コピーガードと著作権問題について
2003.4.29記
M.C.浜〜


創作物の著作権保護は、古くて新しい問題である。最近は、デジタル化の進展に伴ってデジタル製品にはコピーガードが施されることも多くなって きた。特に、最近世間の話題を集めたのがCCCDである。筆者も、このCCCD問題にはいろいろと思うところがあるので、この機会に思うとこ ろを述べたいと思う。
 
CCCDとはコピーコントロールCDのこと。パソコンによるmp3化やCD-Rメディアへの不法コピーを防止するための 防御を施している。具体的には、音声信号を故意に歪ませて記録する形をとる。このため古いCDプレーヤーでは問題なく再生で きるが、新しいプレーヤーでは極端な場合機械が故障することもあるという。再生できる機種でも音声信号を歪めているため音質 は劣ることが多い。CDの盤面の一部にパソコン再生用の圧縮された音声データとパソコン再生専用のアプリケーションソフトが 記録されており、パソコンではその専用アプリケーションによって、圧縮データを呼び出して再生するが、圧縮の際にビットレー ト(音声データの量を表す数値。当然大きいほど音質がよい)を低く設定して いるため、極めて劣悪な音質でしか再生できないという状況になっている(通常の音楽CDの ビットレートは192Kbps程度だが、筆者の持つCCCDではなんと48Kbpsという聴くに堪えない数値になってい た)。また、専用のアプリケーションがすべてのOS(基本システム)に 対応しているわけではないため、パソコンの機種によっては再生すらできない場合もある(Macintosh など非対応)。昨年頃から市場に出始めたが、消費者の評判はすこぶる悪い。

(1)コピーガードとCCCD問題 総論
巷にあらゆる作品の不法コピーが跋扈する昨今、著作権の問題は、著作権者サイドから見れば確かに深刻であるに違いない。しかし、CCCDを見 ていると、一部の不心得者のためにまっとうな楽しみ方をしている善良な者にまで迷惑が及んでいる現状には忍びないものがある。
日本の音楽業界がここまで追いつめられたのは、ネットの一般化とそれに続くブロードバンドの普及、そして米国で論議を呼んだ「ナップスター問 題」等の背景があると思う。ネット上で音楽をデータ化し、自由にやりとりできる技術自体は90年代からあったのだが、音声データの容量があま りに巨大すぎてネットでのやりとりが非現実的であったために問題化しなかった。それが、数メガバイトの音声データすらわずか数分でやりとりで きる高速通信の普及で、ネット上で不法にやりとりされた音楽データをCD-Rに焼き付けて楽しむ著作権侵害が深刻化したのだ。
しかし、何かと権利意識が高く、個人の権利にうるさいアメリカですら、ナップスターの時は堂々たる著作権侵害が横行したのだ。アメリカ人と比 べ、個人の権利を守る意識が希薄な現在の日本社会にそれを求めるのは酷というものだろう。
日本では、80年代頃からいわゆる「レンタルレコード店」が現れ始め、音楽業界との抗争を経てCDレンタル、ビデオレンタル、そして最近では DVDレンタルへと続いているが、こうしたレンタル文化が根付く中で、たとえば家族で1枚のレコードをレンタルし、それを家族全員で回しあっ てカセットテープに録音するというような慣行が、社会慣習として行われてきた。こうした社会慣習が成立した背景には、アナログ時代の文化の中 で、コピーを個人使用に必要な最小限にとどめるための技術的防御が不可能だったという理由もあるだろう。
しかし、世の中には、過渡期の限定的な権利として理解されていたものが「既得権益化」するということがしばしばある。「家族の中での使い回 し」のような実例が業界にとって苦々しく思われるものであり、社会がデジタル文化に移行した暁には何らかの制限をすべきだと考えざるを得ない ような性格のものであったとしても、消費者にとってそれは長すぎた過渡期のために既得権益化してしまったのである。その確立された既得権益を 破壊し、一方的に自分たちの有利になるようにルールを変更しようというのだから、そこには社会的合意がなければならないと思う。
ルールを変更するならするで構わない。ただし現在の方法には問題がある。消費者不在であることだ。ことに、正しく著作権に配慮して個人利用を している人にまで徹底して不利益が及ぶCCCDだけは断固として認めがたい。

