「人らしく生きよう」パート2を見て(作品紹介・感想のページ)

 2004年5月、ついに「人らしくパート2」が完成、試写が開かれる運びとなった。当サイト管理者は、2004年5月22日、大阪での上映会に参加してきた。早速感想を交えて報告することにしよう。

1.「人らしくパート2」紹介と、前作から「パート2」制作までの諸情勢
 この作品は、東京のビデオ自主制作プロダクション「ビデオプレス」が2001年秋に公開した話題作「人らしく生きよう・国労冬物語」の続編である。 
 その前作は、国鉄分割・民営化時における1047名の被解雇者について「JRに法的責任なし」を主内容とする屈辱的な「4党合意」を権力から突きつけられたあげく、展望のない闘いに疲れた指導部がこれを受諾しようとしたのに対し、被解雇者を中心とする反対派闘争団が英雄的な闘いでこれを阻止した歴史的な「7・1臨大」(2000年7月1日の国労臨時大会)をクライマックスに据えながら、「人らしく生きるとはなにか」「労働者にとって働くとはどういうことなのか」という根源的問いかけに、多くの示唆を与えてくれた。地味な自主制作プロダクションの作品ということもあり、公開当初は「全国100ヶ所程度で上映できれば上出来」と考えられていたが、その評判は徐々に口コミで浸透。大方の予想を良い意味で裏切り、ついに全国250ヶ所を越える地域で自主上映が実現。台湾、米国、フランスなど海外にまで紹介され、各国でも話題となった名作である。
 前作の公開からほぼ3年…。この間、反対派闘争団はJRの法的責任を問うてきたこれまでの闘いを、国の責任を問う方向へ転換し、鉄建公団訴訟を提起。国労本部は、生活援助金の支給を取りやめるなど、反対派闘争団〜鉄建公団訴訟原告団への締め付けを強化。そうした権力的対応とはうらはらに、国労内部をまとめあげることができなかった本部の醜態に、ついに自民・公明・保守(当時)の3与党は2002年12月、4党合意からの離脱を表明。ここに、本部主導の解決の望みは絶たれた。2003年末には、2対3の僅差ながらJRの責任を問うて争っていた訴訟に敗訴。JRを相手取った司法解決の道も閉ざされるに至った。
 反対派闘争団にとって、いま不当解雇の責任を問う最後の手段が鉄建公団訴訟にあることは誰の目にも明らかになりつつある。生活援助金を断ち切られた原告団。生活と闘いの両立に苦悶しながらも、アルバイトで生計を立て必死の思いで自活する姿は今も変わらない。しかし、ひとつだけ大きく変わったことがある。国労旗という「親鳥」に抱かれながら暖かい巣の中で過ごしていた原告団が、自らの意思で寒風の中へと巣立ち、自分の羽で大空へ向かって飛び立とうとしていることである。
 「パート2」は、小さな羽をばたつかせながら必死に飛び立とうとする、そんな原告団の「いま」を描いた作品である。

2.映画の大まかな内容(ネタバレあり)
 映画は、原告団のひとり、赤峰正俊さんが、4党合意の一方の推進者であった村山富市・元首相の自宅を訪ねるシーンから始まる。「人らしく生きよう パート2」のタイトルバックの背景に流れるテーマソングは「光のエチュード」。「浪速の唄う巨人」趙博さんの歌である(私はこの曲を聴くのが実は今日が始めてで、冒頭のハミング部分が一瞬"We Shall Overcome"に似ていると思った。趙博さんの紹介記事がんばれ国労闘争団のページにあり)
 主な登場人物は赤峰さんの他、北見闘争団の中野勇人さん・貴子さん夫妻と2人の息子、前作に引き続いての登場となる山田則雄さん(JR東日本現職社員で国労所属;隔離職場「我孫子保線区PCリニューアル」に9年)。中野勇人さんは、国鉄闘争のなかった四国に支援の輪を広げるため、現在四国に常駐してオルグ活動を続けている。さながら単身赴任である。山田さんは、隔離職場にいながらも定期的に手作りのニュースを発行し、休日を利用しては社員に配り歩く中で、逆に他の社員から会社の合理化などの動きを知ることもあるニュースの内容国鉄闘争共闘会議サイトにも載っている)
 作品には、「闘争団2世」も登場する。国鉄闘争は、当時赤ん坊だった2世たちを成人させるほど長い闘いになったのである。中野勇人さんの長男は声優を志望しており、東京で専門学校へ通うためひとり暮らしになるという(あえて固有名詞は出さないが、鉄道ファンであると同時にアニメオタクでもある当サイト管理者はだいたいその専門学校の名前は想像がつく(笑)。早く有名になってアニメで声を当てる日が来て欲しいと思う)。「お兄さんの代わりにお母さんを助けますか?」と尋ねられ、はにかむ次男。労働運動に取り組む父の背中を見て育ってきた2世たちの姿がそこにある。
 登場人物のひとり、北見闘争団・西川信雄さんの息子さんはもう大学生だそうだが、「父親が家族をある意味、犠牲にして労働運動をやることに疑問を持った時期もあった」という。家族から異口同音に出るのは「何度もやめようと思った」こと、それでも「何も悪いことをしていないのに解雇された事実を許すことができない」という事実と、夫や父への共鳴があったから彼らが闘いを続けることができたという事実である。
 そのほかにも、2世や妻たちの、夫や父親との関わりが淡々と示されてゆく。ひとりで闘いを続けている闘争団員ももちろんいる。しかし、18年にも及ぶ長い闘いを支えたのは、「間違ったことはしていないのに解雇された事実が許せない」という思いの他に、家族との絆があった。
 今回の作品は、そう言う意味で、この2世たちが隠れた主人公だったような気がする。

