(管理者注)この作品は、2003年8月16日に東京国際展示場(東京ビッグサイト)にて開 催された「コミックマーケット」(コミケ)64において当サイト管理者が発表したものです。発表は鉄道系同人サークル、放射性同位体発表の新刊同人誌「Railway Talker 7」へゲスト参加する形で行いました。

クモハ42メモリアルイベント 参加レポート

 山口県のJR小野田線・本山支線を走る日本最後の旧型国電であるクモハ42001形が、去る3月15日の 全国ダイヤ改正によりついに現役を引退した。1933(昭8)年に製造されて以来、実に71年ずっと走り続けてきた老兵…。その長年の活躍をねぎらうた め、引退から1ヶ月ほど前の2月中旬、メモリアルイベントが開かれた。
 今回は、そのメモリアルイベントの内容を中心に、クモハ42の71年を振り返ってみたいと思う。

1.クモハ42形電車 略歴
 クモハ42形電車は、1933(昭8)年、日本車両で製造。宮原電車区(大阪)に配属され、関西圏の「省線電 車」(のちの国電)として1950(昭25)年まで活躍した。その後、田町電車区へ転属となり、首都圏の国電を中心として東海地方まで含めた広い地域で活 躍する。1957(昭32)年、「都落ち」して宇部電車区(山口)へ転属。001、005、006の3両が宇部、小野田線で41形、51形、55形の各電 車と共にローカル輸送に転じた。
 1981(昭56)年、新性能電車・105系が配属されてからは、両運転台だったことが幸いし、41形、51 形、55形の各電車が廃車に追い込まれるなかで小野田線・本山支線(以下「本山線」)専用となり、単行運転で本山線を行き来する日々となる。1985(昭 60)年12月、エバーグリーン賞受賞。
 1987(昭62)年には僚友・クモハ42005が廃車。2000(平12)年秋には006も廃車となり、最後 に残ったトップナンバー車・クモハ42001がひとりぼっちで走り続けてきたのである。
 

《余談ですが…1933(昭8)年ってこんな年》
・ 1月30日 ドイツでナチス党政権成立、ヒトラーが首相に
・ 3月 3日  東北〜関東一帯でM8.8の大地震、死者3008名
・ 6月19日 東海道本線・丹那トンネル貫通
・12月23日 皇太子明仁親王(現・天皇陛下)ご誕生

2.遂にクモハ42廃止へ…「全国クモハファン交流会」概要
 筆者が最初にクモハ42と出会ったのは九州に住んでいた1989(平元)年。当時は006も在籍しており、2両 のクモハ42に乗って片道5分の小さな旅をしたときである。この時、私はクモハ42の魅力にすっかり取りつかれてしまい、この旧型国電がなくなるときは、 どんなことがあっても出かけようと心に決めていた。
 そして、71年間走り続けてきたこの老兵に引退のときが来た。JR西日本が、15年3月16日改正でのクモハ 42引退を発表したからだ。
 そんなとき、クモハ42メモリアルイベント「全国クモハファン交流会」(以下「交流会」)の開催を知った。 “Rail Magazine”誌など一部の鉄道誌でも発表されたが、主催は「クモハ42形電車メモリアルイベント実行委員会」(小野田市経済部商工労働課に事務局が 置かれている)。堂々たる行政主催イベントである。60人限定で参加費1万円、クモハ42を借り切って臨時運行した上、泊まりがけで交流会までしようとい うのだから恐れ入る。
  行政がこんなイベントを主催するなんてどういうコト? と私は不思議に思ったが、その理由は後に小野田市役所自身によって明かされることになる。

3.イベント報告
(1)小野田線(本線)から本山線にクモハ42臨時列車運行!
 それではイベントの内容に入ろう。交流会は2月15、16の両日に開催された。抽選とのことだったので当選する まで気が気でなかったが、ふたを開けてみると定員割れ状態だったから、応募者は全員当選したのだろう。さすがに1万円の参加費(交通費は別!)は学生には 重かったようで、参加者は社会人がほとんど。落ち着いた雰囲気だった。
  クモハ42の貸切列車は15日の10時50分発。10時30分までに厚狭駅に集合するよう指定されていたので、私は前日から「あさかぜ」で現地入りし、 10時頃到着した。地元参加組とみられる数名がチラチラ現れ始める。
 やがて10時50分、ツリカケ音を響かせてクモハ42の貸切列車は厚狭駅を発車した。鉄道写真の名所…厚狭川橋 梁にツリカケ音を響かせながらトコトコ走る旧型国電。沿線にはカメラを持った鉄道ファンがずらりと並ぶ。
 列車は正午、長門本山駅に到着。ここから夕方の交流パーティーまでは自由時間である。クモハ42はこの間も本山 線を往復するので、列車に乗る人、写真を撮る人、露店でのグッズ販売に繰り出す人など様々である。私は1往復だけ列車に乗り、あとは写真撮影とグッズ購入 にあてた。