(2)物的所有権と知的所有権の法律論
著作権とは、わかりやすく言えば自分の創作物を不法に使用されない権利のことで、知的所有権に分類される。個人の持ち物に「排他的使用権」が あるように、創作物にも排他的使用権があり、誰も創作者本人の許諾なくして使用を許されない・・・というのは理屈としては分かる。特に創作を 「飯の種にしている」人にとっては死活問題だからなおさらのことだろう。
日本の法律で「物的所有権」つまり物権に排他性が認められているのは、他人にその「物」を取り上げられてしまうと所有者本人がそれを使用する ことができなくなるという、物権が持つ排他的性格のためである(このため、日本の民法は物権には万全の保護 態勢を敷いており、例外は「抵当権」「担保」「所有権留保」などわずかしかない)。知的所有権も物権の一種だろうが、コ ピーが容易である創作物は、コピーによって創作者本人がその使用から締め出されるわけではないという点で物権とはやや性格を異にする。そうし た点で見るならば、排他的権利である物権と、コピーにより創作者本人の使用権を侵すことなく他者もそれを使用できる「知的所有権」を一律に論 じることは適切でない。
現在の日本で知的所有権、とりわけ著作権は、排他的かそうでないかという次元ではなく、おそらく創作を飯の種にしている人たちの生活権の問題 として議論されているのだろうと思う。CCCD問題も、そうした音楽業界の生活権の問題だと捉えれば決して理解できない事柄ではないわけで、 私たちも、業界の健全な発展を促す上からも創作に携わる人々の権利は守られるべきだという点に異論はない。

(3)あらためて音楽業界の「矜持」を問う
再び音楽業界の話に戻す。現状はあまりにも消費者不在で耐え難い。ウソだと思う人は一度CCCDを聞いてみるといい。CDでありながらカセッ トテープかと思うほどひどい音質なのである。今度は、そんなものを平然と発売して恥じない我が音楽業界の矜持について問いたい。
極論かもしれないが、「コピーガードなんてかけてもかけなくても売れる物は売れるし売れない物は売れない」が私の持論である。そもそも不法コ ピーをとやかく言う前に、売れる物を出してやろう、世間をアッと言わせる物を出してうるさい消費者どもに一泡吹かせてやろう、という矜持はこ の国の音楽業界にはないのだろうか。
私は、世に言うオタクの端くれだが、この世界に身を置き、仲間達の購買行動を見ているとほんとうに面白い。中身の出来不出来にかかわらず、応 援している声優の作品だから買う、ジャケットがすばらしいから買う、初回限定品の特典がすばらしいから特典目当てに買う、などの消費行動が日 常的に見られるのだ(その代わり、見かけ倒しで内容が伴わなかった時の評価は手厳しいが)。 私自身も、かつてそういう物の買い方をしてしまったことがあるし、今でもたまにそんな時がある。
そういったオタク達の行動を、短絡的だとか幼児的とか、物を買うなら外見でなく中身を見よ、などと批判することは簡単である。だが、外見も中 身も買うに値しない低レベルの物しか世に送れない現在の音楽業界人にとやかく言われたくないというのが私の本音である。それならば、ジャケッ トであれ特典であれ、戦略を立てて仕掛けてくるオタク業界の方がずっとましだと思う。それに私は、コピーガードなどかけなくても売れている作 品をいくつも知っている。例えば私の知っているある映画のビデオがそうである。6000円という高い価格設定にもかかわらず、みんなビデオを 買っていく。購入の時点では誰もコピーガードがかかっていることは知らないのだから、6000円が惜しい人の中にひとりくらいダビングを希望 する人がいそうなものだが、実際には誰もダビングさせてくれという人などいない。一方で、いくらコピーガードをかけても、つまらない作品はコ ピーガードを破られ結局はコピーされていく。現在の音楽業界が、CCCDという強硬手段に訴えて自分たちの権利を守らざるを得ないところにま で追い込まれたのは、「所詮この程度の作品はコピーで十分」と消費者に足元を見透かされた結果であるとも言えないだろうか?
音楽業界の過度の「技術的防衛」は、第一義的には法律問題であり、著作権という重要な権利の問題であることはもちろんだが、それとは別に音楽 業界の「質」を問う問題でもあるように私には思える。このままでは日本の音楽業界からの消費者の大量離反をも招きかねず、自分で自分の首を絞 めているようなものである。
業界人よ、こんな姑息な手段を講ずる暇があったら奮起せよ。消費者に足元を見られるのが悔しかったら今こそ起て。このままでは君たちに未来は ない。奮起して我々消費者が卒倒するくらいの作品を世に送り出してみよ!

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