日本の鉄道が150年の節目を迎えるに当たり、私が注目していたものがある。メデイアがこの節目をどう伝えるかである。もともとたいした期待はかけずメディア報道を見守っていたが、結果は悪い意味で私の予想通りだった。鉄道150年という節目は、こうした問題を掘り下げるにはちょうどいい機会であるにもかかわらず、ローカル線の危機に関する言及は、少なくとも全国放送のテレビに関する限り、皆無だったと思う。
NHKは、全国鉄道の旅シリーズをBSで連続放送したが、これは単なる鉄道カメラマンが撮影した地域ごとの車窓風景を追うだけで新味がなく、これなら民放BSで放送されている「いい旅・夢気分」などの番組のほうが、旅に出たいと思わせる演出がされているだけマシだと思う。
NHKで多少なりとも面白いと思えたのは、10月15日に放送された「鉄道博物館 お宝フィルムが語る知られざるニッポン」で、鉄道博物館に眠っている過去の鉄道記録映画から名シーンをピックアップするというものだが、ここで取り上げられた映像のほとんどはインターネット上にアップされており、私はそのほとんどを見ている。鉄道が果たしてきた歴史的役割の大きさを、鉄道に詳しくない一般の人たちに認識させる効果はある程度あったと思われるが、ここから危機にある鉄道をどのような未来につなげるかという意味の言及は、スタジオのコメンテーターからもほとんど行われなかった。
民放各局は、レギュラーの鉄道番組を通常通り淡々と流すのみで、150年という節目の特番もなく、この話題をあえて避けていることは明らかだった。どう言及したらいいか誰もわからず、結局は通常番組を流す以外にないとの無難な営業判断だろう。
『国労本部は1987年3月31日に当時の国労会館の講堂で集会を開き、その前にも日比谷野音で大集会をやりましたが、それらは一行も報道されませんでした。ジャーナリズムであれば、あした国鉄が分割・民営化される一方で、反対集会が開かれたことを報道すべきだったと思います。とにかく、反対意見は一切報道しないというマスコミの姿勢だったのです。このとき、これからの新聞、マスコミは国策に対して全然抵抗できないことを、僕は肝に銘じました』。
国鉄「改革」から20年目に当たる2007年、「国鉄改革20年の検証 利権獲得と安全・地域破壊の20年――公共鉄道の再生に向けて――」と銘打って行われた座談会で、ルポライター鎌田慧さんがこのように発言している。座談会の記録集では、この鎌田さんの発言部分に「歴史の変わり目に機能しなくなるマスコミ」との小見出しがつけられている。私の目には、メディアはこの頃からすでにずっと機能していないように映るが、考えてみれば、歴史はある瞬間を境に突然変わるように見えたとしても、実際には、毎日少しずつ変化しているのだ。メディアが歴史の変わり目に機能しないということは、すなわち日々機能していないというのと同じことで、そこに期待をかけること自体がやはり間違っているのだというべきであろう。時代はこの座談会からさらに20年流れたが、ここで打ち出された公共交通の再生などまるで実現できていない。
インターネットメディアでは、ローカル線問題の現状を追ったもの、ローカル線の維持に向けて論陣を張る心強いライターの記事もある一方、地域の実情も過去の経緯も無視して、一方的にローカル線の整理を求めるものもあった。だが、赤字線整理を求める陣営は、日頃鉄道になど言及したことがなく、興味・関心があるとも思えないライターばかりで、私の目から見れば「二線級以下」の人材ばかりだ。その中でも最悪のローカル線廃止論者である小倉健一・イトモス研究所所長に至っては、自分のツイッターでしきりに統一協会擁護発言を繰り返している「トンデモ言論人」であり、恥を知れと言いたい。
唯一の救いは、そうした論者たちが執拗にローカル線廃止を煽っても、世論の賛同をそれほど得られていないことである。これがインターネット上だけの特殊事例でないことは、NHKが今年5月に行ったローカル線に関する世論調査からも明らかだ。「国や自治体が財政支援をして維持すべき」「廃線にして、バスなどに切り替えるべき」がともに44%ずつと真っ二つに割れた。半分がバス転換容認であることに危機感を覚える一方、7~8割が廃線を容認すると思っていた私にとって、半分が維持を求めたことは嬉しい誤算だった。「鉄道が廃止されたら町が寂れる。高校生が町から出て行き、お年寄りは病院に通えなくなる」という地元住民の数値化できない「肌感覚」も、「自称専門家」が繰り出す輸送密度などのもっともらしい数字と同じ程度には世論に支持されているとわかったことは、今後に向けた希望といえる。普段は空気のように見えなくさせられている医療などの公共サービスが、新型コロナ感染拡大という最も肝心な局面で利用できなかった「失敗」を通じ、新自由主義に対する「反省」が広がっているのだとしたら結構なことである。
政財官界からも、鉄道150年に当たって何かのメッセージが発せられたという話はついに聞かなかった。鉄道を縮小させ、社会の片隅に追いやってきた彼らが発するメッセージを持たなかったことに驚きはない。結局、支配層、エスタブリッシュメントと呼ばれる人たちの中から発せられた、鉄道150年に関するメッセージで傾聴する価値があるのは次のものくらいだろう。
『鉄道は、人々の交流や物流を支える大切な輸送手段の一つで、輸送量当たりの二酸化炭素排出量の少ない、環境への負荷が小さい交通機関としても注目されています。鉄道の安全性や利便性を向上させ、将来の世代につなげていくことは、重要なことと考えます。鉄道に関係する皆さんのたゆみない努力が実を結び、わが国の鉄道が難しい状況を乗り越え、引き続き人々に親しまれながら、暮らしと経済を支えていくことを期待します』。
これは、鉄道開業150年記念式典での天皇の「おことば」である。本欄で紹介する価値を持つ鉄道150年メッセージが天皇の「おことば」しかない現状は悲しむべきことである。天皇制に対しては本誌読者にもいろいろな立場があると思うが、この言葉はきわめて抽象的ながらよく練られており、鉄道が置かれている現状を的確に表している。さしあたり、私たちが取り組まなければならないのは「人々に親しまれる」鉄道を取り戻すこと、「安全性や利便性を向上させ、将来の世代につなげていくこと」であろう。
同時に私は、鉄道150年だからこそ市民にもあえて苦言を呈したい。ローカル線もまた公共交通だという認識を持てず、日頃は乗りもしないまま、イベント時だけの「乗れる鉄道模型」程度にしか思っていない日本の市民が大半であるように私にはみえる。NHKに「廃線にして、バスなどに切り替えるべき」と答えた半数の市民には今こそ意識変革を求めたい。
(2022年12月20日)