統一地方選雑感~「世襲・多選」と「女性躍進」 二極化する地域

 統一地方選が終わった。全体としては、私たち市民派にとって自民党以上に「好ましからざる勢力」の日本維新の会が、目標としていた首長・議員600人を上回る774人もの当選者を出したことは懸念材料である。好ましい面としては、与野党、左右、老若問わず女性が躍進したことである。

 投票率が右肩下がりを続ける一方、昨年の安倍元首相殺害事件に続き、またも選挙期間中に岸田首相襲撃事件が起きたことを私は偶然とは思わない。選挙に絶望し、棄権(=選挙というシステムに対する事実上の不支持表明)する人が増えるにつれ、合法・非合法を問わず、選挙以外に解決策を求めようとする人々が増えていることは表裏一体の現象というべきだろう。

 自民党を中心に、「テロリストの心情など理解しようとしてはならない」と、テロリストへの「無理解増進」を訴える声が上がっているが言語道断だ。選挙を無力化し、国民・有権者が選択――とりわけ政権政党の選択――をしたくてもできない状況を目的意識的に追求し、作り出してきた張本人こそ自民党だからである。2012年に自民党が政権復帰して以降、選挙は自民党に対する事実上の信任投票になっており、自民党を信任したくない有権者は「信任投票」それ自体から降りるという選択肢しかない。このような状況の下で、投票率は低下しないほうがおかしい。

 ●「10年後に滅びるマチ」が見えた

 統一地方選全体を通じて、地域・自治体の「二極化」が進んでいることがはっきりと示された。左右、上下、貧富といった昔のようなわかりやすい階層・イデオロギーによる分断でなく、(1)世襲、高齢、多選批判をものともせず、従来からの固い支持基盤に支えられて世襲、高齢、多選政治家ほど楽々当選する自治体、(2)世襲、高齢、多選に対する強い批判で女性、若者が躍進する自治体――の二極化だ。詳しく分析したわけではないが、もともと(1)に属していた地域・自治体では世襲、高齢、多選がさらに進む一方、もともと(2)の傾向があった地域・自治体では、女性、若者の躍進がさらに進む――という形で、「(1)世襲・高齢・多選の町」「(2)女性・若者躍進の町」の二極化が鮮明になったと思う。

 10年くらい前までは、(1)(2)のほぼ中間領域に位置し、どちらにも分類できない地域・自治体が多くあった。しかし、ここ数年で過密・過疎がさらに進んだ結果、中間領域に属していた地域・自治体が次第に(1)(2)のどちらかに収斂している。

 (2)の典型例は、手厚い子育て支援と、その裏腹の相次ぐ「暴言」で有名になった泉房穂・前市長の後継指名を受けた女性が当選した兵庫県明石市や、女性議員が半数を超えた兵庫県宝塚市議会、東京都杉並区議会などである。特に杉並区は、女性を中心に新人が一気に12人も当選。女性区長(岸本聡子さん)に、半数以上が女性の区議会が対峙するという、日本では歴史上あまり例がない事態を迎えることになる。

 逆に、(1)に属する自治体は全国至る所にある。地方議員の「なり手不足」が言われているところはたいていこのパターンに当たる。閉鎖的・排他的な「マチの空気」に嫌気がさした女性・若者が次々に地域から流出し、定着しないため、持続可能性に赤信号が灯っている。平たく言えば「10年後に滅びるマチ」だ。

 今回、読者諸氏にはご自分の住む町や周辺の町、また自分が関心や注目を寄せている町でどんな人たちが当選しているか観察してほしい。もし当選者が(1)のパターンになっているなら、そこは「10年後に滅びるマチ」である。

 難しいのは、(1)(2)のどちらにも共通した傾向がないことだ。地域的な偏りがあるようにも見えない。「議員のなり手がおらず、欠員を防ぐため議会の定数を減らしたが、それでも立候補者が定数を割り、欠員が生じたまま全員が無投票当選」という自治体のすぐ隣に、女性議員が3~4割の自治体があったりする。「このような特徴を備えた自治体が(1)(あるいは(2))になる」というパターン化も現状では難しい。

