暴走車が歩道の歩行者を襲い、歩行者が死亡する悲惨な事故の報道が続いている。とりわけ今年4月、東京・池袋で87歳の高齢者が母子を死亡させた事故では、ドライバーが元通産省工業技術院長を務めた高級官僚で勲章受章者、しかも逮捕されず任意の事情聴取にとどまっていることもあいまって「上級国民は逮捕されない」という言説が広まり、激しいバッシングが続いている。5月8日には、滋賀県大津市でも園児の列に暴走車が突っ込み、幼い2つの命が失われた。
交通事故それ自体は自動車の発達とともに昔からある問題だし、高度成長期には交通事故死者数が年間1万人を超え、交通戦争といわれた時期もあった。対照的に、ここ数年は年間の交通事故死者数が4千人を割り込んでおり、交通戦争は遠い昔の記憶になったということもできるだろう。もちろんそれでも、日本国内に限れば2005年12月のJR羽越線脱線事故以降1人の死者も出していない鉄道、1985年の日航機墜落事故以降、34年間にわたって1人の死者も出していない航空機と比べると自動車が巨大な「生命の無駄遣い」をしている事実には何ら変わりがないのである。
それにもかかわらず、連日のメディア報道が続くのは、事故の“質”に大きな変化が生まれているからである。「交通戦争」時代は運転経験の未熟な若者がハンドルを握る車が子どもや高齢者をはねるというケースが比較的多かった。しかし最近は、身体機能や判断力の衰えた高齢者がハンドルを握る車が子どもや母子をはねるというケースが激増しているのである。子どもが犠牲者なのは今も昔も同じだが、かつてはたいていの場合被害者だった高齢者が加害者へと逆転。いささか失礼な言い方になるが「余命幾ばくもない高齢者の手で未来ある母子の命が次々に絶たれる」という“悲劇性”がメディア報道激増の背景にあるとみて間違いない。
●「自動車ファースト」の交通政策に有識者からも批判
なぜ悲惨な事故が続くのか。交通戦争の時代から半世紀近く経つのになぜ状況が好転しないのか。
栗生俊一警察庁長官は5月9日の記者会見で「日本の交通死亡事故は、諸外国に比べ歩行者が犠牲になる割合が高い」と述べたが、これを裏付けるデータがある。「国際道路交通事故データベース」(IRTAD)対象30カ国の中で「乗用車乗車中」つまりドライバーの人口10万人当たり死者数では、日本は3.8(2015年)と10番目に少ない。ノルウェー(1位)、スウェーデン(2位)、英国(3位)などには及ばないものの先進国水準といえる。
しかし、これが歩行者となると事情は一変する。日本では交通事故死者数に占める歩行者の比率が37.3%もある。諸外国を見ると、スウェーデンは10.8%、ドイツ15.5%。島国で狭い道路が多いなど日本と事情が似ている英国でも23.7%だ。IRTAD対象30カ国の中でも交通事故死者に占める歩行者の割合が突出している。やや乱暴に例えるなら、他の先進国では自動車が「走る棺桶」であるのに対し、日本は「走る凶器」なのだ。
こうした事態を引き起こしている原因を自動車優先、歩行者軽視の道路行政に求める識者は多い。ジャーナリストの窪田順生さんは、「歩道は狭過ぎて混雑し過ぎ。そして、なぜ道路を渡るのに、僕が階段を上らなければならないのか? 車が優先されていることに、僕は憤りを覚えた」というコリン・ジョイス氏(ニューズウィーク日本版コラム担当)の意見を紹介。訪日客を含む外国人の目には日本の道路とりわけ歩道の狭さが異様な光景に見えていることを指摘した。すれ違うと肩がぶつかったり、ベビーカーを押していると急いでいる人に舌打ちされたりする状況は異常だし、私自身、ただでさえ狭い道路に電柱が建っているところでは、雨の日に傘も通らなかった経験がある。そのときは「傘も通らないなんて、ここは収容所か」と思ったものだ。
「ハンドルを握る高齢者の多くが、行き先はせいぜい数百メートル先のスーパーか商店街。そんな近くなら歩いて行け」と憤る意見もインターネット上には散見されるが、私のような若い世代でさえ収容所に押し込められているような感覚に襲われ、歩くのがイヤになる狭い歩道をわざわざ歩いてまで外出したいと思う高齢者はいないだろう。数分も歩けばたどり着くような至近距離でもわざわざ車に乗る高齢者が後を絶たない現状を、単なる心身の衰えだけで説明するのは難しい。非人道的なレベルで狭い歩道を歩きたくないというのも動機なのではないかと思われる。
『道路が、ただ車を通すために計画され、豊かで多様な生活が奪われ、商業主義に毒されているところに、今日の都市の危機がある。人間のもっとも基本的な権利である歩行さえ安心して行えず、不断に警戒し、注意するのでなければ生命をおびやかされ、一家を塗炭の苦しみにおとしいれるような都市に、誰が誇りと愛着を感じるであろうか。そのような都市で、どうして市民の連帯をはぐくむことができようか。』
