続・ポスト・コロナの新世界を展望する
変わり始めた世界、変われない日本、そして希望

 新型コロナウィルスの世界的大流行が始まって、3か月以上が経過した。この間のめまぐるしい世界の動きを追い切れなくなり、疲れ果てて「情報収集戦線」から離脱気味の読者諸氏も多いと思うが、それは当然のことである。人間は無限に情報処理能力を上げられるコンピューターではないからだ。こんなときに有効なのは、あえて情報を遮断し、様々な人や組織の検証もされていない言説や細部の動きからは距離を置くこと、地球儀を少し離れた場所から眺めるくらいの俯瞰的な視点で世界を展望しながら、思索にふけることである。

 「家を出て、人に会って、仕事をするという普通の生活の形が壊れてしまった」――筆者の地元紙・北海道新聞(2020年4月21日付)に作家・池澤夏樹さんが寄せた論考である。池澤さんは続ける――「子供の頃、悪いことをすると押し入れに閉じ込められた。今、監禁が刑罰として効果があることを世界中の人々が実感している」。

 日本には禁固刑が今でも存在しているし、世界にも類似の刑罰がある。犯した罪に対する償いとして、一定期間、行動の自由を差し出す禁固や懲役などの刑罰は、法律学の世界では自由刑と呼ばれる。原発事故を起こした日本やCO2の大量排出を長期間にわたって続け、反省のそぶりも見えない世界の100億人類に対し、地球が監禁の刑罰を与えた。今回のコロナウィルス禍をそのように読み解くことも、科学の世界ではともかく哲学や宗教の世界では十分可能だろう。

 ●世界は「禁固刑」に疲れ、自由を渇望

 人間同士を会わせないようにするために、ロックダウン(罰則を伴う強制的な都市封鎖)を続けてきた欧米各国、強制力の伴わない「自粛」要請を続けてきた日本、いずれにおいても人々は長引く「禁固刑」に疲れてきている。「刑」を解き、自由にするよう求める人々の意思は、5月に入って以降、以前のような日常に向かって世界を急速に逆流させ始めたかに見える。この疫病が、感染者の致死率50%という数字とともに世界を震撼させたエボラ出血熱と異なり、震撼するほどのものではないという認識が広がってきたことも「自由への渇望」の背景として見逃すことができない。

 一方、世界的変化への希望が後退するにつれ、本誌前号の記事の冒頭で述べた筆者の「異様な高揚感」は急速にしぼみつつある。「思ったほど世界というのは変わらないものなのだ」「もしこれほどの危機でも世界が変われないとすれば、世界を変えるためにはどれだけ巨大なエネルギーを必要とするのだろう」という思いが急速に強くなっているのである。

 すでに世界で100万人単位の死者数を出しているこの疫病を決して軽視できないことはもちろんだが、実際、前述したエボラ出血熱など破局的な死亡率の疫病に比べると、新型コロナウィルスの感染者に占める死亡率はそれほど高いわけではない。WHO(世界保健機関)が公表している国・地域別の感染者数・死者数データを基に、筆者が感染者数に占める死者数の割合を算出した結果、表の通りとなった。

世界各国の感染者数・死者数(WHO、2020.5.21現在) (WHO公表資料を基に、筆者作成)

地域 感染者数(1) 死者数(2) 比率((2)/(1))
東アジア 中国 84,507 4,645 5.50%
韓国 11,122 264 2.37%
日本 16,424 777 4.73%
米大陸 米国 1,501,876 90,203 6.01%
ブラジル 271,628 17,971 6.62%
欧州 英国 248,297 35,704 14.38%
フランス 141,312 28,081 19.87%
イタリア 227,364 32,330 14.22%
ロシア 317,554 3,099 0.98%
中東 イラン 126,949 7,183 5.66%
サウジアラビア 62,545 339 0.54%
アフリカ 南アフリカ 18,003 339 1.88%

 ●感染者数、死亡率データから見える「社会のかたち」

 この表から見えてくるのは、欧州諸国だけが15~20%近い死亡率で突出しており、それ以外の国においてはおおむね4~6%の範囲に集中しているということである。国民の20人に1人、学校の1クラスで1~2人が死亡する程度の率ということになる。欧州以外の各国政府にとってはいわゆる社会的マイノリティ(少数派)対策に注入する程度の予算と政治的エネルギーで十分対処できる事態であり、それだけにこれら各国市民は「対策に割く政治的、社会的、経済的リソースがない」という言い訳を自国政府に許してはならないというべきである。

