キハ181系特急「おき」最終日レポート

キハ181系「おき」が最後の運転となった6日、仕事を休んで(^^;;、出かけてきました。
以下はそのレポートです。

前日の5日夜から「さくら」の寝台に乗り込み出発。6日朝、小郡で下車。
いよいよ待ちに待った千両役者・・・キハ181「おき2号」の出番です。

ここでちょっと余談。
旧国鉄の「動力近代化計画」が完成し、国鉄線上からSLが消えたのが昭和50年。
しかし、消えゆくSLを惜しむ声は高まり、早くも国鉄はそれから4年後の昭和54年に「SLやまぐち号」の復活運転を始めます。
私は家族とともに昭和56,57年に相次いで「やまぐち号」に乗りに行っており、57年訪問時の録音テープはいまだに私の手元にあります。
父が撮影した当時の写真は、途中駅でのSLやまぐち号と特急「おき」の交換シーン。
父は鉄ちゃんではないので意図して撮影したものかどうかは分かりませんが、駅にさしかかったキハ82系「おき」が腕木式信号機の下を通過する シーンが写っています。

さて、キハ181系「おき2号」は私を乗せて8:52、小郡駅を定時発車。
これから14:51着の鳥取まで延々6時間にわたるロングランが始まるのです。
小郡を出た列車は暫く山口市付近の市街地を走ります。
宮野付近で市街地が切れると急速に高度を上げて行き、仁保駅を過ぎると早くも山口線最初の難所「木戸峠」の洗礼を受けます。この木戸峠は下り (益田方面)列車にとっては上り25パーミルのまま分水嶺の木戸トンネルをくぐらねばならないSL泣かせの急勾配で、「やまぐち号」がマイテ 49を連結する日はDD51が補機を務めるほどの難所です。
さしもの大出力キハ181も、篠目駅を挟んで連続12分間、エンジンを噴かしっぱなしの状態が続きます。
木戸峠を越えると盆地に入り、キハ181も軽快に飛ばします。
途中の長門峡は季節ごとに新緑や紅葉や雪景色が美しい渓谷。
徳佐付近にはリンゴ園があり、この地方の冬の気候を伺い知ることができます(調べたわけではありませんが、多分日本最南端のリンゴではないで しょうか)。
船平山〜津和野間にはちょっとした峠がありますが、昭和初期、現在の益田〜下関間に先駆けてこの区間を山陰本線として開通させるべく工事が進 められていた頃、この区間は難工事だったらしく、わずかな距離なのに数年を要したと伝えられています。
船平山の峠を越え、車窓に茶畑が見えてくると津和野。
山陰の小京都と呼ばれるこの町は鯉が泳ぎ、若い女性の姿が絶えない有数の観光地なのです。しかし今回はやむなく通過。(^^;;
日原では「おき1号」と交換、同時発車。狭い山間の駅にターボエンジンの「協奏曲」が響きます。
この日原駅は、もともと旧国鉄岩日線(現・錦川鉄道)と結ばれる予定だった駅ですが、沿線には何もなく、夜になると明かりもなく真っ暗になっ てしまうほど。
しかし、開き直ってその「真っ暗さ」を生かして天文台が設置されているらしく、駅のホームにも「星のふる里」との看板が見えます。
車窓左手から山陰本線が近づくと益田に到着。山口線の旅はここまでです。

益田駅では久々に2分間という長時間停車。いったんホームに出て背伸びをするうち、車販がワゴンとともに乗り込みます。
山陰本線に入った列車は「上り」列車となり、列車番号とようやく一致(山口線内では「おき」の列車番号は上下逆になっている)。
海の景色は益田〜浜田が最高です! 今にも海に落ちそうなほど海岸線に接近して走ります。
このあたりの地方は知られざる「石州瓦」の産地で、次第に沿線の住宅にも、真っ赤な「石州瓦」を使った屋根が目立つようになります。
#特に夏は、青い空・赤い瓦・白い砂浜の取り合わせが強烈。
車販のワゴンが回ってきたので、山陰名物「カニ寿司」と缶ビールを注文(注:お酒は20歳になってから(^^;;)。うーん、至福のひととき ですねぇ(^^)
アルコールが回り、1時間半ほど寝てしまいました(笑)。

やがて目を覚ますと列車は米子に着くところ。
他の「おき」はすべてここで終わりですが、この2号だけは鳥取まで走ります。しかし、7日の改正以降、「スーパーおき2号」は米子打ち切りに なるので、米子〜鳥取間を「おき」が走るのは今日が最後。
最後の力走をキャッチするため、カセットテープを回し続けます。

私のキハ181系の旅もいよいよラストが近づいてきました。
「おき2号」の車内に、国鉄気動車独特の、あの中途半端なオルゴールが流れ、終着の案内です。
やがて14:51、6時間走りに走ったキハ181系「おき」は定刻通り、鳥取駅2番ホームに滑り込みました。

これでとうとう終わりです。そう、終わったのです。何もかも。
明日からはもう、キハ181がここを走ることはありません。
キハ181系は、紛れもなく旧国鉄が生んだ名車中の名車でした。私にとって、この車両となら心中してもいい(爆)と思わせてくれる数少ない車 両でもありました。
私は、この車両の最後の1編成、最後の1両が引退するときは、仕事を休んででも別れを告げに駆けつけるつもりです。・・・キハ82系の最後の 日、そうであったように。
#どうせ職場にいても、仕事など手につかないから一緒ですし(笑)。
最後の瞬間まで、私の心はキハ181系と共にあります。そして彼らは、最期の日を迎えた後も、私の心の中で生き続けることでしょう。
JR発足からはや15年目・・・JR西日本エリアの中で最後まで近代化が手つかずだった中国地方のあちこちから今、近代化の息吹が聞こえてき ます。
最後のタブレット急行だった「砂丘」廃止(97年秋)。
そして今回、キハ181系「おき」と共にひっそり消えた木次線のタブレット。
こうしてみると、日本高度成長期の栄光を担ったキハ181系の最期の日は、意外に早く訪れるかも知れません。
20系寝台車のように、やがては臨時列車運用だけになり、そのままひっそり消えていくなんて終わり方は、ファンの1人としては嫌ですねぇ。
キハ82系最期の日にそうであったように、花道を引き揚げていく横綱の姿をこの目に焼き付けるためにも、キハ181系の最後を飾るのは定期列 車であって欲しい。
ファンの1人としての私のこのわがままに、JR西日本が是非応えてくれるようお願いして、途中から壊れ気味になった私のレポートを終わること にします。

鉄道乗車レポート目次に戻る   トップに戻る