私と戦争

 

安全問題研究会 黒鉄 好

 

 『戦争を知らずに〜僕らは生まれた〜』(戦争を知らない子供たち/ジローズ)という歌がヒットしたのはいつ の頃だっただろうか。私はと言えば、戦争どころかこの歌のヒットした時代さえ知らない者のひとりだが、それでも戦争体験者から生々しい体験を聞いたことは ある。私はこれまで、戦争体験者が多く存在する中で自分ごときの出る幕ではないという思いもあり、そうした伝聞を公の場で口にすることはなかったのだが、 戦後64年を経て戦争体験者の多くが鬼籍に入る一方、海賊対処法の強行成立などで憲法9条の全面的解体も最終過程に入った今、そのような遠慮をしていると きではないと思うようになった。そういうわけで、まもなく原爆忌と敗戦の8月、今回は柄にもないが私と戦争の関わりをお話しすることにしよう。

 

●幼い父を抱いて逃げまどった祖母

 小学生時代、祖父母と離れて生活していた私にとって、夏休みに祖父母の家に遊びに行くのが大きな楽しみのひとつだった。当時は父方の祖父母、母方の祖母が存命しており、その両方にほとんど毎年、遊びに出かけていた。

 正確な年は思い出せないが、ある年の夏、例年と同じように父方の祖父母の家に遊びに行っていたときのことだ。祖母は私と妹を呼ぶと、戦争当時のことを語り始めた。それは私にとって(おそらく妹も)初めて聞く話だった。

 1944年8月、私の父は祖父母の次男として生まれた。ちょうど敗戦の1年前だ。祖父は父の生まれる直前に 海軍に召集され出征、祖母は女手ひとつで父とその兄、2人の男の子を育てなければならなかった。当時戦局は大幅に悪化、すでに日本は制空権を失いつつあ り、祖父母が住んでいた小倉市(現在の北九州市小倉北区)もたびたび米軍の空襲を受けるようになった。祖父母の実家から数分のところに防空壕があり、空襲 を受けるたび、祖母は2人の男の子を連れて戦火の中を逃げまどった。長男の手を引き、1歳にも満たなかった私の父は抱きかかえるようにして逃げた。防空壕 の中で震えながら、2人の子供を抱いて米軍機が過ぎ行くのを待ったという。空襲はどんどん激しくなり、防空壕に逃げる回数も増えていった。「お前の父さん たち2人の子供だけは、自分が死んでも守りたかった」と祖母は私にぽつりと言った。

 

●狙われていた小倉市

1945年8月。私の父がようやく1歳を迎えた頃、 戦火の中を逃げまどいながらもなんとか生き延びていた祖母と2人の男の子の上に悲劇が襲いかかろうとしていた。すでに1945年4月、原爆開発にメドが 立った米国は投下目標を広島、長崎を含む17都市に絞り、5月10日までには「AA級目標」を京都・広島、「A級目標」を横浜・小倉と定めたのだ。5月28日の段階では投下目標が京都、広島、新潟とされ、小倉はいったん消えるが、8月3日には米陸軍参謀本部からグアムの米陸軍戦略航空隊司令長官に宛て「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎のうち1か所への投下」が命ぜられる。かくして8月6日、広島が世界最初の原爆の犠牲となった。

 第2の原爆投下は「第1目標」が小倉市、第2目標が長崎市となった。小倉市が第1目標に選定された理由は陸 軍造兵廠小倉工廠だった。この陸軍直属の兵器製造工場は、関東大震災で壊滅的打撃を受けた東京の造兵廠の機能をも吸収して日本有数の造兵廠となっていた。 米軍は日本の兵器製造体制に打撃を与えるため、小倉市を第1目標としたのだ。

 1945年8月9日。九州上空に飛来した米軍B−29が投下目標を予定通り陸軍造兵廠小倉工廠に定め、午前 9時40分頃から数回にわたって投下を試みた。しかし、工場からの激しい煙で目標の位置がわからないまま燃料切れの危険が迫ったことや、日本軍の対空砲火 を受けたこともあってやむを得ず目標を変更することとなった。第2目標の長崎市は、このような経過をたどって2発目の原爆の犠牲となったのだ。