(2)レストラン「ソル・ポニエンテ」にて交流パーティー
 長門本山駅は、対岸に九州を見渡す本山岬の先端にあり、その周辺の海岸は「焼野海岸」と呼ばれている。その焼野 海岸を一望できるレストラン「ソル・ポニエンテ」で午後5時から交流パーティーがある。あいにくの雨模様のなかを、風呂でほてった体のままレストランに向 かう。
 パーティーは立食形式で、到着するとすぐに始まった。行政主催イベントだけあって地元の名士たちが勢揃いしてい る。主催者の実行委員会を代表して小野田市商工労働課長が挨拶。行政がこのイベントを企画した理由を述べる。「…セメント産業以外に目立った産業もなく、 観光資源もないこの小野田で、唯一の観光資源がクモハ42でした。このクモハ42がなくなった後、小野田市は何で観光客を集めようか思案しています」…っ ておいおい! それでいいのか?
  その後は小野田市議会議長、小野田市長(代読)、小野田市観光協会会長、小野田商工会議所会頭など地元政財界代表が挨拶。市議会議長の乾杯でパーティー開 始。参加者のひとり「長年鉄道ファンをやってきたけど、ファンがこれほど丁重に扱われるイベントは初めてだ」…同感。

(3)クモハ42の驚くべき秘話が明らかに!
 パーティー終了後はファン交流会が「きらら交流館」で午後8時から開かれる。このきらら交流館なる施設は、もと もと小野田市の職員研修施設で、今回のイベントの宿泊所になっている。焼野海岸のすぐそばにあるので、海岸を一望できる。しかも、最近建てられたものらし く新しい。こんなところで研修を受けられる小野田市役所の職員が羨ましくなってくる。交流会の場所は1階の研修室。
 まず最初に、クモハ42の元運転士だった宇部百合夫さんが、自分とクモハ42の関わりや思い出話などについて講 演。続いて河野豊彦・小野田市歴史民俗資料館館長がクモハ42と小野田線、本山線の歴史について講演した。主に運炭路線として開業した本山線の戦前戦後の 歴史や、この文章の1で触れたクモハ42の略歴などに話が及んだが、大半の参加者にとって驚きだったのは、クモハ42が首都圏からの転入だった関係で、転 入当時横須賀色(スカ色)だったことである!(スカ色時代のクモハ42の写真については「鉄道ファン」誌2003年9月号を参照。)
 クモハ42の略歴については鉄道誌やネットでも結構語られているが、小野田線の歴史についての著述は少ないの で、いろいろな意味で参考になった講演だった。
  交流会終了後は、パネル展示されている写真を見たり、きらら交流館の居室で、相部屋の仲間たちと歓談したりで楽しい夜が過ぎていった。
 翌16日は、フリータイムということで特別のイベントはなかったので、私は正午頃まで写真撮影をし、イベントを 終えた。

4.おわりに〜無事大往生を遂げたクモハ42
 イベントからちょうど1ヶ月、クモハ42の最後の日が来た。私はこの日は立ち会うことができなかったが、聞き及 ぶところによれば最終日は乗客の積み残しが出るほどの盛況だったそうである。僚友だったクモハ42006が、尊い犠牲を払ってまで部品提供してくれたにも かかわらず、末期のクモハ42001は故障がちで、しばしばクモハ123の代走を受ける日が多いと聞いていた。ファンの間で、廃止日まで無事に走れるかど うか危惧する声もあった。重大な故障が起きれば、引退式もなくそのまま引退という事態にもなりかねない薄氷の最後だった。
 それでも「彼」は頑張ってくれた。イベントから廃止までの1ヶ月はいつも以上の酷使にもかかわらず元気な姿を見 せてくれた。そのことがまた私にはとても嬉しい。そして、引き際もまた、彼らしい。
 いつものように飾らずに、いつものように黙々と。
 そして彼は、歴史の中に消えてゆく。

2003.8.16 記   文責は全て筆者にあります。 

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