第29話 そして、選挙戦へ


 「しょ、書記に、り、立候補、したあ、安達、正人って言います。よ、よろ、よろしくお、お願いします……」

 「何どもりまくってんだよ! 言葉ははっきり、誰にでもわかるようにわかりやすく言え!」

 「あ、安達です。書記にり……」

 「声が小さい! お腹から声を出せ! 腰に手を当てて、思いっきり声を張り上げろ!」

 「そ、そんなの、僕には無理です……」

 2学期も始まったばかりのある日の放課後、森本学園中等部の、そこそこ広い中庭。そこでは、まるで何かの映画かドラマの撮影と見まがうばかりの光景が展開していた。監督、もとい「演説指導」に当たっているのは女子バスケ部副キャプテンの利奈。今にも泣き出しそうな小さな声とともに、しゃがみ込んでしまったのは、もちろん正人である。志織に認められ、書記に立候補することになったものの、正人は「学園一のヘタレ」との評価を、まだ1%くらい覆したに過ぎなかった。

 生徒会役員選挙は、すでに告示されていた。選挙運動期間は、告示日含め1週間に限定されており短期決戦そのものだ。生徒会最大のイベント、生徒総会を9月20日、火曜日に控えていて、選挙はそこで行われる。今日は9月8日、金曜日。選挙運動は今日から15日、木曜日までと決められていた。

 「ちょっと、利奈ー。そんな乱暴に命令したら、安達くん、ホントに泣いちゃうよ」

 雪乃が、正人をかばうように言う。だが、遠く離れていてその声は届かない。

 「どう考えてもこのままじゃまずいよねー。利奈のことだから、そのうち、通学の電車の中ではつま先立ちしろ、とか言いだすかも」

 「それって“巨人の星”だよねー。志織って、意外に古いアニメ知ってるね」

 「漫画部の広瀬がいつも言ってるから覚えちゃった。ゆっきーこそ、なんでそんなこと知ってんの?」

 「私も、広瀬くんから聞いたよー」

 志織と雪乃が、演説の練習をさせられている正人を遠巻きに眺めながら話している。それはあたかも巨人の星の主役、星飛雄馬が父・一徹にスパルタ指導を受ける様子を電柱の陰から見守る明子姉ちゃんのようだ。

 森本学園では、この手のことが行われるのはたいていこの中庭だった。演劇部の先輩による後輩への演技指導、応援団の発声練習、音楽部の歌の練習など。校舎の間に挟まれているため騒音が敷地の外に漏れにくく、また職員室からも見えにくいこの場所は、大声を発しなければならないこの手の練習にうってつけだった。

 2-Cで前期学級委員を決める「疑惑のあみだくじ」の後、加藤があみだくじで学級委員を決めたことを女子には絶対に言わないよう口止めした。このとき、志織にバレたら男子全員が中庭に埋められる、と加藤は他の男子生徒を脅したが、その中庭というのもこの場所のことだ。志織に反抗し“秘密警察”によって処刑された男子生徒が何人もここに埋められていて、深夜になると埋められた男子生徒の幽霊が出る、という根拠のない噂を、加藤は学園中に流していた。もちろん、そんなでたらめな噂を信じる生徒はおらず、志織もまた放置すればいいという態度でまったく気にしていなかった。

 「ねえ、ゆっきー。そろそろ止めたほうがよくない?」

 志織がそう言うと雪乃が同意する。志織は、電柱――ではなく、校舎の陰から中庭に向かって歩く。あっという間に、志織が2人のところにたどり着く。

 「はい、そこまで。ストップ!」

 「ちょっと志織。なんで止めんだよ! まだ始まったばっかりだぜ?」

 利奈が、まだ何も達成されていないのに、と言わんばかりの不満げな表情で志織を見る。

 「仕方ないよ。やっぱり、こういうやり方は安達には向かないと思う。別の方法があると思うから、それを今から考えましょ」

 「でもさ……」

 「利奈、気持ちはわかるけど、今ここで安達を潰すつもり? 別の方法がきっとあると思うから、教室に戻って、作戦会議しようよ」

 志織が、やや強い態度でそう言う。

 「私も、安達くんに合う方法があると思う。こんな、思い切り体育会系でスパルタな方法なんて無理だよ」

 いつの間にか合流した雪乃が歩調を合わせる。利奈は、やれやれといった表情だ。

 「安達のことを一番よくわかってる公認の志織と、安達ファンクラブ会員ナンバー1号のゆっきーが言うんだったら、仕方ねぇなぁ」

 「私、安達くんのファンクラブじゃないよぉ」

 「ほら、バカなこと言ってないで、作戦会議!」

 そう言って、志織は、2-Cの教室がまだ開いてるか、職員室のキーボックスを確認するよう利奈に依頼する。利奈は「えー、あたしが行くんかい!」と渋るが、志織は「うっさい。学級委員の命令だ、命令」と押し通す。志織も正人もまだ、9月いっぱいは学級委員だった。