 この結果を額面通りに受け取ることはもちろんできない。衛生状態、人口密度、貧富の格差をはじめとする経済情勢などさまざまな要素を加味しなければならないし、そもそも非民主主義国、情報公開が十分でない国も含まれている。一部の国に関しては、WHOに提出している資料・データが正確かどうか再検討の余地もあろう。

 欧州諸国に関しては、民主主義とともに、検査や治療などの医療体制、医療保険制度などの国民福祉体制にも長い歴史がある。手厚い検査や治療、正確な情報公開が行われているがゆえの高死亡率だとすれば、悪いことだとする評価はむしろ誤りとして排除しなければならない。一方、欧州諸国以外と同じ「低死亡率」グループに属している米国には国民皆保険制度がない。貧困層のほとんどが医療費を払えず、通院もできない現状で多くの貧困層が「コロナによる死亡」とされないまま統計がまとめられている可能性を否定できないと考えられる。ロシアやサウジアラビアに至っては、地域による偏りをなくすためデータを掲載したものの、両国の医療水準やプーチン独裁、絶対王政という政治的非成熟性を考えると、1%に満たない死亡率というデータ自体の信頼性を疑わざるを得ない。

 日本に関しても事情は同じといえる。「37.5度以上の発熱が4日以上継続」という検査の要件を満たすのにPCR検査がほとんど行われず、「接触者・帰国者センター」へのアクセスもできない状況では最も基本的なデータである正確な感染者数すらつかみようがない。実際、新型コロナに感染しながら、検査もされないまま軽症で自然治癒していった人も多いとみられる。政府の打ち出す対策が「アベノマスク」のようにことごとくピント外れなものばかりの状況の中で、この程度の死亡率に抑えられているとすれば、一般市民の高い防疫意識に基づいた自主的で積極的な感染拡大対策(手洗いの励行など)の賜物だろう。

 東日本大震災のときにも見られた現象だが、日本人の「ガバナビリティ」(被統治能力と訳されることが多いが、筆者はあえて「奴隷化能力」という新たな訳語を提起したい)はこのような危機的状況のときに極大化される。政府が頼んでもいないのに、元から地域社会を支配していた相互監視体制と同調圧力が自然強化され、大多数の国民が向かうべきと規定した路線から逸脱した者は徹底的に叩かれる。「元のレールに戻る」よう警告を受け、従わなければ抹殺される。市民社会の論理というより、どちらかといえば「ムラ社会」の論理に近い日本社会のありようが、死亡率を最小限にとどめたというのが筆者の現在の推論である。だが一方で、このありようこそが日本社会を息苦しくさせ、技術革新を停滞させ、社会そのものの変化の芽も摘んでいる元凶にほかならないのである。

 ●リモートワークとエッセンシャル・ワーカー、対照的な風景の中で

 とはいえ、急激に人類を襲ったコロナ禍は、日本社会の本当の危機をまたも浮かび上がらせた。9年前の東日本大震災でも日本社会の危機が浮かび上がったが、見えた風景はまったく異なる。9年前は、巨大地震、津波、相次ぐ原発の爆発により、破局的事態が一気に訪れたものの、そうした事態は東日本という一部地域に限定され、北海道や西日本はほぼ無傷で残った。それに対し、今回は破局的事態ではあるものの、そのピークがいつになるかの予測が難しく、また全世界が一気に危機的状況を迎え、地球上のどこにも逃げる場所がないという意味で、9年前とはまったく様相が異なるのである。

 9年前も、日本での原発事故を見て、脱原発に舵を切る国がいくつか現れた。立法院(国会)で電気事業法を改正し脱原発を方針化した台湾、2022年までの原発からの撤退を決めたドイツ。韓国も文在寅政権発足以降、脱原発の方針を決めている。察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。韓国、台湾、ドイツ――福島原発事故を受けて直ちに脱原発の方針を決めたこれらの国々こそ、今まさに新型コロナ対策でも最も成功しているグループなのである。

