「作況指数」廃止の衝撃と、見えてきた農政破壊の30年

 「令和のコメ騒動」はますます拡大して収束の気配も見えない。本稿執筆時点では、随意契約で市場に放出された5kgで2000円台の政府備蓄米を買うため、人々が行列を作っているシーンがテレビ画面に映し出されている。

 それを見て私が思い出したのが、1980年代、ソ連末期のモスクワの光景だ。パンを買うため、市民が朝一番から商店の前に行列を作っている。40年後の今日、それと同じ光景をまさか日本で目撃することになるとは夢にも思っていなかった。

 当時のソ連は、1979年にアフガニスタンに侵攻した影響で、1980年に開催されたモスクワ五輪では西側諸国のボイコット(不参加)を受けた。主食のパンもろくに買えず、商店の前に朝から長い行列を作っている市民そっちのけで軍事侵攻や五輪に大量の予算や資源を浪費したソ連が、その10年後、どんな末路をたどったかは説明するまでもなかろう。コロナ禍で東京五輪開催を強行し、軍事費を2倍に増額させる一方で、コメを買えずに行列を作る市民を放置して恥じない自民党政権の「10年後の末路」が私にははっきり見えている。

 ●作況指数とは何か

 過去70年間も続いてきた夏から秋にかけての恒例行事「コメの作況指数」の公表が今年から取りやめられるという。6月16日、唐突に行われたこの発表は衝撃的ではあるが、長年、農政ウォッチャーを続けてきた私には妙な納得感がある。そもそも作況指数は、何を表しているかつかみにくい微妙な指標だったからだ。

 本誌読者をはじめ、多くの市民はここ数年間ずっと「作況指数は平年並みの100」「やや良の101」等の報道に接してきたはずである。作況指数100と聞くと「対前年比100%」であり、つまり前年と同じ質、同じ量のお米が獲れている、と何となく思ってきた人も多いだろう。「前年度と同じ質・量のコメが獲れているとこの数年来聞いてきたのに、なぜここにきてこんなにコメが足りなくなっているのか」――多くの市民の疑問はこの点に集約されているように思われる。

 だが、「作況指数は10a当たり平年収量に対する10a当たり収量の比率」であり、その計算方法は「都道府県ごとに、過去5か年間に農家等が実際に使用したふるい目幅の分布において、最も多い使用割合の目幅以上に選別された玄米を基に算出した数値である」(「令和5(2023)年産水稲の作柄について」農林水産省)。平年収量とは「過去30年間の平均収量」と農水省は説明する。つまり対前年度の数字ではなく、100といっても必ずしも前年度と同じ質・量のお米が獲れていることを意味しないのである。

 とりわけ曲者なのが玄米ベースでの収量であることだ。玄米から精米後、何割が白米として残るかを農業界では「歩留まり」と呼ぶ。精米の仕方にもよるが、白米まで精米する場合、通常、玄米の7割程度が残るのが一般的とされる(残りの3割は米ぬかとなる)。

 収穫したコメの第1陣が出荷される10~11月頃には精米結果が各地から報告されてくる。2023年産~2024年産に関していえば、農業者や農協、流通業者の間では早い段階から歩留まりの悪さが指摘されていた。理由として関係者が口を揃えるのが近年の夏の異常な暑さによる高温障害である。

 2023年産、2024年産の歩留まりの悪さを、農業関係者は遅くとも秋から年末には認識していた。農業系のジャーナリズムでは、翌年2~3月には白米としての収量が低く、コメ不足に陥りかねないことが指摘されていた。だが多くの一般ジャーナリズムは関心がなく、また発表が何を意味しているかについても深刻に受け止めなかった。この歩留まりの悪さが、玄米ベースで公表される作況指数にまったく反映されていないことはいうまでもない。

