「静かな退職」という言葉が、今年に入り、日本でも急速に広がっている。「静かな退職という働き方」(海老原嗣生・著、PDP新書)という本も出版され、インターネット上ではすでに注釈なしで通用するほど認知された。年末恒例の「ユーキャン新語流行語大賞2025」の開催が脳裏にちらつく時期になってきたが、大賞受賞は無理でも候補にノミネートされる可能性は十分にあると私は思っている。
 「ユーキャン新語流行語大賞」には、「表の選考基準」以外に、(1)政治的でないこと、(2)発案者が日本国内に居住しており、受賞式当日に出席可能であること――といった「裏の選考基準」もあり、この用語の受賞は見通せない。一方で、2025年を現時点で振り返ってみると「日本人ファースト」を超えるインパクトのある新語は見当たらないが、これは政治用語としてはもちろん、一般用語としても戦後ワーストレベルのネガティブ新語であるため、受賞はまずない。
 もし「ユーキャン新語流行語大賞」運営サイドが「静かな退職」をポジティブワードだと認識できるなら、他にインパクトのある用語も今年は見当たらない中、まさかの受賞さえあるかもしれない。
 ●古くて新しい働き方
 「静かな退職という働き方」という著書名が示すように、これは働き方を表す用語であり、辞表を叩きつけて勤務先を辞めることを意味する言葉ではない。もともとは、コロナ禍の影響がまだ強く残っていた2022年、米国のキャリアコーチであるブライアン・クリーリー氏が、仕事が人生のすべてであるかのような「ハッスルカルチャーには賛同しない」と明確に述べ、「Quiet Quitting」を提唱したのがきっかけとされる。
 キャリアコーチとは日本人にはなじみがないが、強いて日本語に訳すなら「職業生活アドバイザー」とでもなるだろうか。ハッスルカルチャーとは、かつて日本でも主流だった「モーレツ社員」のことだといえばご理解いただけると思う。「Quiet
Quitting」を日本語に翻訳したのが「静かな退職」というわけだ。
 モーレツ社員文化を否定し、燃え尽き症候群などの不調から自分自身の心身を守るため、与えられた役割・職責・賃金の下で、割り振られた仕事に「のみ」全力を尽くすが、それ以外のこと――例えば昇給・昇進、新しい仕事やより責任の重い仕事への挑戦など――は一切追わず、家庭生活などワークライフバランスを最優先する新しい働き方として、今年に入ってから日本でも急速に注目されている。
 もっとも、このような働き方は、過去、日本においてもまったくなかったわけではない。新自由主義時代に入る前、概ね1980年代くらいまで、大手企業でライバルとの出世競争に敗れ、係長や平社員のまま40歳代後半~50歳代を迎えた正社員が、本人の能力に見合わないような少ない業務量や難易度の低い業務しか与えられずに過ごす例はあった。そうした社員の多くが、日当たりの良い窓際の席を用意され、外の景色を眺めたり、新聞を読んだりコーヒーを飲んだりしながら過ごす様子は、当時「窓際族」と揶揄された。
 日本が新自由主義時代に入った1990年以降になると、このような(経営者側から見て「生産性の低い」)働き方は許されないものとされ、多くの職場から消えていったと見られていた。それが、ここに来て、かつての「窓際族」を焼き直したような「静かな退職」が増えている背景には、いくつかの時代の変化がある。また同時に「窓際族」と「静かな退職の間には若干の違いもある。
 ●人手不足による「労働需給逼迫」の中で
 かつての窓際族を彷彿とさせる「静かな退職」が、かつてのように再び可能となった背景に、深刻な人手不足があることは間違いない。
