・・敗戦国・日本の処理を話し合うため、戦勝国(連合国)で組織された理事会。米英両国はもちろんのこと、ソ連も参加していた。

(注12)袴田里見・・・元日本共産党政治局員〜常任幹部会員。後に党の方針に反したとして除名される。著書「昨日の同志 宮本賢治 へ」の中で野坂スパイ説にも言及している。

(注13)NKVD・・・ベリヤが指揮していた国家保衛部(秘密警察)の略称。スターリン体制下で「大粛清」の実行部隊となった。

※このページ作成に当たっての参考文献

・「偽りの烙印」渡部冨哉著、五月書房
・「闇の男・野坂参三の百年」小林俊一、加藤昭・共著、文芸春秋社
・「伊藤律 回想録」伊藤律著、 文芸春秋社
・「野坂参三の特殊活動に就て」 伊藤律著(「文藝春秋」1994年1月号掲載)
・「長い旅の記録」寺島儀蔵著、 日本経済新聞社
・「裏切られた革命」トロツキー著、岩波文庫 
ノンセクションの部屋に戻る   トップに戻る