 農業界を長く見つめてきたジャーナリストの1人として、私から読者の皆さんにお伝えしておきたいことがある。気候変動がこのまま進めば、いずれ日本でコメが食べられなくなってしまうのではないかと心配する向きがあるが、その心配は無用である。世界に目を転じれば、タイ・ベトナム・ビルマ(ミャンマー)など日本よりはるかに暑い気候の国でコメが獲れ、主食とされているからである。特にビルマに関しては、軍事政権によるクーデターに伴い国際社会から経済制裁を受け、国民の多くが貧困状態に置かれている時期でもコメだけは潤沢に獲れ、国民に飢餓は発生しなかった。

 日本で作付けされブランド化されている品種の多くが、気候変動によって今後の暑さに適応できず、収量を減らしていくという事態はありうる。しかし、その場合は東南アジアで主力とされている暑さに強い品種に移行すればすむ。そのような方向での営農指導ができるのは政府・自治体の他、農協だけである。

 ●破壊された「農林統計」

 今回の作況指数廃止は「農水省が公表する統計と、農業者の現場実感の間に大きな乖離がある」との指摘がきっかけだったという。確かに、歩留まりが悪くて「精米してみたら例年より大幅に少ない量しか白米として残らなかった」という農業現場の肌感覚に対し、玄米ベースでの作況指数が100(平年並み)と公表されるようでは、農業者が農水省の統計に疑問を抱くのも無理からぬことだろう。

 1995年に食糧管理制度(食管制度)が廃止されて以降、農水省の組織・予算は一貫して他省庁を上回る削減が行われてきた。特に、食管制度廃止で「役割を終えた」との声さえある旧食糧(コメ)部門や統計情報部門は集中的な定員削減攻撃にさらされてきた。「農村と都市をむすぶ」誌の神山安雄編集委員によれば、農業統計部門の人員は2011年度の2365人から、2018年度613人にまで減らされたという。わずか7年間で4分の1への縮小は、もはや「破壊」「解体」のレベルだと言っていい。

 かつて統計情報部門は万単位の職員数を擁し、農水省の屋台骨だった。多くの職員が農業現場に足を運び、膝詰めで農業者と対話しその要望を聞いた。しかし、今や613人の職員数でいったい何ができるだろうか。かつて農水省職員みずから足を運んで実施していた調査は、今、民間調査会社に委託され、農水省の統計職員は提出されたデータを分析しているだけに等しい。もちろん農業者と膝詰めで話し、要望を聞き取ることなど不可能だ。

 2022年11月には、「人手不足」を理由に、農水省が5年に1回実施している「農林業センサス」の一部である「農業集落調査」の廃止を打ち出し騒ぎになったこともあった。この調査は、全国に約15万ある集落のうち約14万集落を対象とし、1955年の調査開始以降、農地や用排水路、ため池といった地域資源の保全活動の実態から、各集落で開かれた「寄り合い」の頻度やその議題までをつぶさに調べてきた。

 廃止方針が伝えられると、「農業集落調査は大変重要な生きたデータ。総務省や国土交通省の過疎地域対策や内閣府の防災対策にも活用されている」として研究者が猛反発。農業や農業経済学はもちろん、地理、歴史、工学などにまたがる12学会・1団体が廃止方針を批判する声明を発表した。松沢裕作・慶応義塾大教授(日本社会史)は「調査廃止は農水省が農村を見捨てる姿勢の表れに思える」と指摘する。

 特に安倍政権になってから、農水省に限らず他省庁でも統計部門の整理・縮小が相次いだ。行政は科学やエビデンス・データに基づいて実施される必要があるが、歴代政権による現場軽視、統計・データ軽視が今の事態を招いたことは明らかだ。遅きに失したとはいえ、これを機会に農業統計部門の再拡充を含めた検討に入るべきだ。

 ●コメ担当部局のトップは長官から課長へ「3階級降格」

 2021年7月1日、農水省で大きな組織再編が行われた。輸出・国際局新設や大臣官房に設置される環境バイオマス政策課の他、約20年ぶりに農産局、畜産局が復活したことなどが大きな特徴だろう。これらはどのような意味を持つのだろうか。