 本誌読者には労働運動関係者や、リタイヤした元労働者の方が多いと思うが、現役労働者と日々接している労働運動関係者に対しては、この変化については説明不要だろう。リタイヤした方も、一歩町に出てみると、人余り、リストラと毎日のように言われていた10年前とまったく異なる風景が広がっていることは体感できるのではないか。電車の車内広告も「私たちと一緒に働きませんか?」「働きがいのある職場です」などの求人広告ばかり。企業のホームページを見ても、自社商品やサービスの宣伝そっちのけで画面の真ん中に表示されるのは求人広告という企業が多くなっている。
 筆者は、日本の人口構成の変化により、いずれ若年労働者が大きく減る2020年代には人手不足時代が来ることは予想していたし、特に私のライフワークである公共交通の分野は危ないと何度か警告も発してきた。しかし、それでも人手不足が早い時期に顕在化するのは公共交通・運輸の他、土木・建設、医療・介護・福祉をはじめとして、(1)国家資格などの特別な資格・技能が必要、(2)体力が必要で重労働の割に低賃金、(3)労働集約型産業のため人員削減が困難で「頭数」がそのままサービスの質を決定する――などの条件を満たす一部の特定業種に限られると見込んでいた。日本経済のあらゆる産業分野で、広く横断的に人手不足が連鎖する今日の状況までは、正直、読み切れていなかった。
 「1日8時間、週5日勤務」の正社員にはまったく応募がなく、企業が焦燥感を強める一方で、1日数時間、週に1日だけ勤務といった「スキマバイト」「スポットワーク」には応募者が殺到し、採用試験に落とされる例も続出しているようだ。応募経験者に聞いてみると、スキマバイトに登録するためのスマホアプリは無料でダウンロードでき、使用料もかからないという。最近の労働情勢からの推測に過ぎないが、ここまで人手不足が深刻になってくると、労働者を採用できなくて困るのは企業の側なので、スマホアプリ運営事業者は、おそらく求人を出す側の企業から使用料を徴収することでビジネスにしているのだろう。
 このような情勢になってくると、「窓際族」であれなんであれ、現時点で社内にいる人には「残ってもらう」ことが至上命題となる。「現代版窓際族=静かな退職」が急速に市民権を得ている背景に、このような情勢変化がある。
 一方で、かつての「窓際族」と「静かな退職」は完全に同じではなく、両者には違いもある。出世競争に敗れた正社員が「不本意ながらも最後に流れ着く場所」がかつての窓際族だったのに対し「静かな退職」は若年層にもみずから望む人が一定程度いることである。さすがに採用面接で「御社に採用いただけましたら“静かな退職”で頑張ります」と答えるような「大物」の話は聞いたことがないが、このままの状況が続くなら、5年後には本当にそう答える就活学生が出てきてもおかしくないムードはある。
 全員が社長になるつもりでモーレツ社員として頑張っていた「悪しき昭和の精神主義」が過労死、パワハラなど多くの悲劇を生んできたことを考えると、それを今さら称揚する余地はまったく残されていない。一方で、人間を幸福にしない資本主義経済の下であっても、社会に出て労働することで、労働者は人間性が鍛えられ、その後の人生を生き抜く力をつけていたことも事実である。そのような鍛錬の機会をみずから放棄した若い世代が、生き抜く力をどのようにして身につけていくのかと考えると不安も私の頭をよぎる。
 労働力不足は日本のみならず世界共通の現象のようだ。「静かな退職」を旗印に、賃金など「所与の条件に見合う労働しか提供しない」という姿勢を、全世界の労働者が団結して貫くことができるなら、資本主義経済に少なくない打撃を与える可能性が開けるかもしれない。超過利潤を上げ、そこから経営者がまず自分たちに最大限配分し、次に内部留保を蓄え、最後にその残りかすの中から労働者には「死なない程度に配分しておけばいい」という、資本主義経済の下で「最も合理的」とされる企業行動が不可能になるからだ。
 もしそのような方向に向かって世界が動き始めたのであれば、私はこう呼ぶことにしよう。「これは単なる『静かな退職』ではない。『静かな革命』なのだ」と。
 (2025年9月25日 「地域と労働運動」第301号掲載)