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 「とは言ったものの、はぁ、どうしようかなぁ」

 そう言って、志織は、ふう、とため息をつく。ここは2-Cの教室。自分の席に着いた正人の、すぐ前の席には志織。後ろを向いて正人に話しかけられる姿勢を取る。学級委員の仕事を教えるときに、志織がいつも採っているスタイルだった。正人の両隣の席には、利奈と雪乃がいる。

 「さて、と。安達、あんた、なんか特技とかないの?」

 志織に、唐突にそう尋ねられ、正人は、ふるふると首を横に振る。

 「絵がうまいとか、文章がうまいとか、自分をアピールするのに役に立つようなもの。ホント、どんな小さなことだっていいんだから」

 「ないです、そんなの。今まで、自分をアピールすることなんて、なかったから……」

 「なにもないわけないでしょ。神様は、どんなヘタレにだって何かひとつ、得意なことを与えてくれるものだよ。あんたにも何かあるはずよ」

 そう言って念を押す志織だったが、正人は、何も思いつかないとばかりにうつむいている。

 困ったな、と言いたげな表情で、志織は途方に暮れる。実際、正人を書記に推薦したのはいいものの、選挙をどう乗り切るかにまで考えが至っていなかった。生徒会の筆頭書記として知名度の高い志織は、これまで、ほとんど選挙運動らしいことをしなくても当選してきた。そのせいもあって、当選ラインよりはるかに下の候補者を、どのようにして浮上させるかのノウハウは持ち合わせていなかった。正人に書記立候補を打診した日の帰り道で、当選させるための秘策があると言ったのは、正人を安心させるための方便に過ぎなかった。

 正人のこんな表情を見るのは、志織にとって久しぶりだった。「あの日」――学級委員を嫌がり、逃げ回っていた正人と偶然、放課後の教室で遭遇した日以来だ。正人を厳しく問い詰めても、余計に黙り込むだけだと学習した「あの日」以降、志織は、それだけは絶対に避けようと心に決めていた。

 一方、正人も久しぶりに「あの日」を思い出していた。厳しく問い詰められた「負の記憶」――それでも、決して自分を見捨てることはせず、時に厳しく、時に親切に接してくれた目の前の女子。志織の期待を裏切ることだけはしたくない。でも、みんなに選んでもらえるように、どう自分をアピールすべきかなんて、まるで見当がつかなかった。

 いつもは志織に的確なアドバイスをする利奈にも解決策はなかった。何しろ今回は、自分のスパルタ手法が通じずにこの事態を招いたのだ。女子バスケ部の副キャプテンとして、日頃から自己アピールに長(た)けている利奈は、そもそもそんなことで悩んだ経験がなかった。じりじりと、時間だけが過ぎていく。

 「あ、雪乃! いたいた!」

 開けっ放しの2-Cのドアから、元気いっぱいの女子生徒が、ずかずかと遠慮なく入ってくる。教室内の重い空気を破ったその正体は小夜だった。

 「珍しいね、雪乃が茶道部にも行かないで、この時間にここにいるなんて」

 そう言いながら、小夜は、雪乃がいる席の机の上に飛び乗るように座る。宙に浮いた脚をぶらぶらさせながら、4人で集まっている理由を尋ねる彼女に、志織が概略を説明する。

 「ふむ。安達くんを、調子よく書記に推薦しておきながら、かんじんかなめの安達くんが、みんなの前で大きな声を出せなくて、選挙運動が初日から行き詰まってる……と、そういうことだね?」

 「ま、そういうことなんだけどね」

 志織が、力なく答える。

 「仕方ないなぁ。私、東原小夜が、ひと肌脱ぎますか! どうせ、推薦人になった手前、逃げるわけに行かないんだからさ」

 小夜が力強く言う。森本学園の生徒会役員選挙規則では、現職の役員は推薦がなくても立候補できるが、新人は20人の推薦人を集めなければ立候補できないことになっている。しかも、どの生徒も同時に2人以上の推薦人になれないという面倒なルールもあった。だが、幸いなことに、2-Bからの立候補者はあの「チャラ男」、坂田ただひとり。その上、彼は現職の書記のため、推薦人は不要だった。それならば……ということで、小夜は、クラスメートでもない正人の推薦人代表になり、8人もの推薦人を集めてくれていた。

 「立候補した本人が、自己アピールできないんだったら、周りがやるしかないじゃない? 志織、利奈、雪乃。あなたたちがやるの。C組全員でね」

 そう言って、小夜は、困り果てている4人にひとつの提案をした。2-Cの全員が、何でもいいから正人の長所をひとつずつ、プリントに寄せ書きする。そのプリントを増刷して学園中に配るというものだった。

 「それ、いい。なかなかのアイディアだよね」

 「言葉でアピールするのがダメなら、プリントにして配る、か。なかなかのもんだな」

 雪乃、利奈が、感心したように言う。

 「なるほど。さすがは小夜だね。サンキュ」

 元気を取り戻した志織が、小夜に感謝の言葉を述べる。

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