さようなら余部鉄橋

1.はじめに
2008年1月15日に義母の法事のため大阪に行かなければならなかったので、どうせなら去りゆく者たちを追いかけながら行こうと思い立ち、1月 13日夜 出発の急行銀河に乗った。「銀河」は今年3月改正でいよいよ引退が予定されている。



銀河は新幹線の最終便より遅く出発し、新幹線の始発より早く到着できるため、隠れたビジネスマン御用達列車となっていたが、さすがに最近は乗車率 が40% 台と低迷していた。新幹線が速くなったこと、車両が老朽化したことからいよいよその使命を終えるが、東京〜大阪を結んでいるだけに手堅い需要があ る。電車 化(サンライズ化)するなどしてなんとか新生「銀河」の姿を見たいものだ。

2.あと2年の余部鉄橋へ
14日朝、「銀河」で大阪に着いた私たちは、そのまま「北近畿1号」に乗り換えて山陰へ。コンクリート橋への掛け替えに伴い、廃止される予定の余 部鉄橋へ 行く。案内してもらったタクシー運転手によれば、この春から本格的に工事が始まるが、コンクリート橋の完成は約2年後(2010年)とのこと。輸 送を確保 しながら行わなければならないので、現在の鉄橋の横にコンクリートの橋を架けた後、線路を切り替える方法で行われるとのことである。
 
最近は、余部鉄橋の最後の姿を見ようとツアーまで組まれ、鉄道ファン以外の人も大挙して押しかけているそうだ。この日も寒い中だというのに観光バ スがやっ てきて、一般人とおぼしき人がしきりにシャッターを押していた。


タクシー運転手に止まってもらって余部小学校付近で撮影。逆光の中にたたずむ鉄橋のシルエットが美しい。

海側から撮影。高さ41.45mの余部鉄橋。その高さを実感することができるシーンだ。

同じく海側から撮影した。右が鳥取方面。余部鉄橋には風速計が 合計3カ所、 取り付けられている。

1986年12月、「みやび」車両が転落した場所から鉄橋を見 上げる。「開 床式」と呼ばれる、床が開放式の橋は風が吹き抜けやすい。

鉄橋の脇を歩き、背後の断崖にある坂道を登ると餘部駅だ。

餘部駅へと上っていく道の途中で撮影。赤い橋脚が美しい。



当日、やってきた普通列車はキハ47系のトップナンバーだった(上の写真)。3両編成のうちその車両がいちばん混雑しているにもかかわらず、その 車両に乗 る。最近の若い鉄道ファンはさすがにわからないが、私たちの世代より年上の古参〜中堅鉄道ファンの間には根強い「トップナンバー信仰」がある(編成の中にトップナンバー車があったら必ずそれに乗ることをみずからに課している人がいる。私もそのひとり)。 塗 色こそ変わってしまったが、1977年に登場したキハ47系のトップナンバー車が未だにこうして活躍していることが嬉しい。

注)トップナンバーとは、その形式のうち最初に製造された「第1号車」のこと。鉄道ファンによっては、国鉄時代 に製造さ れた貨車で、例えばワム80000形貨車であれば「80000」もトップナンバーとして扱うことがある。


現在の余部鉄橋の状況。写真は臨時急行「ふるさと但馬」(キハ28・58系)。

現在の余部鉄橋の状況。写真は普通列車(キハ47系)。





坂道を上り、餘部駅の直前まで行くと余部橋梁の説明書きがある。開通は1912年。すでに96年経っている。1世紀近く経過した老朽化が、架け替 えの最大 の理由である(上の写真をクリックすると大きくなります)。

3.1986年の列車転落事故
余部鉄橋を語るとき、1986年暮れの事故のことは避けて通れないだろう。
1986年12月28日、回送中の急行列車「みやび」車両が日本海からの強風にあおられ転落。直下にあったカニ工場を直撃し、工場従業員と車掌、 計6人が 死亡する惨事が起きた。国鉄分割民営化を約3ヶ月後に控えた時期のことである。




(写真左上)
今、余部鉄橋は最高時速が25km/hに制限されている(白地に黒の「25」の標識)。 それでも冬になる と余部鉄橋では頻繁に列車のダイヤが乱れる状況にあり、これがJR西日本に橋の架け替えを決断させる要因になった。

(写真右上)
1986年12月、急行「みやび」回送車両が転落したカニ工場の跡地には犠牲者を悼む慰霊碑が建てられている。慰霊碑の右に見え るクレーンは、コンクリー ト橋建設のための工事車両である。

(写真左)
慰霊碑の側面には、犠牲となった6名の名前が刻まれている。
(注:管理人の判断で個人名を伏せる加工をしました。)

餘部駅は、地元の請願で、地元が費用を負担して建設が行われた「請願駅」である。駅ができたのは1959年だったが、開業当初は1日3往復しか列 車が停ま らなかった。全列車が停車するようになったのは、ようやく1967年10月。その時の喜びを、地元・香住中学校に通う男子中学生は、次のように 綴ってい る。

駅に汽車が止まると聞い た
待ち望んでいた日がきた
駅の拡張工事が進む
喜びも大きくなる
みんなの顔にも喜びがみなぎっている
10月1日
駅に汽車がとまる日だ
みんなの顔
うれしそうな顔が
頭にうかぶ
そして、列車の長い姿
汽車
汽車
汽車がとまるんだ!

餘部駅は地元の人によってきれいに掃除され、ゴミひとつ落ちていなかったそうだ。地元によって作られ育てられた、我が子のような駅だったに違いな い。「汎 交通」1962年8月号は、この駅を「日本一土地の人に大事にされる駅」と評したという。
鉄橋がコンクリート橋に生まれ変わる2年後、余部のひとつの歴史が終わる。橋の形は変わっても、1986年の事故を忘れることなく、いつまでも住 民に愛さ れ続ける安全な鉄道であってほしい。

注)3.1986年の列車転落事故の項は、「JRの光と影」(立山学・著、 岩波新書)を参考にした。

余部鉄橋を見た後は、城崎温泉へ行く。言うまでもないが、「城の崎にて」(志賀直哉)で知られる温泉地である。
折からカニのシーズン真っ盛りということで、城崎温泉駅前にほど近い「おけ しょう鮮魚」が経営している鮮魚料理店「海中苑」でエビカニ丼を食 す。日本海から揚がったばかりの新鮮なエビ・カニを使った料理はとても美味しかった。
その後は、駅前の「地 蔵湯」のナトリウム・カルシウム温泉に浸かり、ゆったり。「北近畿16号」で再び大阪に戻った。



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