新型コロナは「禍」か? 二度目の緊急事態宣言の中、見えてきたかすかな希望

 新型コロナウィルスの感染拡大に伴って、昨年夏頃から使われるようになった新型コロナ「禍」という単語を筆者はあまり好きではない。文脈上どうしても使わなければならない場合に限定し、基本的にこの単語は使わないようにしている。なぜならこの言葉からは新型コロナウィルスを忌まわしく避けるべきものだとするような否定的ニュアンスや、克服し、または制圧すべきものだとするような傲慢なニュアンスしか感じられないからだ。

 確かに、新型コロナウィルスの感染拡大は衰えをまったく見せず、本誌が読者諸氏に届く頃には全世界の感染者数は1億人に達しているかもしれない。国内に目を転じても、多くの若い世代にとってはよくある日常的体調不良と同程度で切迫感がない一方で、少なくない中高年世代や重い既往症のある人たちにとっては直ちに生命の危険を生じさせる本当の危機であることは間違いなく、「禍」との思いを持っている人が大多数に違いない。とりわけ日本でも世界でも、現在の社会体制から多くの利益を受けているいわゆる支配的勢力がこの危機から一刻も早く脱したがっていることは事実だろう。

 昨年5月にいったん緊急事態宣言が解除された後、筆者は少なくとも本誌では一切、新型コロナ問題には触れてこなかった。昨年8月に寿都町、神恵内村で核のごみ最終処分場への応募問題が急浮上し、筆者にとっては新型コロナより核のごみ問題のほうが優先課題だったことも大きい。新型コロナウィルス感染拡大が深刻化し、安倍政権による最初の緊急事態宣言が発せられた頃には、社会が変化することに対する希望、期待も少なからずあった。だが宣言解除後の社会状況を見ると、起きたのは経済格差の拡大や、社会的弱者への徹底的なしわ寄せなど悪い方向への変化ばかりで、新型コロナウィルス感染拡大が社会にいい方向での変化をもたらすという希望が完全に失われた。このことも筆者にとってこの問題を取り上げる意欲を失わせる出来事だった。

 だが、秋以降、11都府県に再び緊急事態宣言を出さざるを得なくなるような情勢下、各地で、あるいは各分野で起きつつある変化を注意深く観察していると、そこには機能しない政治への徹底的な失望とともに、新しい社会に向けた小さな変化の芽も出つつあるように見える。

 ●政治家と子どもたちの対照的な風景

 一般市民に対しては5人以上による会食の自粛を呼びかけておきながら、自分は高齢者ばかり8人での会食をはじめとして、毎夜会食を繰り返す菅首相への批判は修復不可能な打撃となりつつある。首相は「政治家は人と会うのが仕事」「対面で会食しなければ得られない情報もある」などと大人数への会食を正当化しようとしているが、政治家だけがそこまでして対面会食しなければ得られない情報とは一体どんなものなのか。しかも、会食を繰り返しているのは政治家全体というよりは、ほとんど自民党ばかりであり、野党議員は支持者や利害関係者との意見交換も多くはオンラインを使い、リモートで行うようになってきている。

 沖縄県議会でも、大人数で会食していた自民党県議団からクラスターが発生し、県議会が一時休会になる騒動があったが、そもそも沖縄県政では野党である自民党にとって、玉城デニー県知事と利害関係者の間を取り持つ緊急的必要性があるとも考えられないのに、なぜそこまで対面会食にこだわるのか、この間、筆者はまったく理解できないでいた。

 いろいろな可能性について、当てはまらないものをひとつひとつ消去していくと、最後まで消えずに残るものがある。確たる証拠はないが、会食の場で何らかの「利益提供」すなわち金品の受け渡しを行う必要があるからではないだろうか。金品の受け渡しはオンラインでもできなくはないものの、電子送金を使えば事実が国税当局などに捕捉されるおそれもあるから、そのような後ろ暗い金品の受け渡しこそ対面によるのが最も望ましいからだ。一方、職務権限を持たない野党議員には、そもそも見返りを期待して金品を受け渡すような連中は近づいてこないし、意見交換だけならオンラインでもまったく問題がない。自民党だけが夜の会食をやめられない背景を、筆者はこう分析している。うがった見方のようにも思えるが、筆者だけではなく元民主党国会議員の井戸まさえさん(注1)や、経済評論家の加谷珪一さん(注2)も同様の見解を示している。