 中央省庁の組織は、大きいほうから順に省-庁-官房・局-部-課・室-班-係であり、当然ながら大きな組織ほど予算も人員も大規模となる。私は農業界の片隅に身を置き、この30年近く業界の内外情勢を見つめてきたが、農水省の組織の変遷について語るとき、日本人の主食のはずだったコメの地位の著しい低下は特筆すべきである。

 食糧管理法が廃止され現行の食糧法に移行する1995年まで、日本のコメは強い政府統制下にあった。食糧管理制度の実行部隊として食糧庁が置かれ、全国津々浦々に食糧事務所があった。1980年に廃止されるまで、都道府県食糧事務所の地方支所の管轄下に出張所があった。出張所を含めた食糧事務所の数は郵便局より多いといわれたほどだ。

 食管制度廃止と同時に食糧庁は食糧部となった。局を飛ばして庁から部へ、一気に「2階級降格」は中央省庁の組織としては戦後初といわれ、当時は農業界全体がひっくり返るほどの騒ぎとなった。それが、2021年7月の組織再編ではついに農産局穀物課にまで縮小された。今、農水省はコメ、麦、大豆などの「耕種作物」をまとめて穀物課で担当している。かつての庁(長官)から課(課長)へ「3階級降格」されたコメは、日本の主食としての面影すらない凋落ぶりだ。

 日本人の主食たるコメを扱う部門のトップが課長で果たして本当にいいのか。主食のコメが課なのに畜産がそれより上の局である理由は何か。食管制度時代のような食糧庁に戻すのは不可能だとしても、せめて食糧局としてコメ専門の局長クラスくらいは置くべきだ。輸出・国際局新設の一方、コメ担当の局がなくトップが穀物課長という組織再編の実態が明らかになれば、多くの日本の市民が「日本政府は日本人の主食より海外への食料輸出を優先している」と思ってしまうのも仕方ない(そして、実際その懸念は当たっている)。

 ●農協は本当に「悪」か

 農協(JA)が一部卸売業者と結託してコメを隠し、米価をつり上げているなどと農協をバッシングする動きも出ている。だが、そもそも農協の社会的役割は、農産物生産・流通の支配をもくろむ資本に零細農家が集まって対抗力・交渉力を持つことを目的として、戦後設立された互助組織としての存在にある。民間企業と異なり利潤獲得至上という動機は存在しない。

 確かに、食管制度時代には、コメ流通量全体の9割が政府管理米と農協などが集荷する「自主流通米」によって占められていた。政府・農協による価格統制が可能だったのも、9割以上のコメ流通が統制下に置かれていたからだ。

 食管制度廃止後も、農協がコメ流通量全体の4割を扱っている点は自主流通米時代と変わらないが、重要なのは政府管理米が民間の市場流通に委ねられたことである。市場占有率4割では価格統制など不可能で、農協が価格をつり上げているという批判は的外れだ。

 小規模零細農家が少しずつ出荷してきたコメを集荷し、袋詰め作業の後、中小零細米穀店を1軒ずつ回って少量ずつ卸していくような非効率な流通業務を採算度外視で実施できるのは農協以外にない。そして、農協にだけそれが可能なのは、金融(JA貯金・共済)や福利厚生事業(JA厚生連病院など)を併せ持つコングロマリット(複合企業)であることが大きい。

 地方では、農協が住民生活の生命線になっている地域が多い。例えば、福島県白河市には救急指定病院は2か所しかないが、その1つがJA福島厚生連白河病院である。ここを失えば、白河市民は病気で倒れても救急搬送先もなくなる。グローバル資本のための「構造改革」=農協破壊は、農業者、市民、地域のためのものとはならないことをぜひとも指摘しておきたい。

(2025年6月22日)

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