(管理者注)この作品は、2002年12月29日に東京国際展示場(東京ビッグサイト) にて開催された「コミックマーケット」(コミケ)63において当サイト管理者が発表したものです。発表は鉄道系同人サークル、放射性同位体発表の新刊同人誌「Railway Talker 6」へゲスト参加する形で行いました。

「彼女」との出会いは、偶然だった。
運命に導かれるように私たちは出会った。
250kmの遠距離も全く苦にならない。
そこに行けば、いつも彼女がいて、いろんな魅力を見せてくれた。
あのとき彼女はまぎれもなく、私だけのものだった。

でも、別れは突然訪れた。
1996年、夏・・・
彼女は私に何も告げず、遠い世界へ旅立ってしまった。

突然の別れから、はや6年。
心の整理がつかなかった私は、ずっと彼女の「跡地」から遠ざかっていた。
でも、彼女が誰にも知られることなくこのまま土に帰るのはあまりにも忍びない。

こうして私は、6年ぶりに「そこ」へ出向くことにした。
かつては毎月のように通い詰めた思い出の場所へ。
彼女との約束を果たすために・・・

思 い 出 の「国 パ 線」
〜私をとりこにした小さな専用線〜

1.専用線とは?
 私たちは日頃「専用線」という言葉を何気なく使っているが、「専用線」とはそもそもどのようなものを言うのだろ うか?
 旧国鉄の「専用線規則」によれば、専用線とは「特定貨主が自己の専用に供するため、又は国若しくは地方公共団体 が自己若しくは特定貨主の専用に供するために、その負担において敷設した日本国有鉄道の側線をいう。」と定められている(同規則2条)。つまり鉄道貨物の 荷主が自分の荷物を運ぶため、自分の負担で建設した国鉄の側線のことなのである。鉄道が陸上輸送の主役だった時代、日本中どこでも工場や倉庫、港湾や市場 といった施設で必ずといっていいほど目にすることができた専用線も、最近では風前の灯火になりつつある。
 専用線に最も大きな打撃を与えたのは1984(昭59)年の貨物大合理化だろう。ヤード系輸送を全廃、コンテナ 貨物を基本とし、専用貨車を仕立てて輸送する「車扱」は物資別の拠点間直行輸送のみとする合理化で専用線は大幅に勢力を減らし、以降は衰退の一途をたどる のである。
  これからご紹介するのは、かつての「専用線」とその廃止後の姿である。廃止からまだ6年だから専用線としては長生きした方だといえる。私自身も6年ぶりに 再会を果たす専用線。廃止後はどんな姿をしているのだろうか?
 それでは早速、その姿を現役時代と比べあわせながらご紹介しよう。

2.島根県江津市の小さな専用線
 皆さんは、山陰本線・江津から日本海に向かって延びていた製紙会社の専用線をご存じだろうか。おそらくご存じだ という方は皆無といってもいいだろう。地図にも載らず、私自身もそれまでその存在すら知らない幻の路線だったのだから。
 その専用線とは、江津駅から北東方にある山陽国策パルプ(株)江津工場(現・日本製紙ケミカル(株)DP・化成 品事業本部江津事業所)へ引き込まれていた専用線のことである。私の手元にあるもののうちでは最新の昭和58年版「専用線一覧表」によれば、同専用線は 「工場線」1.5kmと記載されており、江津駅から西方の同社倉庫へ延びていた「倉庫線」0.5km、その他専用側線も合わせれば総延長は4.5kmにも 及んだ。これは、専用線としては大規模な部類に属し、専用機も存在するなど興味深い専用線だったが、1996(平8)年夏に廃止となった。
 正式には何という名称なのか全く分からないが、私自身はこれまで山陽国策パルプ専用線、略して「国パ線」と呼ん できた。今さらほかの名前で呼ぶ気も起こらないので、以後本稿でもそう呼ぶことにする。

3.写真でたどる国パ線の昔、そして今
(1)現役時代の姿。専用線一覧表では、この線の作業方法は「私有機」と表記されている。実際には左の写真のよう にスイッチャーが使われていた。貨車はワム80000、化成品のタンク車で、多いときでも10両未満。右は山陰本線の貨物列車。山陰線を江津まで走った後 国パ線に乗り入れていた。〔いずれも1994年撮影〕

  

(2)廃止前年には貨車が1両しかない日もあった(左)。今思えばこの精彩のなさは廃止の予兆だったのだ。 右の写真は廃止後。ほぼ同じ地点での撮影。道路と民家の間に線路があった。〔写真左=1995年撮影、右=2002.11.2撮影〕

    

(3)下の写真は国パ線のちょうど中間地点にある踏切。完全非自動で遮断機のみ。現役時代(左)は何と誘導 係員が直接遮断機を手でつかんで引きずりおろしていた(爆)。右は廃止後。ここは遮断機や標識こそなくなったが、現役時代の雰囲気をよく残している。〔左 =1994年撮影、右=2002.11.2撮影〕

  

(4)写真左は工場へ向かって延びる国パ線の線路(奥の煙突のあるところが工場)。手前が山陰本線側。道路 に沿って線路が延びている。現役時代は1日1往復の列車がここを通って工場と江津駅の間を往復していた。写真右は同じ場所の現在。跡地は雑草に埋もれ、廃 線跡だったことを想像することが次第に難しくなりつつある。アングルは多少異なるが、左端の民家と奥の煙突を見比べれば同じ場所であることが分かる。〔左 =1994年撮影、右=2002.11.2撮影〕

  

(5)国パ線のほぼ「中間地点」。現役時代には列車を間近で眺めることができた好ポイント。ここも雑草の中 に埋もれ、廃線跡だったことを想像することが次第に難しくなりつつある。〔左=1994年撮影、右=2002.11.2撮影〕

  

4.結語〜取材を終えて
 「国パ線」は私が思っていた以上のスピードで土に帰ろうとしている。それが取材を終えての私の感想だった。廃線 跡にとって6年という歳月は短いようで意外に長い。山陽国策パルプ(株)もその間に日本製紙ケミカル(株)へと変わっていた。
 冒頭ではあえて記さなかったが、私と「彼女」が交わした約束とは、無名の存在だった国パ線のことを私が必ず世に 知らしめるというものだった。どんなに無名の専用線であろうと、そこにはちゃんと歴史がある。運命に導かれるように国パ線と出会った私が、その在りし日の 姿、廃止後の姿を記録し、世に知らしめることはもはや義務ですらあるかのように思えた。ようやく6年越しの約束を果たすことができて、私は今ほっとしてい る。
 2002年の冬は記録的に早く訪れた。私が取材に出かけた日、11月だというのに冬型気圧配置に見舞われた国パ 線跡には冷たい雨が降った。もしかするとこの雨は廃線跡の涙だったのかもしれない・・・国パ線を後にしながらふと思った。
 世界が「彼女」のことを忘れても、私はきっと忘れないだろう。
 輝いていたあの日のことも、静かに眠る今日のことも・・・
 

(2002.12.29  記)
(参考文献)
昭和58年版「専用線一覧表」(月刊「レイル・マガジン」別冊「トワイライトゾーン・マニュアル6」/(株)ネ コ・パブリッシング社)

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