〔ルポ〕家畜伝
染病・口蹄疫の現場から
宮崎県で発生 した悪性家畜伝染病・口蹄疫(こうていえき)問題の取材のため、筆者は6月中旬の1週間にわたって宮崎入りした。その記憶も鮮やかなうちに、現地で起きた 出来事や防疫員たちの奮闘について報告するとともに、今後の家畜衛生対策について述べたい。
●口蹄疫とは
今年4月20
日、宮崎県で発生した家畜伝染病・口蹄疫は、2か月経った今なお猛威を振るっており、本稿執筆時点(6月20日)で拡大ペースは鈍ったものの、依然として
収束の兆しは見えない。
指の数が偶数で、ひづめを持つ動物のことを生物学上、偶蹄目あるいは偶
蹄類と呼ぶが、口蹄疫は偶蹄類だけが感染する。偶蹄類には牛、水牛、豚の他、羊、山羊、鹿、イノシシ、少し変わったところではカバやキリン、ラクダ、ゾウ
なども含まれる。このうち、家畜として飼養され、畜産業への影響が大きい牛、豚、羊、山羊、イノシシ等が、家畜伝染病予防法によって特に口蹄疫を監視すべ
き動物に位置づけられている。
典型的な症状
としては発熱、大量のよだれの他、ひづめに水泡ができ、ひどい場合ははがれ落ちて立つことができなくなる(ひづめのはがれによる起立不能は特に豚に多く見
られる)。成牛の場合、体が大きいため自然治癒することもあるが、子牛や子豚が感染した場合は、発症から数日で死亡することが多い。
口蹄疫は、極めて感染力が強く、また感染スピードが速いことで知られ る。1997年に口蹄疫が大発生した台湾では、懸命の防疫作業にもかかわらず、わずか3か月で台湾全土の豚が全滅に近い状態に追い込まれた。豚肉輸出はス トップし、日本でも豚肉高騰を招いた。治療法も有効なワクチンもなく、今なお畜産農家から最も恐れられている家畜伝染病のひとつである。
●凄惨な現場
6月中旬の1週間、筆者は口蹄疫問題の取材のため宮崎に入った。
現場での防疫員の作業内容は家畜の殺処分や処分後の埋却、畜舎の消石灰
による消毒、清掃等である。家畜伝染病予防法では、感染が確認された家畜のみならず、これと同一の農場で飼養されている家畜も感染のおそれがある家畜(疑
似患畜)としてすべて処分対象となるため、現場では日を追うごとに処分対象家畜の頭数が爆発的に増えていった。
牛に対しては、埋却予定地まで歩かせた後、動かないよう数人で体を押さ
え(保定)、獣医がまず鎮静剤を注射、続いて薬剤を注射して殺処分が行われる。豚に対しては、後半になると電気ショックを与える方法が主流となったが、初
期にはトラックの荷台に豚を追い込み、密閉後に炭酸ガスを流し込んで窒息死させる方法が採られていた。実際に作業に当たった防疫員によれば、炭酸ガス充満
後、豚がピーピーと悲鳴をあげながら飛び跳ねるが、やがてその音が聞こえなくなるという。アウシュビッツ強制収容所を思わせるあまりにも悲惨な光景だ。
動物を殺処分
する場合でも、できるだけ苦しみを与えない方法によらなければならないとする「アニマルウェルフェア」(動物福祉と直訳されることが多い)の考え方は、欧
米諸国では一般化しており、ヨーロッパではすでにEU加盟国共通の法律に相当する欧州委員会指令として制定されている。日本でも次第に浸透しつつある概念
だが、この殺処分の現場はアニマルウェルフェアからあまりにもかけ離れていた。
殺処分に当た
る防疫員にも、牛に蹴られる者、足を踏まれて骨折する者、消毒用の消石灰を浴びて火傷を負う者などが続出、現場はまさに地獄絵図と化した。
牛や豚を我が子のように愛し、育ててきた畜産農家の心情は察するに余り あるものだった。防疫員たちは、多くの畜産農家から「お墓のなかで少しでも“我が子たち”が安らかに眠れるように花束を一緒に埋めてください」「子牛たち を母牛の隣に埋めてください」といったお願いをされたという。そうした農家の願いを最大限に尊重しながら、凄惨な現場で任務を適切に進めていった防疫員た ちの姿勢に、心から敬意を表したい。
●見えてきた「人災」
さて、宮崎県
