最高裁判所裁判官国民審査制度を考える

 
 最高裁判所裁判官国民審査。衆議院総選挙と同時に行われ、罷免させたい最高裁判事を選ぶことができる制度だが、過去、最も不信任率が高かった人でも、それは15.17%に過ぎない(1972年12月実施の第9回国民審査における下田武三判事)。この制度によって罷免された裁判官はひとりもおらず、選挙公報も配られないまま実施されるのが常態化するなど、制度は今や完全に形骸化している。

 私がこの国民審査を初めて経験したのは1993年7月の総選挙時のことだが、最初から国民審査に対しては疑 問だらけだった。衆議院選挙の投票用紙と国民審査の投票用紙を一緒に渡す投票方式も疑問のひとつで、このために毎回、必ず投票箱を間違え、せっかくの投票 が無効となるケースがある。総選挙が実施されたばかりのこの機会に、改めて国民審査制度の問題点を考えてみることにしたい。

 

●独裁国家と同じ投票方式

 私は、なぜ国民審査の投票用紙だけが議員選挙の投票用紙と同時配布なのかという疑問を解明しようとしたが、 その答えを教えてくれる文献をなかなか探し当てられないでいた。ところが思いがけない本の中に、そのヒントとなる記述が見つかった。「モスクワの市民生 活」(今井博・著、講談社文庫、1992年)という本がそれだ。著者の今井さんは毎日新聞記者で、1970年代終わりから1980年代初めにかけて5年半 をモスクワ特派員として過ごし、その経験を元にこの本を著した。ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)、西側諸国によるモスクワ五輪ボイコット (1980年)、大韓航空機撃墜事件(1983年)など東西冷戦が激しかった時期である。クレムリンの視点ではなく、ソ連の一般市民の視点で日常生活をま とめた同書を、私は優れたルポルタージュだと思った。

 「モスクワの市民生活」は、ソ連の選挙のことにも触れている。ソ連の選挙は党が指名した官選候補に対する信 任投票だが、その投票方法が西側諸国では考えられないもので、官選候補を信任する場合には白紙のまま投票するのに対し、不信任にしたいときだけ投票用紙に ×を付けるのである。お上の選んだ候補が気に入らないヘソ曲がりの有権者だけが記入所に入らなければならないわけだが、もしそんなことをすれば強制収容所 に送られるか精神病院への強制入院が待っており、一般有権者は怖くてとても×など付けられなかったそうだ。旧ソ連で、選挙のたびに全ての官選候補が限りな く100%近い高信任率を得ていた背景には、こうした非民主的な投票制度があった。

 日本の最高裁裁判官国民審査も、裁判官を不信任にしたい人だけが×を付け、対象裁判官全員を信任する人は白 紙のままで投票する旧ソ連と同じ投票方式である。「最高裁判所裁判官国民審査法」で決められているものだが、裁判官を不信任にしたい人だけが記入所に入ら なければならないとしたら、秘密投票の原則は破られてしまう。しかし、国民審査の投票用紙を議員選挙の投票用紙と同時に配布することによって、誰が裁判官 に×を付けたかわからないようにすることができる。幸い日本では旧ソ連のように裁判官に×を付けても強制収容所や精神病院に送られることはないが、この投 票方式のせいで毎回、少なくない有権者が投票箱を間違えて逆に入れてしまい、主権行使の機会を奪われる事態が発生しているにもかかわらず、投票方式を改め る動きも見られない。

 

●批判を恐れる者のためのシステム

 秘密投票の原則が守られているのだからいいではないか、という議論にはならないと私は思う。この投票方式の 最大の問題は、旧ソ連と同様、政治的無関心を「国家体制支持」にすり替えてしまうところにある。たとえ信任投票であるとしても、多くの労働組合の役員選挙 がそうであるように、信任の場合は○、不信任は×を付けるシステムに改めるだけで裁判官への信任率はかなり低下するのではないか(注)。 なぜなら、不信任にするほどでないとしても、わざわざ記入所に入って○をつけるだけの労力をかけるに値する裁判官なのかを有権者が考え始め、その結果、不 信任にはしないけれど信任もしないでおこう、という投票行動をすることが可能になるからである。少なくとも、そうした投票方式が導入されない限り、国民の 裁判官に対する本当の信任率が明らかになることはないだろう。

 一方、裁判所側から見れば、法の番人である最高裁の権威を保つためには、裁判官に対する国民の信任が高いほ うが望ましいことはいうまでもないが、そのためには国民が労力をかけず、またあまり深く考えることなく裁判官を信任してくれるような投票方式が望ましいと いうことになる。結局のところ、投票箱を間違え、票が無効となるリスクを有権者に強いている現行の投票方式は、もっぱら裁判所の権威付けのために存在して いると考えて良さそうである。

それに、あれこれと難しいことを指摘するまでもな く、裁判官に対し、不信任の意思表示をする人だけが余計な労力を強いられるという投票方式は不公平に決まっている。裁判官国民審査を真に公正なものとする ためには、有権者が信任、不信任どちらの意思表示をする場合でも、かける労力が同じでなければならないのは自明のことだ。裁判官を信任してくれる有権者に だけ、ちょっぴり負担を軽減してあげましょうなどというやり方が本当に民主主義といえるかどうか、そして、これと同じ投票方式が採用されていたソ連がその 後どのような末路をたどったか、読者のみなさまも一緒に考えていただきたいと思う。

 このような、ある意味「汚い」やり方をする最高裁は、多分国民の批判を恐れているのだろう。確かに、今の裁 判所を見ていると褒められたものではないし、最高裁というより「最低裁判所」と呼ぶ方がふさわしいような不当判決のオンパレードである。その上、法の番人 にあぐらをかいて自己改革の姿勢もなく、最後には裁判員制度なるものによって判決まで国民にアウトソーシングしようというのだから、もう自民党並みに「終 わっている」というべきだ。

 「どうせ選挙公報も配られないからわからないし、誰がどんな判決を書いていようと、自分が裁判の当事者にな るわけでもないし」と、白紙のまま投票している有権者の皆さん!民主主義は労力をかけることから始まる。労力を厭うようでは近代民主主義の守護者たること はできない。せめて、みんなで労力をかけ、せっせと×を付けようではないか。裁判官を罷免させることはできなくても、不信任が増えれば裁判所は自己改革を 迫られる。「最低裁」を最高裁へと飛躍させるのは、惰眠をむさぼることに慣れた裁判官ではなく主権者である私たちなのだ。

 

注)ここでいう信任率とは、有効投票数 (無効票を除いた投票総数)に対する信任票の比率ではなく、投票総数に対する信任票の比率のことである。信任は○、不信任は×を付ける投票方式に改めたと しても、有効投票数に対する信任率は変わらないが、白紙投票が多くなれば、投票総数に対する信任票の割合はそれだけ低下することになる。

(2009年9月29日 「地域と労働運動」第108号掲載)

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