原発を止める55の方法
闘う相手を明らかにし、いのちを問う――告訴・告発運動
福島原発事故以来、今日まで福島はさまざまな叫び声を上げてきた。避難や除染、賠償などあらゆる場でいまも要求し続けている。しかし、事故からもう1年
半も経つのに今なお多くの住民が高濃度汚染地域にとどまる。除染は汚染土の仮置き場がみつからないため頓挫しており、賠償も遅々として進まない。福島の要
求はまったくといっていいほど実現していない。
政府、自治体、東京電力の誰もが自分を加害者だと思っていないことがその背景にある。
福島県二本松市のゴルフ場との間で争われた訴訟で、東京電力が放射性物質を「無主物」だと主張したことは、その最もわかりやすい例だ。デモなどで街頭に
出て要求を叫ぶ運動を1年間続けてきた私たちだが、「このままではなにも進展しない。加害者にこそきちんと責任を取らせるべきだ」ということを改めて強く
感じた。福島原発告訴団による告訴・告発運動はそうした問題意識から始まった。
●福島地検に告訴 敵を明らかに
原発事故による被曝を傷害罪と捉え、原発事故の直接的原因を作った加害者33人(東京電力15人、原子力安全委員会など政府関係者15人、御用学者3
人)を業務上過失致傷罪などに問うことを目的として、告訴団は、わずか3ヶ月で1324人もの告訴人を集めた。自らも被曝しながら業務に当たらざるを得な
い福島の捜査機関ならこの告訴を黙殺はできないだろうとの思いから、告訴先に福島地検を選び、6月11日に告訴状を提出、8月1日、検察に告訴を受理させ
るところまで来た。
「誰と、どのようにして、なにを求めて闘うか」をはっきりと打ち出すことが運動にはもっとも大切であり、敵を明らかにすることなくして要求を勝ち取るこ
とはできない。原子力に象徴される総無責任体制の利権ムラと闘う場合はなおさらである。
避難、賠償、除染…福島県民は実にさまざまな要求を持っているが、そのどれにしても、加害者に怒りをぶつけ、彼らに対して自分たちが加害者、犯罪者なの
だとわからせなければスタートラインにすら立てないことに私たちは気づいたのである。
●虐げられた人々をひとつにつなぐ
告訴団は、その結成宣言で『政府が弱者を守らず切り捨てていくあり方そのものを根源から問うこと、住民を守らない政府や自治体は高い代償を支払わなけれ
ばならないという前例を作り出すこと』が目的であると表明し、そのために『政府や企業の犯罪に苦しんでいるすべての人たちと連帯し、ともに闘っていきた
い』と決意を述べている。3.11以降、多くの市民が「なにかがおかしい」と感じ、政府や企業に疑いを抱いている。水俣病の写真展や講演会が福島で開か
れ、東京大空襲で満足な賠償を得られなかった人たちまでが福島入りし、一緒にできることがないか模索する動きも始まっている。ある若者は私にこういった
―― 「最近、なにと闘っていても最後に必ず経団連が出てくる」。
虐げられてきた市民が、自分たちを苦しめる共通の敵を発見し、それと闘うために手をつなぎ始めた。ウソと隠ぺいとカネで続けられてきたこの国の支配体制
が、いままでにないレベルで大きく揺らぐ。告訴団結成宣言が高らかにうたい上げた決意は実現に向けて確実に進んでいる。
私たちの役割は、虐げられてきた人たちをしっかりとひとつにつなぐこと。そして最終目標は、政府や企業が犯罪を実行しながら逃げ回り、責任を取ろうとし
なかった「総無責任の時代」に終止符を打つことである。
●原発を否定し命の大切さを叫ぶ
告訴団の中心メンバーには女性が多く、そのほとんどが「金より生命」が大切と訴え続けてきた。この訴えは大きな共感を呼んでいる。どんな金の亡者、守銭
奴でも、金と生命、どちらが大切かと問われれば生命と答えざるを得ない。この社会で他人を踏みつけて金儲けに走り回ってきた愚か者たちに、このもっとも基
本的で根源的な問いかけを繰り返し発する。
生命と答えた人たちには、ではどうすれば生命を守れるか、あなたたちのやってきたことは生命と両立しないではないか、と何度でも追及し続ける。多くの被
曝労働がなければ運転すらできない原発に対し「削ってもよい生命などどこにも存在しない」と訴える。
そうしてすべての人たちが、生命こそもっとも大切だという生物としての基本に立ち返り、その理念を再確認して、はじめて原発は止まるのだ。
(2012.9.24 宝島ムック「原発を止める55の方法」掲載)