逃げるは恥だが役に立つ?~離脱、脱出が2020年代のキーワードかもしれない

 ●歴史を「横」に眺めてみると……

 2019年代最後の年の大みそか、カルロス・ゴーン被告が除夜の鐘とともに自家用飛行機でレバノンに脱出してから、もう1ヶ月経ったのかと思っていたら、今度は1月末をもって、英国のEU離脱がついに成った。2016年の国民投票で離脱が決まってから3年半も揉め続けてきたのが一体何だったのかと思うほど、2020年代開始とともにあっさりと決まった離脱。北アイルランドの帰属をめぐって長年続いた後、調停された内戦の再燃を防ぐ措置が盛り込まれたことで、離脱の最大の障害がなくなったことが背景にある。

 そして、英国王室からの離脱が決まったヘンリー王子とメーガン妃のカナダ・バンクーバー島への移住に続いて、結婚問題が暗礁に乗り上げた秋篠宮家の眞子さんにも皇室離脱の動きがあることを、週刊誌が報じている。これらの動きは一見するとバラバラで、お互いに個別の事象として何ら相互に影響を与えるようなことではないように思われる。強引に結びつけるのにも無理があると、筆者も思っていた。

 しかし、歴史を「縦」にではなく「横」に展開してみると、思わぬ発見につながることがある。一党独裁体制だった東ヨーロッパでいっせいに民主化ドミノが起き社会主義体制が崩壊したのと、中国で天安門事件が起きたのはともに1989年だが、これを単なる偶然で片付けることはできない。「一党独裁による言論抑圧」という同じ問題に端を発し、同じように民衆が抗議に立ち上がったという共通項があるからだ。違うのは、東ヨーロッパで社会主義体制は倒れたのに中国では倒れなかったという点だけだ。

 日本で長かった自民党政権が倒れ、民主党政権に移行したのは2009年。その1年後にはチュニジアで政権に抗議して1人の青年が焼身自殺したのをきっかけに、中東・アフリカ北部でいっせいに反政府運動が起き「アラブの春」と呼ばれる状況が生まれた。エジプトではムバラク長期政権が倒れた。これらも長期支配していたのが大統領個人か政党かという違いがあるものの、長期政権の崩壊という意味で共通項がある。ただ、それでも日本とアフリカは地理的に遠すぎて、強引に結びつけるのにも無理があり、偶然の要素が強いと思っていた。

 だが、今振り返れば、2008年に起きたリーマン・ショックによる経済混乱が世界に波及しており、経済混乱の結果の長期政権崩壊だったという意味でちゃんと共通項を持っている。歴史を「横」にして眺めると、案外世界はつながっているのである。

 英国のEU離脱は、離脱派、残留派に国論を二分しての激しい政治闘争の末、たまたま解決がこの時期になったに過ぎないし、ヘンリー王子とメーガン妃の件もたまたまこの時期に話が出たに過ぎないように見える。ゴーン被告も眞子さんも、火種はもう何年も前からくすぶり続けていた件が深刻さを増した結果であって、偶然で片付けようと思えばさして難しいことでもない。

 しかし、一見するとバラバラに見える一連の出来事が、ある共通項を持っていたり、ある一定の方向性を持っていたりということは、歴史を「横」に眺めてみた場合、往々にしてある。そして、現在進行形の段階ではわからなくても、後に歴史として眺めた場合、「あの一連の動きこそが時代の転換点だった」と評価されることもある。歴史感覚を持つとは、要するにそういうことである。タイムマシンに乗って未来から現在を眺めるような感覚で俯瞰してみると、バラバラに見えた出来事が線で結ばれて見えてくる――そんな瞬間があるのだ。

 英国のEU離脱、ヘンリー王子とメーガン妃の王室離脱、ゴーン被告の日本脱出、眞子さんの結婚問題による皇室離脱の可能性――これらはいずれも現にいる場所からの離脱、脱出という共通の方向性を持っている。ひとつひとつは小さな出来事であっても、こう立て続けに「脱」の方向で事件が続くと、どうやらこれが2020年代(~2030年代)を読み解くひとつのキーワードになりそうな気がなんとなくしてきた。

 ●改革挫折で「統合」の時代終了へ

 第二次世界大戦後の世界は、ともかくも「統合」の方向で動いてきた。各国がバラバラに自国の利益だけをめざして行動し、衝突したのが大戦だったという共通認識が世界をその方向に動かしてきたことは間違いない。だが、大戦終了からほぼ人間の一生に等しい75年もの歳月が過ぎ、統合から「脱」の時代へという世界的潮流がかなりはっきりしてきたように見える。これら一連の事件がその「号砲」かもしれないという思いが、新年以降、次第に強くなってきたのだ。

 生物学者ダーウィンの「強い者が生き残るのではなく、変化に適応した者が生き残るのだ」という有名な発言をご存じの方は多いだろう。種として、あるいは個として、生き残りたければ日々、激動する世界の中で変化に適応していかなければならない。統合よりも「脱」への動きが目立ってきたのは、生き残り戦略としてそのほうが合理的だと考える人が増えたからである。

 現にいる場所が本当に自分にとってふさわしい場所なのか。自分が今まで所属し、帰属していることが当たり前と考えてきた社会や集団が、多大な犠牲を払ってまでも残留するに値する場所なのか。自分自身の「ありよう」をゼロベースで考える。もう一度、スタート地点に立ち返って、自分と自分が帰属する集団との関係を捉え直し、メリットよりデメリットが勝っていると思うなら、これまでタブーと思われていた「脱」に舵を切ってみる。2020年代、そうした動きは今まで以上にはっきりしてくるだろう。