 陸軍造兵廠小倉工廠があったのは、現在の住所で北九州市小倉北区金田町から大手町にかけてであり、ちょうど九州厚生年金会館がある場所である。この場所は、当時の祖父母の自宅や防空壕の場所から直線距離で1キロメートルも離れていなかった。歴史にif(も しも)はあり得ないといわれるが、このとき、もし米軍が当初の予定通り第1目標の陸軍造兵廠小倉工廠に原爆を投下していたら…? 「爆心地」から1キロ メートルも離れていない場所に住んでいた私の祖母と父は死に、そして私はこの世に生を受けることはなかったに違いない。

私がこうして生まれてくることができたのは、ほんの偶然に過ぎないのであり、その陰に10万人近い長崎市民の犠牲があることを決して忘れることはできない。

 

●「負けても無事が一番」「兵器工場なんて、あってもいいことはひとつもない」

 海軍に召集され、南方に赴いていた祖父は奇跡的に一命をとりとめ、戦後は復員することができた。聞けば、軍 艦に乗り込んだものの、出航する間もなく港に停泊したまま米軍の大空爆を受け、軍艦が大破。命からがら岸へ泳ぎ着き、そのまま敗戦を迎えたという。祖母は 私に向かって言った。「負けてもよかったんだ。お前の父さんもお爺さんも、みんな無事で帰ってきたんだから」と。

 すると、それを聞いていた祖父は血相を変え「お前は孫の前でなんてことを言うんだ」と言った。しかし祖母は泰然として「いいじゃないか。あなたも息子も、みんな無事だったんだから」と気にしていなかった。祖父はそれ以上何も言わなかった。

 祖母はまた、「兵器工場があるから小倉市は空襲ばかり受けた。そんなものがあってもひとつもいいことなんかなかった」とも言った。私はその言葉が、今でもとても印象に残っている。

 

●「無防備地域宣言運動」が切り開く未来

 日本国民はじめ、日本の侵略を受けたアジア諸国民の膨大な犠牲の中から、戦後勝ち取った、いや正確に言えば 「負け取った」日本国憲法9条は風前の灯火だ。すでに海賊対処法案が強行再議決で成立させられ、「海賊だ」といえば地球上のどこでもいつでも「防衛的先制 攻撃」のできる体制が確立されてしまった。事態はどんどん進んでおり、お題目のように「9条を守れ」と叫ぶだけではどうにもならないところまで来てしまっ たと思う。

 日本を再び戦争国家への道に誘導しようとする者たちは「備えあれば憂いなし」と防衛力強化を訴えるが、私は そんなプロパガンダを信じない。幼き日の私に祖母が教えてくれたのは「そこに兵器工場があったからこそ空襲を受けた」という事実であり、陸軍造兵廠小倉工 廠という迷惑な施設のおかげで、私の祖母や父、そして私自身の命ももう少しで消されるところだったのだ。

 今、各地で「無防備地域宣言運動」が展開されている。これは、ジュネーブ条約追加第2議定書に基づいて、軍 民分離、つまり人が居住している地域からあらゆる軍事施設を追放しようとする画期的な運動である。そこに軍事施設があることが敵の攻撃を招く。その上軍隊 は市民を守らない。それなら、軍隊はじめあらゆる軍事施設はお引き取り願う。そのために署名を集め、各自治体で無防備地域宣言条例の制定を目指すというの が無防備都市宣言運動の要諦である。

 この運動を私もお手伝 いしたことがある。憲法9条を守るだけでなく、それを活かすため積極的に地域に働きかけ、軍事施設の追放を訴えるのはとても勇気が要ることだと思うが、署 名が集まらなくて挫けそうになったとき、「兵器工場なんて、あってもひとつもいいことがない」という祖母の言葉が私に力を与えてくれた。

そして私はいつも8月が来るたび思うのである。「あの悲劇を繰り返してはならない」と。赤ん坊を抱いて戦火の中を逃げまどうなんて、祖父母の時代だけで沢山だ。

 
(2009年7月29日 「地域と労働運動」106号掲載)

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