 一方で、9年前と今回の危機には共通点もある。人口が密集する大都市のあり方、エッセンシャル・ワーカー(9年前にはこの言葉は今以上に知られていなかった)の重要性などが再び浮上した点である。このうち前者に関しては、9年前を上回る規模で世界に変革を迫る原動力になりつつある。準備もないまま、人間同士の接触を減らすため、なかば強制的に移行を余儀なくされたテレワークなどのリモートワーク(オンラインでつながりながら離れた場所で仕事をする働き方)が、試行錯誤を経ながらも、事務職など一部職種の人々にとって、すし詰めの通勤電車や無駄な会議の連続といった非効率を排除できるとわかった点は大きい。これらは今後、「禁固刑」が解かれ社会が日常を取り戻したあとも続けるべき改革であろう。全員が事務所に集まって仕事をする形態でなくなると、研修や業務評価といった点をどうするか懸念されているが、全面リモートワークではなく希望者限定、あるいは業務の一部のみリモートワークに移すなどの中間的形態であれば弊害も少ない。ただその場合、単に大都市の通勤電車の混雑率が若干下がる程度にとどまり、リモートワークによる改革が目指した効果のほとんどは失われることになる。大半の労働者が月のほとんどを結局、事務所に出勤しなければならないのであれば、最大の改革になるはずだった企業の地方移転に向けたインセンティブは働かず、東京一極集中が今後も続くことになるからである。感染の危険が下がれば「全員事務所に出勤せよ」となり、リモートワークはまたも壮大な実験のままで終わる危険性がある。日本はこの道を進みそうな悪い予感がしている。

 対照的に、対人サービス業、接客業を中心に、リモートワークなどそもそもしたくてもできない業種も多い。医療、福祉、公共交通、運送・物流、生活必需品を扱う販売店の従業員などである。どんなに感染が怖くても、生活必需品・必需サービスを取り扱っているために閉店も休業もできず、接客も続けざるを得ない人々である。今回、エッセンシャル・ワーカー(直訳すれば「必要不可欠な労働者」)という英語から直輸入された単語とともに、これらの業種の人々に少しだけ光が当たるとともに、彼らに対する差別も行われるなど功罪両面が明るみになった。従来、これらの業種の労働者は、社会的に必要不可欠な仕事をしているにもかかわらず、日本でも世界でも低賃金・長時間重労働に苦しめられてきた。やや極端な表現をすれば、使命感だけが彼ら彼女らを支えており、それをいいことに政府も自治体も消費者も、全員が彼ら彼女らに甘え、「使命感搾取」という状態に置き続けてきたのである。これらエッセンシャル・ワーカーに対して必要なのは、その仕事の重要性に見合う待遇を保障することであり、気休めに過ぎない「頑張れ」横断幕やライトアップなどでは決してない。そのような小手先のごまかし自体が、彼ら彼女らの新たな怒りを引き起こしつつあることに、私たちの社会はもっと敏感でなければならない。

 ●大打撃を受けたサービス業、飲食店はどうなるか

 ロックアウトや外出自粛によって最も打撃を受けたのは、人の移動自体を商売にしている観光、ホテル、交通、飲食店といったサービス業である。このうち観光、ホテル、交通に関しては外出自粛が解かれない限りいかんともしがたいが、若干様相が異なるのが飲食業界である。

 仮にこの新型コロナの感染拡大がなかったとしても、飲食業界は曲がり角にあり、早晩、大幅な改革は避けられない運命にあった。「すき家」などのチェーン店で5年ほど前から顕在化した極端な人手不足、相次ぐ24時間営業の打ち切りなどに見られるように、高度成長期からデフレ時代に築いた経営手法が行き詰まり、壁につき当たっていた。牛丼一杯が300円~500円あれば食べられる吉野家は日本の安売りの象徴といわれ、長く続いたデフレと人余り時代の寵児としてもてはやされた時期もあった。賢明な本誌読者のみなさんには説明不要かもしれないが、労働者を店舗に24時間拘束し続け、賃金も光熱費も24時間、365日分ずっと支払い続けながら顧客に提供される牛丼と、1日8時間だけ労働者を拘束して、その分だけの賃金を支払い、光熱費も8時間分だけ支払いをすればすんでしまう工場で製造され、スーパーやコンビニに並べられる弁当が、ほとんど同じ価格であること自体がそもそもおかしいのである。