 ●「自治体の適正規模」も見えた

 今回の統一地方選では、自治体の適正規模も見えてきた。(2)の典型例、つまり「女性・若者が躍進している町」の人口規模を見ると、明石市29万人、宝塚市22万人、杉並区56万人など、おおむね20~50万人規模の自治体に集中している。女性や若者の意見が取り入れられ、多様性も尊重された結果、民主主義が適切に機能する人口規模が見えてきた。

 これより人口が多いと(100万人以上)、住民ひとりひとりの顔が見えなくなり、きめ細かな住民サービスを行うことが難しくなる。一方で、これより人口が少ないと(20万人未満)、密室で町を取り仕切る「地域ボス」が生まれ、やはり民主主義は機能しなくなる。

 「地域ボス」に密室で町を仕切られないよう、多数による監視が働く程度に大きく、ひとりひとりの顔が見え、きめ細かな住民サービスが行き届く程度に小さい――これが民主主義が機能する条件であることが浮き彫りになった。市町村のうち「市」には政令指定都市(認定基準人口100万人)、中核市(同50万人)、特例市(同20万人)があるが、中核市・特例市クラスが民主主義の機能する自治体として最も適正な規模といえそうだ。

 ●組織政党の明らかな退潮

 一方で、今回の選挙では、自民・公明・共産のような、大勝もしない代わりに大敗もしない「安定の組織政党」が揃って退潮傾向を見せたことも大きな特徴だ。自民党・公明党は統一協会問題や物価高批判、共産党は党員除名問題が響いていると私は思っていた。だが、一般的には、投票率が下がっている今回のような選挙の場合、固定票を持っている組織型政党が有利のはずだ。こうした有利な条件があるにもかかわらず、組織型政党が揃って退潮していることの説明として、こうした理由だけでは十分ではないように思う。

 前回、2019年の統一地方選から今回のそれまでの4年間がほぼ丸々、コロナ禍だったという点を考慮すると、組織型政党が、通常は有利なはずの低投票率下の選挙で揃って退潮傾向を示した原因が見えてくる。これら組織型政党には、対面型の選挙運動を全面展開したときに最大のパワーを発揮するという特徴がある。どぶ板をこまめに踏み、手が筋肉痛になるまで有権者と握手し倒して1票1票、獲得していくのがこれら組織型政党の選挙運動だからである。コロナ禍で対面での運動が十分できなかったことが、組織型政党に不利に働いたという面を、こと今回の選挙に関しては見逃すことができない。

 今回がコロナ禍による「特殊事例」だったかどうかは、4年後の次の選挙で明らかになると思う。対面型選挙運動が通常通りにできるようになり、これら組織型政党が盛り返すのか、それとも退潮傾向が続くかによって、この先20~30年の大まかな流れが決まるのではないだろうか。

 ●世襲大好き日本人 政治家にだけ「世襲するな」は無理なのでは?

 今回の統一地方選と重ね合わせながら日本史を考察していると、興味深いことに気づいた。

 (1)平安時代までの日本は「貴族制」で、当然、世襲制。典型的貴族であった藤原氏は平安時代に繁栄を謳歌する。戦前、首相になった近衛文麿は藤原氏の系譜である。

 (2)鎌倉時代以降、歴史は「武家制」に移行する。戦国大名の中には、織田信長のように実力主義で家臣を登用した人もいたが、その多くは親から子へ、子から孫へ、世襲で家督を相続した。武家制は、徳川幕府が終わるまで続く。

 (3)明治時代になると、「大政奉還」で主権が武家から天皇家に返還される。天皇家は当然、世襲であり、この体制が1945年、日本の敗戦まで続く。

 (4)戦後になると、新憲法の下で国民主権に移行するが、現在に至るまで戦後のほとんどの期間、1党支配を続けている自民党は大半の議員が世襲である。

 こうしてみると、日本は「貴族制」時代も世襲、「武家制」時代も世襲、「天皇制」時代も世襲、「自民党」時代も世襲ということになる。世襲は日本人の底流を流れる通奏低音なのではないか。