3.稚内闘争団家族会・赤川裕見子さんからの報告
 上映終了後、稚内闘争団家族会・赤川裕見子さん、熊本闘争団・蓑田浩司さんからの報告があった。遠路はるばるやってきた赤川さんはなかなか話のうまい人だ。「1987年2月16日の夫との会話を私はいまでも忘れない。『どうだった?』『ダメだった』『やっぱりね。他の人は?』『全員ダメだった』…。清算事業団で夫がやらされたことと言えば履歴書の書き方にネクタイの着用の仕方、そして「あいうえお」の練習。全く人をバカにしているとしか思えなかった」。滑らかなトークの中に悔しさと闘志が充満する。「その日、1人ずつ部屋に招き入れられると、管理者6人に取り囲まれた。その場で不採用を言い渡された。紙切れの1枚もない口頭だけでの通告。目の前が真っ暗になり、“理由を教えてください“というのが精一杯だったが、結局理由も示されなかった」(蓑田さん)。
理由を示すことができなかった管理職を責めるつもりはない。彼らとて、なんの権限も与えられず、汚れ役だけを引き受けさせられた「貧乏クジの末端管理職」にしか過ぎないからだ。彼らに汚れ役を押しつけて安全なところからぬくぬくと指示だけ発し、自らは決して手を汚すことのなかった者がいる。その連中こそ真犯人だ。我々はそれが誰であるかも解っている。議員を引退した偉い偉いナカソネ「大勲位」さんよ、いい加減で1047名の前に出てきて詫び入れんかい!
  赤川さん、蓑田さんの報告が終わると拍手がわいた。主催者の発表では、この日の上映会参加は約40名とのことである。

4.全体を通して思ったこと
 前作と比較して見ると、同じテーマを扱い、登場人物も一部同じであるにもかかわらず、受けた印象は前作と全く違っていた。前作が情熱的に燃える作品だったのに対し、今回の作品は静かに燃える作品だというのが私の評価である。制作したビデオプレス関係者は、「前作が良かっただけに最初から期待値が高くて大変だった」と漏らしていたというが、見終わった後の「後味」は今作の方がずっといい。
 なるほど、場面場面での「盛り上がり度」は前作のほうが上だったといろいろな意味で思う。分割民営化からの歩みを丁寧に追い、アルバイトで自活する闘争団員たちに密着しながら、一方で労働組合幹部の立場を省みず反対派切り捨てに狂奔する本部執行部という明確な「敵」を描き出し、その敵に渾身の力を込めて怒りを叩きつける藤保美年子さんという存在を、「被写体がカメラを捉えて離さない」とまで言わせるほど見事にクローズアップした。前作「国労冬物語」が世に出るまでは一組合員の妻という立場でしかなかった藤保美年子さんを国鉄闘争の象徴的存在に押し上げたのは、間違いなく「保身」と「見せかけの総団結」に明け暮れる労働貴族への確かな怒りだったのである。それはまさに前作のクライマックスだった。
 それに対し、今作品にはクライマックスというものが存在しない。確かに、原告団員たちが国労本部に申し入れをする場面の描写は出てくる。しかし、この「申し入れ」場面の描写こそ、4党合意崩壊の衝撃波がどれほど凄まじかったかを示している。4党合意崩壊は彼らを「一方の主役」から引きずり下ろしたのだ。今作での彼らはもはや「悪役」ですらなく、若者用語を借りれば「アウト・オブ・眼中」状態。誰にも相手にされず、独り芝居を続ける哀れなピエロに成り下がった。悪代官と強欲商人がいなければ、黄門さまの印籠も使い道がない。こうして、今作からはクライマックスが消えてしまったのである。
 本部が悪役の座から下りたとはいえ、主題が闘いである以上敵は存在する。その敵が、国であり、国労本部であり、JR資本であるというように分散してしまったのだ。だから今回の作品の焦点が、闘争団員たちの闘う「態勢づくり」に向けられたのは、ある意味必然の成り行きだったと思う。
 しかし、だからといって今作が前作より劣っているとは思わない。冒頭にも書いたように、見終わった後の「後味」は今作のほうがずっといい。その理由はなんといっても「希望」があるからだろう。前作は盛り上がった作品ではあったが、ではどうすれば闘いに勝てるのかの展望は示されなかった。だから、見終わった後、「今後どうなるのだろう」という漠然とした不安があった。それに対し、今作はおぼろげながらもその展望を示した作品となっている。そこに希望があり未来も見える。だから、見終わった後ひとりでに顔が上がり、背筋も伸びるのだと思う。
 非常に乱暴でアバウトな表現をお許しいただけるなら、前作が国労運動の「終わりの始まり」に焦点を当てた作品だったのに対し、今作はその「始まりの始まり」または「再生の始まり」に焦点を当てた作品、ということができるだろう。その意味では、前作の「国労冬物語」に対し、「雪解け物語」という副題を付けることができる作品かもしれない。…「春物語」と呼ぶにはまだまだ早すぎるけれども。