 一方、未来を担う子どもたちの世界ではどうか。福岡県を中心に、九州内で多くの読者を持つブロック紙「西日本新聞」が興味深い記事を掲載している。昨年末、県内の私立大附属小学校に通うある女子児童のコメントが反響を呼んだ。安倍政権による一斉休校を経験後「友達とのおしゃべりが好きだから学校には行きたい」との思いが強まる一方、新型コロナウィルス感染拡大によって見える校内風景は明らかに変わったという。「今までは、そこまで必要だろうかと思えるような大きな声で発表するよう先生から求められることが多かった。だけど、クラスには声の小さい子もいて、それだけで手を挙げる気力を失っているように思っていた。でも大声で話すのがダメになり、みんながマスクをしている今は大きな声は要求されず、静かに挙手をすればいい。発表も、クラス内の全員が聞こえるような声を出さなくても、先生がホワイトボードに発言内容を記し、全員に見せてくれる。声の小さい子が積極的に発表できるようになってきた」。その上で、この女子児童は「いいと思えることも少しはあった」とこの間の経緯を振り返る(注3)

 ●「カネと大声で物事を押し通すオヤジの時代」の終焉?

 新型コロナウィルス感染拡大という局面でも会食をやめない菅首相をはじめとする自民党へのすさまじいネット上での批判の一方で「声の小さい子が積極的に発表できるようになってきた」という女子小学生の声を聞いて、コロナでもこの先、いい方向への変化は生まれないだろうと思っていた筆者の中にかすかな希望が生まれた。人目をはばかるように毎夜、料亭で密会しては後ろ暗い金品を受け渡し、公式の場では「女、子どもに政治の話がわかるか」とばかりに大声で物事を通すオヤジたちによって次々と重要な決定が行われていく「料亭政治と体育会系の時代」に終焉の兆しが見えてきたからだ。支配勢力もこうした情勢変化を言語化できなくても肌感覚的に捉えており、だからこそ、この事態を早期に収束させなければ「小さき声の人々による革命」につながりかねないと焦っているのである。

 もし、これが新型コロナウィルス感染拡大の生んだ明らかな「成果」ならば、恐怖に怯えている高齢者や既往症のある方には申し訳ないが、「withコロナ」時代はもう少し続いたほうがいいように思われる。諸勢力のさまざまな利害関係が複雑かつ重層的に入り組んだ現在のような社会が変化するにはある程度の時間を必要とするからだ。

 政治家に金品を受け渡せるようなチャンネルもなく、他の諸勢力を圧倒できるような大声も出せないために、これまで政治の場から排除される以前に存在として認識もされてこなかった人々にとっては千載一遇のチャンスがめぐってきている。受け渡される金品の額や声の大きさではなく、主張の内容に正当性があるかどうかで会議の結論が導き出されるようなまっとうな社会に日本が移行できる最初で最後のチャンスのように思われる。筆者はそこにかすかな希望の芽を見る。だからこそコロナ「禍」という単語をできるだけ使いたくないとの筆者の思いはこの間、ますます強まっている。

注1)深刻な緊急事態でも政治家が会食をやめられない「残念なワケ」(元民主党衆院議員井戸まさえさん/2021.1.11付け「現代ビジネス」 )

注2)「会食ルール化」も結局見送り。日本の政治家が食事なしで会合できない理由(経済評論家加谷珪一さん/2021.1.16付け「ミモレ」)

注3)「勇気ある投稿」「涙止まらない」コロナ禍の小6訴え、SNSで反響(2020.12.20付け「西日本新聞」)。

 (2021年1月25日 「地域と労働運動」第245号掲載)

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