 我が息子や娘が「ミュージシャンになりたい」とか「Youtuberになりたい」などと言ったら、なぜ「そんな仕事」を選ぶんだ、と烈火のごとく怒り出す人たちでも「家業を継ぐ」と言う若者に「何で家業を継ぐんだ!」などと怒り出す人はまずいない。たとえその家業がどんなに衰退確実な業態・業種であっても。「○○時代から○年も続く老舗・○○堂を今年、引き継いだ何代目」と言えば、マスコミはそれだけで美談扱いし取材が殺到する。優秀な社員を辞めさせないため、あの手この手で慰留する企業も、退職理由が「家業を継ぐため」だったら「仕方ない」でお咎めなしだ。

 日本人のこうした国民性が、政治家の世襲を助長しているのではないか。「政治家は世襲ばかり」だと嘆く前に、まず我々自身が「カエルの子はカエル」で当たり前だと思っていないだろうか。

 ●若者が「親ガチャ」というこの国で

 小銭をいくらか入れ、ダイヤルをガチャリと回すと、カプセル入りの小さなオモチャが出てくるという機械がゲームセンターにある。「ガチャ」「ガチャガチャ」など、地域によって呼び名は様々のようだが、私が子ども時代を過ごした地域ではガチャガチャと呼ばれていた。実際に出てくるまで中身が何かわからないという不確実性、自分自身ではコントロール不可能な射幸性が昔も今も変わらぬ人気の秘訣だ。読者諸氏も子ども時代、夢中になった記憶があるだろう。

 10年前くらいから使われ始め、今では若い世代の間で注釈なしで通じるほど一般的となった若者用語に「親ガチャ」がある。親を選んで生まれてくることはできない子どもの立場を、何が出てくるかを自分自身では一切選べないガチャになぞらえたものだ。

 子どもが親を選んで生まれてくることができないことは昔も今も変わらない。だが、少なくとも私の子ども時代にはそんなことをいう同級生はいなかったと記憶する。世は受験戦争といわれた大競争時代だったが、一方ではテストでライバルより1点でも多く取れば、境遇を逆転できるという公平性もあった。家が貧しくても「日比谷から東大へ」「灘高から東大へ」は庶民における立身出世の「物語」を提供していた。このルートで立身出世を果たした政官財界の要人は多いはずである。

 バブル崩壊後の失われた10年が、やがて20年、30年と長期化し、このままでは失われた40年になるのではないかという予測も出始めている。こうした停滞、衰退の長期化の背景にある要因として世襲の広がりを挙げておくことは間違いではなかろう。総理大臣からヤクザまで、ありとあらゆる業界に世襲がはびこる日本社会の固定化が新たな身分制社会、階級社会を生み出しつつある。好きな人がたまたま同性であっただけで結婚する自由もなく、異性と結婚した場合ですら、好きな姓を選択する自由も認めてもらえず、しかもそれが、選挙によっても変えることができず裁判所にも認めてもらえない。それなら、こんな腐った世の中、どんな手を使ってでもひっくり返してやりたい――こうした若い世代の絶望に、政治はもっと敏感になったほうがいい。

 ●せめぎ合う希望と絶望

 前述した兵庫県明石市など、手厚い子育て世代優遇政策を採る自治体には移住者が殺到している。日本全体の人口が減少基調を強める中で、これら自治体が継続して人口を増やしていることですでに答えは出ている。「世襲・高齢・多選の町」が10年後の滅亡を免れたいと願うなら、「地域ボス」を全役職から解任して直ちに蟄居を命じ、議員全員を女性・若者にするくらいのつもりで取り組まないと難しいだろう。そうした絶望的状況が明るみになった統一地方選といえるだろう。

 大手メディアは大阪維新の躍進だけを強調しているが、今回の統一地方選の最大の勝者は女性だったように思える。そうした展望・希望も同時にかいま見えた選挙だったことを改めて強調しておきたい。

 (2023年5月25日 「地域と労働運動」第273号掲載)

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