探検日:2002年2月3日
探検隊長兼レポーター:タブレット(名古屋市在住)
探検隊員:J.S氏(奈良県橿原市在住、隊長の友人)
発表:2002年3月24日
・はじめに
去る2月3日、我々探検隊2名は、冬型気圧配置のもと寒風吹きすさぶ中、三重県は近鉄大阪線「青山峠」(伊賀上津〜伊勢中川間)の旧線廃線跡 に出かけてきました。ここは私、探検隊長ことタブレットがかねてより行きたいとずっと思っていたところです。
この近鉄大阪線旧線の青山峠は、アーバンライナーなどの特急が行き交う大阪線の中でも、中京・伊勢地方と近畿地方の境界をなす山脈がそびえ立
ち、単線運転時代は33.3パーミル勾配と全長3,432mの青山トンネルを擁した屈指の難所でした(注)。
昭和40年代後半には複線化が計画されたものの、あまりの地形の険しさのため膨大な費用を要すると試算され、いったん計画は中止されたそうで す。しかし、1971(昭和46)年秋に起こったある出来事がきっかけとなり、この区間の複線化計画は復活、近鉄は3年余りにわたる工事の末ついに1975(昭和50)年、現在供用中の複線を完成させるとともに旧線から新線への切替にこぎつけたのでした。
今回の探検レポートは、この新線切替時に廃棄された旧線区間のうち、旧「東青山駅跡」に関するものです。廃線から早いもので26年余り・・・栄華を極めた「夢の跡」はいったいどのような姿を探検隊に見せてくれるのでしょうか・・?
いったんは消えたはずの複線化計画を復活させるきっかけとなった「ある出来事」については後ほど詳しく触れることにして、まず近鉄大阪線の簡単な沿革から見ていくことにしましょう。
1.青山峠のあゆみ
青山峠に鉄道が開業したのは1930(昭和5)年のこと。すでに開通していた布施〜八木(現在の八木西口)間がその前年に、近鉄の前身・大阪
電気軌道の手によって布施〜桜井間に延伸されました。そこに、この年、参宮急行電鉄が桜井〜山田(現在の伊勢市)まで開通させたことにより、
布施から伊勢市までが直通できるようになったわけです。
参宮急行電鉄はその後、関西急行鉄道を経て近鉄に組み入れられ、元の大阪電気軌道建設区間ともども大阪線として運営されるようになります。伊
勢中川の連絡線設置は戦後に入ってからの話になります。
その後もしばらく単線のままだった大阪線は、順次複線化が進められてゆき、上にも記したとおり青山峠の区間を最後に完全複線化し、現在に至り
ます。
2.26年後の青山峠を訪ねて(写真は、クリックするとそれぞれ大きな写真を見ることができます)
今回訪れた旧・東青山駅(右の写真はその一部)は、大阪線と並行する国道165号線を走り、白山町のほぼ中央部に位置する「垣内」交差点を布引 の滝方面に向かいます(垣内交差点にはコンビニがあるのでそれを目印にするといいでしょう)。
布引の滝方面に向かう道は、車1台がようやく通れるほどの細い道で、離合は所々でしかできません。途中からは舗装も途切れて次第に悪路とな
り、車の床下に路面の石が時々ぶつかってはゴツンゴツンと音を立てます。車が故障しないかマジで心配になります。
その悪路を探検隊員に運転させて(ォィ)走ること10〜15分、橋のたもとに出ると車道はそこで途切れてしまいます。眼前には登山道のような道が広がるだけ。結局探検隊は橋のたもとに車を止め、そこから先は自分の足で歩くしかありませんでした。
所々苔がむした登山道かハイキングコースのような道を上りつつ小高い丘をひとつ乗り越え、下りに転じた坂を少し歩いたところで、目標の東青山駅跡は突然その全容を眼前に現します。歩き始めてから10〜15分くらいでしょうか。
左の写真は、右手が青山トンネル方面つまり大阪方、写真左手が滝谷トンネル方面、つまり伊勢・名古屋方になります。「登山道」からは中央やや左に写っている道の奥の方から駅跡に入ってくる格好で、入口とは反対側からの撮影です。この道は東青山駅の遺構のほぼ中央部に位置しており、写真では分かりませんがこの両側にホーム跡があります。この道がいつ、何のために設けられたのかはいまひとつ分かりません。この道を造るときに