5.「組織」と「個人」
 この第5項でこれから書くことは、厳密に言えば映画の紹介・感想には入らないが、「人らしく」が労働問題を扱った映画である以上、労働運動をめぐる諸問題にどうしても触れざるを得ないので、それについて以下述べる。
 この映画の最初で村山富市元首相が赤峰さんに対して語った言葉「組織あっての運動じゃからのう」と、中野さんがオルグに行った先の四国で、支援を約束してくれた農協労連委員長が語った言葉「国労にもこんな人がいるんだ」。この2つの言葉が、日本の労働運動とその病弊を語る上でのキーワードであると筆者は見る。
 村山元首相の言葉は、「運動は組織があってはじめて作られるもの」であり、誤解を恐れず言えば「個人は組織に従属する」というものである。旧来の日本型運動が克服できなかった最大級の誤り…政治党派も含め、日本の運動団体の中に宿命のように寄生してきたスターリニズム的運動論を象徴する言葉である。この思想、この組織論・運動論のために、これまでどれだけの良心的な人々たちが「上からの引き回し」にあってきたことか!
 だが、少し考えればこの組織論が間違っていることは容易にお判りいただけるだろう。実際にはひとりひとりの人間が集まったものを「組織」と呼ぶに過ぎないのだ。猿から進化した最初の人間は、社会学的な意味での緩やかな「集団」には所属していても、警察力や統制力など、物理的な強制を伴う「国家」「団体」などの組織には所属していなかった。ひとりひとりが生産した食料を「集団的結合」の中で分け合い消費する…それが、人類が誕生した頃の原始共産制だったのだ。それゆえ国家などというものは、後から人間が必要に迫られて作ったものであり、人間がその必要を感じなくなったときには消滅する。あらゆる組織はその意味で相対的であり、だから私は「愛国心」なんて信じない。信じるのは、助け合って生きている仲間たちである。
 日本の労働組合は、長らく総評〜連合の影響下に置かれてきた。前作の感想の中で私はかつて「役員が書けと言うから署名を書き、考えるのがめんどくさいから何も考えずに大会では挙手だけしておく」労働組合のあり方を批判したことがあるが、総評型労働運動も結局はこのスターリニズム運動論だったのではないだろうか。それでも、総評労働運動が「泣く子も黙る」と言われるほど労働者の心を捉え、時に支配層を恐怖に陥れるほどの影響力を持ち得たのは、「路線の正しさ」によって組織論・運動論の中に潜んでいる問題が隠蔽されていたからではないだろうか。
 組織論・運動論の中に、個人を集団の意思に無理矢理従わせようとするスターリニズム的な過ちが潜んでいたとしても、正しい路線を歩んでいるときはそれが見えないことがあるという事例を、我々は20世紀の歴史の中から容易に発見することができる(スターリニズムが「東西冷戦」によって覆い隠されていた旧ソ連の実例など)。しかし、その路線の正しさが消滅したとき、構成員の信頼を引き受けていた指導部の権威は地に落ち、凡庸な独裁へと堕する実例も、旧ソ連や日本の新左翼運動などの中で多く知っている。「個人が集まって組織ができる」…それが出発点であったはずなのに、いつか指導部が他の構成員たちとは違う何者かででもあるかのように振る舞い始める。そのときから堕落が始まる。その意味では、労働運動の現場でさんざんもてはやされてきた国労も凡庸な「既成労働組合」のひとつだったのではないかと、「4党合意」以来ここ数年の国労を見てきて思うことである。
 そんなことを考えていると、「人らしくパート2」の先進性が見えてくる。「運動はひとりから始まる」ことを示してくれたこの映画を、私は無邪気に評価したいと思う。自覚的なひとりひとりの運動を「結合」し1+1を3にも4にも飛躍させるのが組織の効用であるとするならば、この本当の意味での「組織」は日本のどこにも存在しない。「人らしくパート2」が提示した新しい運動のスタイルは、ただ労働運動ばかりでなく、政治党派、市民団体などあらゆる運動団体に通用する普遍性を持った「方程式」である。あらゆる運動に明日の希望を与え得る最強の方程式である。それを、おぼろげながらとはいえ示すことができたこの作品の持つ意味は本当に大きいと思う。

 結論として、この映画に私から「5つ星」を贈る。皆さんもぜひ見て欲しい。

トップページに戻る