 第二次世界大戦後の世界を、思い切り乱暴に、いくつかの時代に区切るなら、1970年代までははっきり「統合」へ向かいながらも抵抗の闘いがあちこちで起きた時代だったと思う。80~90年代はモラトリアムとでもいうべき停滞の時代で、2000年代から2010年代は、世界のあちこちで改革への動きが表面化した時代だった。2010年代に入る前後に「アラブの春」が起きたのも、日本で民主党政権ができたのも「改革」への動きだったと捉えれば納得がいく。いま所属、帰属している社会集団にとりあえずとどまったまま、内部からの改革をめざす。おおむね20年スパンで時代を切り取ると、流れが見えてくるような気がする。

 しかし、結論からいうと、2010年代に試みられた改革は日本でも世界でも挫折した。「アラブの春」が結局は民主主義的な政治体制の誕生につながらなかったことは、腐敗したムバラク政権がイスラム政権に代わったエジプトを見ればはっきりしている。日本でも民主党政権は失敗した。筆者は「コンクリートから人へ」のスローガンが間違いだったとは思わないが、「政権交代などできないと思っていた日本でもできるんだ」という期待を「やっぱり日本人に政権交代なんて無理」というムードに変えてしまった民主党政権の罪は100年に一度レベルの重いものだと思う。はっきりいえば安倍政権なんてそれだけが理由で持っているようなものだ。EUで行われた改革も挫折。人々が求めていた新自由主義的政策の放棄は実現せず、EU加盟国同士、市民同士の格差を拡大させただけだと人々に思わせてしまったことが、挫折の背景にある。

 ●統合から「脱」の時代へ 大切なのはゼロベース思考

 2020年代という新しい10年代が始まったこの新年早々、「脱」への動きが加速している背景は、乱暴だがこうした動きと重ねてみるとだいたいの説明がつくと思う。自分が所属、帰属している社会集団の内部にとどまって改革をいろいろ続けてきたけれど、最終的にダメだった。改革の可能性が閉ざされたいまの場所にこのままとどまっていても未来がない。それならば、多少の危険を冒してでも今いる場所の外に出るしかない――人々がそのように考え、行動する新しい10年間(場合によっては20年間)が始まったのだ。

 「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマが数年前ヒットしたが、このタイトルの語源はハンガリーのことわざだ。「どんなに格好悪くても、生き延びればいつかチャンスはやってくる」という意味合いで使われる。最後まで主君に忠誠を尽くし、主君が倒れるときは運命を共にする「忠臣蔵」をいつまでも変わらず愛し続ける日本人には理解しがたいメンタリティかもしれない。しかし、ダーウィンの言葉の通り、変わることを拒絶し、世界潮流に背を向ける日本は少子高齢化で内部崩壊を迎えつつある。自家用飛行機で日本を脱出したゴーン被告がここまでさんざんに叩かれている背景に、単に悪事を働いたということ以上に「自分だけさっさと逃げやがって。こっちは脱出したくたってできないんだよ」という若干の妬みや羨望が含まれているように感じるのは筆者だけだろうか。日本人は、叩いている暇があるなら、むしろこの閉塞状況を「一気に飛び越えた」ゴーン被告の行動を見習い、参考にしたほうがいいと思う。

 筆者が小学生の頃、こんな出来事があった。「りんごを食べたいと思っている子どもが2人います。でもりんごは1つしかありません。そんなとき、あなたならどうしますか」という先生からの「お題」に対し、10人中9人が「もう1つりんごを買ってくる」とか「りんごを2等分し、分け与える」という無難な回答をするなか、ある男子児童が「2人の子どものうちどちらか1人、殺せばいい」と答えた。先生は「人を殺してはいけません」でその場を終わりにしてしまった。

 筆者は、子どもの頃から尖った変わり者だったから、この先生の発言に違和感を持った。殺人を肯定したいのではない。そもそも「2人の子どもにりんごが1個」という状況――供給が需要を満たせない経済状況にどうやって対処するかを問うお題であって、殺人の是非を問うお題ではそもそもなかったはずだが、という違和感である。初めは問われてもいなかった、まったく無関係な別の規範を途中から突然持ち出し、重要な選択肢の1つを検討もしないまま潰してしまうという議論のやり方にアンフェアさを覚えたのである。たとえその解決法がタブーであるという社会的合意があったとしても、だ。

 物事をゼロベースで考えるということは、このタブーを取り払ってみるということである。繰り返しておくが殺人を肯定したいのではない。この事例は極端すぎるので置くとしても、それまで誰もがタブーだと考えてきた選択肢こそが本当の意味で唯一の解決策だった、ということは歴史のある局面においてはあり得る。日本の何が問題で、どこに着地すべきかについてはもうこの20年近く議論し尽くしてきたし、大方の日本人が着地すべき場所もわかっている。それにもかかわらず、そこに「たどり着く方法」(=解決策)がない、という閉塞状態を一気に飛び越え、しかるべき場所に正しく着地するために、タブーとして排除されてきた選択肢(民営化された企業の再国有化など)をもう一度真剣に検討すべき時期にさしかかっているのではないか、と筆者は主張したいのである。

 もしそれが本当の動きにならない場合、日本からも「脱」の動きが表面化する2020年代になるような予感がする。ゴーン被告の脱出がその号砲でないことを願ってやまない。

(2020年2月23日 「地域と労働運動」第234号掲載)

管理人の各所投稿集ページに戻る   トップに戻る