プラットホームの遺構が寸断された可能性もあるでしょうし、東青山駅の現役当時はこの道が駅への出入口として使われていたのかもしれません(出入口と言うより裏口?)。しかし、どーでもいいけどこの周辺には民家らしきものはひとつもありません。それどころか、ここへ至る「登山道」の途中にも、その手前の車道沿線にも民家らしき形跡はなく、最も「駅」に近い集落でさえ2km離れています(集落は垣内交差点から布引の滝方面へ折れて3〜4分走ったところで途切れる)。駅の現役時代にしても、最も近い集落から歩いて駅まで小1時間は要していたと思われます。
いったい誰がこんな駅を利用していたのか、そもそも利用客はどの程度いたのか? かなり謎です。
利用客といえば、この東青山駅からはハイキングコースにつながっていたようです。そのハイキングコースへの入口だったと思われる階段の跡が残っていました(写真右)。なぜここがハイキングコースへの入口と分かったのかというと、ハイキングコースの朽ち果てた看板(写真の中央左に見える鉄板)が残されていたからです。残念ながらこの階段は落石で塞がれるなど荒れ放題となっており、先へ進むことはできません(もっとも、進んだところでハイキングコースは既になく、どこへ通じているものやら分かりませんが)。この階段のそばには朽ち果てた駅舎らしい建物(プレハブ製?)も残されており、あるいはここが駅の正面入口だったのかもしれません。もしそうだとすれば私が最初に登山道を歩いて出てきた上の写真の細い道は駅の裏口ということになります。東青山駅は現役当時からハイキング客専用駅だったといえるわけで、周辺に集落が全くないことも併せれば、むしろそう考える方が自然なようにも思えます。
さて、駅の周辺から内部へ目を移しましょう。
左の写真は、「登山道」から駅跡へ通ずる道(2番目の写真に写っている細い道)へ戻ってそこからプラットホーム跡を写したものです。入口の道を境に分断されたホーム遺構の左側つまり大阪方のホーム跡です。写真を見ていただくとおわかりでしょうが(見えにくい方はクリックして大きな写真で見てみるとはっきりします)、手前のホーム上には白い点線が両側にあります。つまり島式ホームだったのです。奧にも1本ホームが見えます
から、少なくともこの駅には3本の列車が同時入線できる設備だったことが分かりますね。当時、この区間はもちろん単線運転でしたから、例えば 上下1本ずつ普通列車が待避して、その間を優等列車が通過していくような運行形態が取れたわけです。奧のホームの向こう側は崖になっていて、
列車が入れるスペースがあるようには見えませんから、おそらく線路は3本だったと探検隊は推測します。
このホーム跡からさらに大阪方(この写真の左手)に進むとホームは途切れ、枯れ草が生え放題となった線路跡があります。このあたりは雑草が壮
絶な勢いで生い茂る夏場だと草を刈らなければ歩き回ることも困難でしょうから、逆に言えばいい季節に探検に来たものです(^^)。
線路跡は右の写真のようになっており、やはり元が標準軌の路線なだけにJR等の線路跡よりかなり幅が広いな、という印象を受けました。
3.大阪線全線複線化のきっかけとなった「ある出来事」とは? 〜青山峠・総谷トンネルの悲劇
さて、これまで写真で見ていただいたとおり、この青山峠はとてつもなく山深いところです(もっとも、この程度のところは日本ではさして珍しく もありませんけど・・)。「はじめに」の項でも記したように、近鉄でも大阪線の完全複線化を決めたものの、あまりの難所ゆえに莫大な費用がかかることが判明。複線化計画はいったんは白紙に戻った・・・はずだったのですが、思わぬ出来事がきっかけで青山峠の複線新線建設計画〜別の言い方をすればこの旧線の廃棄計画でもあった〜はよみがえります。大阪線青山峠の歴史を大きく転換させることになったその悲劇は、1971(昭和46)年10月25日に起こりました。
この日夕方、難波から名古屋駅へ向かっていた特急列車は、16時過ぎにブレーキ故障が発生。ちょうどこの東青山駅付近から、伊勢・名古屋方面行き列車にとっては下り急勾配になるため、列車は次第に暴走状態になり、停車できないまま総谷トンネルに突入、賢島発京都・難波行き特急列車とトンネル内で正面衝突するという大惨事でした。この事故は結局、双方の列車の先頭車両が大破、合わせて25名もの犠牲を出すという最悪の結末を迎えました。こうして近鉄にとって青山峠の近代化は、いよいよ待ったなしの最優先課題となったのです。
この事故をきっかけに、近鉄は青山峠を含む大阪線の完全複線化を決定。それは新たに単線を造って従来線と並行させる形の複線化ではなく、従来