全体で20万頭近い家畜が犠牲となり、被害の最も大きかった川南町、新富町では家畜が全滅に近い状況にまで追い込まれた未曽有の災害は、人災の様相を呈し
ている。口蹄疫は自然発生するものではなく、感染ルートの解明は今後の調査を待たなければならないが、今回の事態で改めて露呈したのが防疫体制の不備であ
る。
口蹄疫は、偶
蹄類以外には感染しないものの、そのウィルスは大気中で最大7日間も生き続け、その間、人体や手荷物、車両などに付着して何千キロもの距離を移動する。家
畜伝染病予防法に規定する疾病に感染した家畜は現在でも隔離・処分は可能だし、ヒトの法定伝染病にかかった患者には検疫法や感染症予防法(感染症の予防及
び感染症の患者に対する医療に関する法律)により措置を行うことができる。しかし、多くの家畜が法定伝染病に感染していない段階で、人体や手荷物、車両な
どに付着したウィルスが移動しながら感染を広げていくという事態の前に、これらの法制度は全く無力だった。感染前の段階で家畜伝染病予防法は発動できず、
またヒトに感染しない病気に対しては検疫法や感染症予防法も発動できないまま、拡大する口蹄疫の前に成す術もなかったのだ。
口蹄疫まん延を防ぐためのワクチン接種が畜産農家の抵抗に遭ったことも
大きな誤算で、対象農家の説得に当たっているうちに被害がどんどん拡大していった。
しかし筆者に
は抵抗した農家を批判するつもりは全くない。ワクチン接種を行うことは、いわば人工的にウィルスを家畜の体内に流し込むことを意味しており、患畜でないも
のを強制的に患畜にしてしまう。すなわちワクチン接種が行われれば、その家畜は殺処分の運命が事実上決まるのである。
その上、家畜 を殺処分される畜産農家への補償方針がなかなか決まらなかった。畜産農家は全額補償を要求したが、防疫体制の不備が招いた人災であること、殺処分の対象が 感染家畜以外にも及ぶこと、2年前の飼料高騰時の借金さえ返済できていない畜産農家が相当数いること等の事情を考えれば、全額補償は当然の要求だと筆者は 考える。
●終わりに
以上、簡単だが宮崎県で起きている出来事を支障のない範囲で紹介した。
今はまだ目の前にある危機を乗り切ることに精一杯の状況だが、口蹄疫の拡大スピードも鈍ってきたように思われるので、そろそろ今回の教訓から今後の家畜衛
生政策のあり方を展望する時期だと思う。
早急に手を打たなければならないのは消毒の徹底だ。前述したように、口
蹄疫ウィルスは人体や手荷物、車両に付着して運ばれるが、これに対して消毒はタイヤや靴底を薬液でチョロチョロと洗うだけのお寒いものだった。今後は車両
や人体を丸ごと消毒できるような法体制の整備が必要である。港や空港での検疫も強化しなければならない。
感染を拡大させた原因として、獣医による「誤診」も指摘されている。今 年3月の段階で、よだれを垂らしている水牛がいたのに獣医が口蹄疫と気づかず、下痢と誤診していたというものだが、こうした背景には牛、豚などの家畜を扱 う産業獣医師の劣悪な待遇がある。最近では、獣医師国家試験合格者の大部分が家畜診療に進まず、増え続けるペット需要に対応して小動物診療の分野に進んで いる。動物病院を開業した場合、一千万円を超える収入を得る獣医師が相当数いるのに対し、多くが公務員や畜産農協などの「勤務医」である家畜診療獣医師の 収入は正社員程度に過ぎないとの報告もある。これでは、優秀な獣医ほど動物病院に集中するのは当然だ。彼らを非難するのは簡単だが、国や自治体には、家畜 診療の魅力をもっとアピールするとともに、「勤務獣医」の待遇を引き上げるなど、彼らが誇りを持って働ける環境の整備を強く望む。
少なくとも、マスコミを動員して公務員バッシングを繰り返しながら、彼ら勤務獣医に結果だけは求めるような家畜衛生政策など成功するはずがないし、そう
した政府の農業軽視政策が、畜産業の最も危機的な局面で、典型的な形で露呈したのが今回の口蹄疫パニックだと見るべきではないだろうか。
(2010年6月25日 「地域と労働運動」117号掲載)