安全も 急降下する エレベーター

 
 2006年6月、東京都内のマンションで、シンドラーエレベーター社製エレベーターに挟まれ高校生(当時16歳)が死亡した事故を巡って、国土交通省昇 降機等事故対策委員会は去る9月8日、ブレーキの異常が事故の直接の原因である一方、エレベーターの設計や品質にも問題があったという内容の報告書をまと めた。

国土交通省に昇降機等事故対策委員会なる組織があることを初めて知った。常設の委員会なのか、今回の事故を受けての臨時設置なのかはわからないが、こうした委員会を設置して調査したこと自体は前例がなく有意義だ。

 報告書によれば、当時、このエレベーターの保守業務を請け負っていたエス・イー・シー・エレベーター社に対 し、シンドラー社が保守点検マニュアルを渡しておらず、その結果、エス・イー・シー社は全エレベーター共通の仕様書やシンドラー社の類似機のマニュアルを 基に保守点検を行うという心許ない状態だったという。しかも、これがエレベーター業界の慣行だというから驚くべきことだ。

メーカーの直系でない保守会社にはマニュアルすら渡 さないのが業界の慣行などと主張されても困る。そのような遅れた慣行は直してもらわなければならないし、こんな慣行がまかり通っているからこそ事故が起こ るのだ。もし、どうしてもライバル社系の保守会社にマニュアルなんか渡せるか、というのであれば、自社の直系メーカーにきちんと保守対応してもらうのが筋 だろう。

今回の事故に関しては、建設業界を指導する立場上、 国土交通省も一定の責任を免れないと思うが、昇降機等事故対策委員会が国土交通省の内部組織である以上、国の責任に触れることは難しいのではないかと思 う。この辺の事情は、国土交通省の内部組織である旧航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)が国の責任を追及できなかったのと同じ構図だと言え る。やはりこの種の事故調査は独立委員会が行うような体制を早急に整備すべきだと考える。

ところで、このエレベーター問題を追及していくと、国や地方自治体の一般競争入札問題に突き当たる。

公営住宅や官公庁の建物のエレベーター保守は、ほと んどが一般競争入札となっており、年度ごとに入札が行われる。従来は、メーカー直系の保守会社でないと安全確保ができないとして、競争入札にすべき案件で も随意契約(特名随契と呼ばれる)としてメーカー直系の保守会社と保守契約が結ばれることが多かった。しかし、競争入札重視の流れと「とにかく税金の無駄 遣いは1円たりともダメだ」という理屈(それ自体は間違っていないが)が教条的にごり押しされた結果、一般競争入札でメーカー直系の保守会社が落札でき ず、保守業務に入れないケースが出てきたのである。

それでも、エレベーターの仕様・規格に関する資料や 保守マニュアルがメーカーから落札した保守会社にきちんと手渡されるならば問題は少ないのだろう。しかし、エレベーターに限らず、独自技術の集積である重 電分野では、情報流出を警戒してメーカーがこうした資料を出したがらない場合が多い。

それを国や自治体が「入札の結果、自社系でない保守 業者が落札したのだから提出せよ」というのは、ある意味、国や自治体が産業スパイのお先棒をみずから担いでいるようなものである。技術情報を提供させられ るメーカーにしてみれば、目先の利益のために官公庁に食い込んだ結果、技術をライバル社に盗まれ、大きな利益を失うことにさえなりかねないわけだ。

こうしたことが続いていくと、優れた技術を持った メーカーほど「目先の利益のために技術情報を盗まれるような官公庁への食い込みはやめておこう」ということになり、保守業務に関しても、最後には安いだけ が取り柄の保守業者が官公庁や公営住宅のエレベーター保守業務を巡って入札でダンピング競争を繰り返すようになる。それに伴って保守業務の質もどんどん低 下してゆく。落札した保守業者はメーカーからマニュアルさえ渡されず、雲をつかむような状態でエレベーターの保守作業を行う。このような呆れた事態がエレ ベーター業界では進行しており、事故はこうしたことと決して無関係ではない。欠陥品を市場に送り込んでいたみずからの責任を棚に上げて昇降機等事故対策委 員会の調査結果に反発し、国土交通省ホームページからの報告書の削除を要求しているシンドラー社のような会社は論外だとしても、このような業界の特質があ る以上、技術情報を他社に渡そうとしないエレベーターメーカーだけを一方的に批判するわけにいかないのである。

その意味で、今回、若い命が無残にも失われたエレ ベーター事故を、単に悪徳メーカーが欠陥製品を納入しただけの結果と見るのは早計である。その背景には、「血税の無駄遣いは許されない」という、誰もが反 対できない「錦の御旗」を振りかざしながら、業者が適正な品質も確保できないような極端な安値を強制する国・自治体の競争入札システムがある。そして、こ ちらに疑いの目を向ける人はほとんどいないのが実情である。

政権交代という大きな民意のうねりの中で、今、日本 中が「無駄」という言葉に極端に敏感になっている。日本中が「無駄撲滅原理主義」とでも言うべき、ある種の教条主義にとりつかれている。低成長時代に入 り、経済の拡大が期待できない中で無駄の撲滅が必要であることは理解できる。しかし、「最小限のコストで最大限の利益を」というのは結局のところ、資本主 義社会におけるグローバル企業の行動原理であり、国や自治体による競争入札の拡大とは、そうした行動原理が国民生活の隅々まで貫徹していくということを意 味する。社会的強者はそれでいいのかもしれないが、社会的弱者や庶民にとってそれがプラスになることは全くない。

日本国民は、もういい加減「安いことはいいことだ」 という幻想から脱する時期に来ている。物にもサービスにも適正価格があり、それは安全確保も含めたサービス水準と、それを維持するための適正なコストを加 味して決定されなければならない。もし、今の日本の経済システムがそれさえも許さないような供給過剰と過当競争の状況にあるのなら、競争の制限という反資 本主義的な政策の導入を図っていくことも必要である。

エレベーターに限ったことではない。医療・福祉、教育などの公共サービスや安全には最大限の投資をすべきであり、そのために政府の財政が赤字になるのであれば、応能負担の原則を適用し、負担する能力のある者(=富裕層)に負担してもらえばよいのである。

政治や行政が富裕層に遠慮しているのなら、そんな遠慮は不要である。社会の安定のために応分の負担をすることは、富裕層にとってノブリス・オブリージュ(高貴なるが故の義務)だからである。

(2009年10月24日 「地域と労働運動」第109号掲載)

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