線を廃棄して新たに複線の新線を建設するという大胆なものでした。
複線新線建設工事は翌1972(昭和47)年に着工、3年間の工期を経て1975(昭和50)年に完成。同年秋に新線切替が行われました。この時をもって、旧線は永遠の眠りについたのです。そして、多数の犠牲者を出す名阪連絡特急の「死の暴走」が始まったこの東青山駅も、やがて人々の記憶から忘れ去られていきました。
4.これから青山峠を訪れる方へ(写真は滝谷トンネルのもので、事故とは無関係です)
話は廃線跡探検レポートから少々外れますが、やはり青山峠旧線のことを語るとき、この事故は避けて通れません。仮にこの事故がなかったとしたら? さすがに21世紀の今になっても単線のまま、なんてことはないとしても、青山峠の近代化は大きく遅れたに違いないからです。私たちが日頃利用する快適な近鉄特急の陰に25名の方の尊い犠牲があったことはもちろんですが、近鉄以外に目を転じても、やはり日本の鉄道史は「鉄道事故史」の一面を持っていると言えるでしょう。事故が起こらなければ近代化が進まない・・・その「非情の掟」は今に至るも変わることなく日本の鉄道界を覆い、そして蝕み続けているのです。
このレポートを見て、自分も青山峠に行ってみたいと思い立つ方もいるかもしれません。そんな皆さんに、差し出がましいようですがお願いしたいことがあります。それは、この廃線跡を見るときはただ興味本位に見るのではなく、この場所が鉄道近代化の歴史の中で、その負の歴史を背負った場所であると言うことを忘れないで欲しいのです。現に、こうして廃線跡を訪れる我々鉄ちゃん自身が明日どこかの鉄道で事故に遭い、そのことで我々の子孫がより快適な列車に乗ることになるかもしれないのですから。
幸いなことに、近鉄はこの事故を後世に伝えるために最大限の注意と努力を払っているようです。今回は訪問しませんでしたが、青山峠から榊原温
泉口へ延びる旧線跡は、いまでも時折近鉄の手によって雑草が刈り取られ、跡地の使用計画が全くないにもかかわらずきれいに整備されているとい
う話を聞いたことがあります。事故の現場を残すことによって、その記憶を後世に語り継ごうとでもするかのように。
実は、私と一緒に今回、ここを訪れた探検隊員は近鉄の関連会社に勤めているのですが、その彼に「総谷トンネル事故のことを後世に残すために近 鉄が今でも跡地を整備しているんだってね」とネタを振ったところ、探検隊員は「そういう話は(社内でも)聞いてるなぁ」と否定しませんでした。
近鉄がこうしていつまでもこの事故を真摯に受け止めて安全に注意と努力を払っているなら、我々利用者はまだ当分は安心して近鉄特急を利用でき
ると思います。ぜひ、その努力は今後とも続けていってほしいものです。
こうして私たちは、わずか2時間余りの短い時間でしたが、青山峠廃線跡探検を終えました。やがて帰途につこうとする時、私は昨年秋がこの総
谷トンネル事故から30周年だったことに気づきました。
他の人たちが忘れてしまっても、私はきっと、この場所のことを今後も忘れることはないでしょう。近鉄特急が、いつまでも無事故でありますように!
それとともに、日本の鉄道がいつまでも快適で、安全であるように願いながら、今回の探検記の締めくくりとします。
(注)新線に切り替えられた現在でも、アーバンライナーなどの名阪連絡特急に乗っていると、青山峠にさしかかる直前、「まもなく、電波の弱い区間に入ります。これから約40分間は車内電話の使用ができなくなりますのでご注意ください」という案内放送が車内に流される。新線に切り 替えられても、青山峠はやはり厳しい。
・参考文献など
本レポート執筆に当たっては、「峠に消えた特急街道」(著・小路裕弘氏、月刊「レイル・マガジン」1994年10月増刊号「トワイライトゾー
ン・マニュアル3」(株式会社ネコ・パブリッシング社)所収)、及びwebサイト「ぷらっとほ〜む」の記述が大変参考になりました。小路氏及び(株)ネコ・パブリッシング社の関係者、また「ぷらっとほ〜む」の管理者あつのり氏にはこの場を借りて厚くお礼申し上げます。また、悪天候の中、現地までの交通手段のない私のわがままを聞き入れていただいた上、現地まで車で案内してくださった探検隊員J.S氏にも末筆にあたって深く感謝いたします。
と言うわけで皆様どうもありがとうございました。