 日本の飲食店の異常な安さを指摘する海外からの訪日客の声を幾度となく筆者は耳にした。海外では麺類などの軽食であっても、食べ物を注文すれば2000~3000円程度かかることがほとんどだが、人件費などのコストを考慮すれば海外のほうが適正価格であることは言うまでもない。ただでさえ低賃金、長時間重労働という労働者の犠牲の上に薄氷の上で踊っていた日本の飲食業界は、コロナという未曾有の危機の前に脆くも瓦解した。たとえ今後、外出自粛が解かれ、飲食店に客足が戻り始めるとしても、こうしたばかげた業界構造まで「すべて元通り」でいいわけがない。日本の飲食業界は、コストの適正な価格への転嫁をはじめ、これまでの悪慣行を見直し、ゼロベースであり方そのものを見直すくらいのことをしないと、コロナ後もおそらく生き残れないであろう。

 ●「先見の明」あった先月号予測~あらゆるメディアが「新自由主義の死」を予測

 最後に、新型コロナ禍をきっかけに大きく変わった重要な点がある。多くの有識者・メディア・政治家など、社会の支配層を占める人々によって「新自由主義の死」が公然と語られ始めたことである。

 みずからも新型コロナに感染し、長期の入院を経て生還したボリス・ジョンソン英首相は、NHS(国民皆保険制度)の下で献身的な治療を尽くしてくれた病院スタッフの個人名をひとりひとり挙げた上で、謝意を表明。「確かに社会というものはあるのです」と述べた。かつて新自由主義の時代の幕開けを告げたマーガレット・サッチャー英首相(当時)は「社会など存在しない。あるのは自立した個人だけ」だと言い放ち、自己責任と自助努力による「英国病」克服を訴えたが、同じ保守党出身のジョンソン首相がやんわりとそれを否定してみせたのである。もしかすると後の時代、英国における新自由主義への「死亡宣告」として振り返られることになるかもしれない重要な転換点だろう。

 水道民営化にかねてから反対してきた岸本聡子さん(在オランダNGO「トランスナショナル研究所」研究員)は、ヨーロッパの実例を基にこう警告する。「(水道が民営化された国々・地域では)企業が利潤を獲得するだけ、水道料金は高くなる。料金の支払いができない世帯は、それを禁止する法律がなければ水道を止められる。感染症予防のために手洗いは必須だが、手洗いのできない世帯が先進国でも増えている」。感染症予防と衛生対策のための最も基本的な社会資本である水道が民営化で企業に売られたことが新型コロナ禍の拡大につながっている可能性を示唆する注目すべき指摘である。世界で最も水道民営化が徹底し、先行していたのはフランスだ(なお、首都パリは高い代償を払い、すでに水道を再公有化している)。なるほど、フランスの感染者数に対する死者数の割合は世界一で、感染者の5人に1人が死亡しているのだ!

 疫病は確かに人類共通の敵ではあるが、人々を平等には襲わない。富者よりも貧者、資本家よりも労働者、テレワークのできる恵まれた知識労働者よりも逃げ場のないエッセンシャル・ワーカー、強健な若者よりも病弱な高齢者、指導的立場にいる白人よりも被支配的立場を強いられている有色人種などのマイノリティに集中的に襲いかかる。それゆえ、感染症との戦いは疫学的対処ももちろん必要だが、それ以上に人々の平等と「生活水準の全体的な底上げ」が重要なのである。

 人間は弱い生物であり、自分ひとりで解決できることには限りがあり、それには「社会」と連帯、助け合いを必要とする。新型コロナが明らかにしたのは、そんな当たり前の現実だ。貧困家庭に生まれたこと、不慮の事故に遭い障害を背負ったこと、社会の支配的な人たちと異なる皮膚の色や性別に生まれてきたことが、果たして自己責任だろうか。新自由主義を信奉してきた人々は、今こそ思い知るときだろう。今日は成功を謳歌しているあなたが明日も成功者で居続けられる保障などどこにもないのだ。多くの新自由主義者が自分の誤った考えを捨て、「社会」と連帯、助け合いの輪に加わるなら、世界をよりよい明日へとつなぐことができる。新型コロナがピークを過ぎつつある現在、見えてきたおそらく唯一の、そして最大の「希望」といえる。

 (2020年5月24日 「地域と労働運動」第237号掲載)

管理人の各所投稿集ページに戻る   トップに戻る