これは、東京都総合交通対策担当専門委員報告『総合交通対策について』(都企画調整局総合交通対策室)からの引用である。オイルショック直前の1973年6月にまとめられた内容だが、私たちはこの報告に2つの意味で驚かされる。1つは言うまでもなくこの報告が持つ先見性だ。上記の一節を引用した廣岡治哉法政大学経営学部教授(当時)はこの報告を根拠に「歩行権」を新たな基本的人権に位置づける。
もうひとつは、この報告から半世紀が経った現在も状況がまったく改善せず、当時と同じことが繰り返されている日本社会の絶望的なまでの進歩のなさだ。道路整備費を含む公共事業費はこの間、毎年4~5兆円を占め、国債費を除けば50兆円程度しかない日本の財政収入の実に1割を占めてきた。毎年毎年、これだけ投じられた巨額の道路整備費はいったいどこに消えたのか。こんなに巨費を投じたのに、なぜ今なお日本の歩道は雨の日に傘も通らないほど狭く劣悪なのか。
この無駄遣いを早い段階で改め、公共交通の整備に予算を振り向けていれば、ローカル交通は充実し、これだけの幼い命が失われることも、移動の足を失った人たちが大量に都市へ移動することもなく、日本の国土はもっと都市と地方の均衡が取れた理想的な社会へと変貌していたに違いないのだ。
2009年に民主党政権が成立して今年で10年を迎える。民主党政権の3年半が「悪夢」だったかどうかをめぐって政界では政策そっちのけの罵り合いが続いているが、少なくともこの政権が掲げた「コンクリートから人へ」のスローガンが間違っていたとは私はまったく思わない。国交省によれば、建設業界で働く人は今なお500万人以上いる。家族を含めれば少なくとも建設業を生活の糧にする人は1000万人を下らないだろう。この裾野の広さと利害関係者の多さこそ、コンクリートから人への転換を妨げてきた要因に違いない。すべての建設業界が公共事業で食べているわけではないとしても、私が仮に政治家で「公共事業を全廃して、突然1000万人が路頭に迷う事態になってもあなたは公共事業全廃を決断しますか」と聞かれたら、ハイとは答えられない。少なくとも削減は段階的でなければならないという結論に達するだろう。
それでも、半世紀近くにわたって小さな命が毎週のように奪われる事態を放置しておいてよいわけがない。前出の窪田さんは当面の対策として(1)歩道の広さを見直し、ガードレールを整備、(2)子どもの多い通学路などは、時間帯によって進入制限や速度制限を設ける――等を提案している。小手先の対策であり抜本的な改革とはならないが、できることからすぐに始めるべきである。
●暴走事故の多い「プリウス」
ところで、自動車メーカーから多額の献金を受ける政治家も、多額の広告費で稼いでいる大手メディアも絶対に指摘しない事実がある。暴走事故の多くがトヨタ「プリウス」なのだ。「上級国民」とネットで袋叩きにされている元工業技術院長が事故を起こしたのもプリウスだった。事故が起きるたび、警察はトヨタを立ち会わせて実況見分を繰り返しては「誤動作はなかった」で終わらせている。だが、特定の1車種になぜこれほど暴走事故が集中するのかはもっと社会問題にされるべきテーマだと思う。
自動車に詳しい識者からはいくつか事故につながりかねない原因が指摘されている。シフトレバー操作後、他の車種では切り替えたレンジでレバーが固定されるのに対し、プリウスは切り替え後「N」(ニュートラル)の位置に戻ってしまうため、現在どこに切り替わっているのかをパネル表示でしか確認できないなど視認性に問題があるという見方や、小型車体なのに車内空間を広く確保する目的でタイヤハウスの上まで運転席が来るなど他の車種ではあり得ない構造になっており、そのために他の車種であればブレーキがあるような位置にアクセルがあり、ペダルの踏み間違いが起きやすいのではないかと指摘する声もある。トヨタは実況見分のたびに「誤動作はない」で終わらせているが、安全性とは単に誤動作が起きないことだけを意味するのではない。人間工学的な見地からドライバーが最も快適に、かつ最も正確に操作できるような構造に近づけることも安全性向上に重要であり、鉄道車両や航空機の機体といった公共交通の分野では当たり前のこととして行われている。
インターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」には、既にこうした視点からプリウス問題を指摘し、告発する動画の投稿が始まっており、アクセス数も増えてきている。もしトヨタがこうした現実を直視せず「我々は誤動作のないように造っているのだから、誤操作をするドライバーが悪い」という姿勢をとり続けるなら、トヨタへの大規模な社会的批判に発展することは避けられないだろう。安全問題研究会としても、それほど遠くない時期にプリウスの実態調査を含め検討している。
●高齢者の免許返納は幼い命を救うか
いつまで経ってもやむことのない高齢ドライバーの事故を受けて、高齢者の免許返納を求める社会的圧力が増している。すでに、71歳以上のドライバーの免許の有効期限は短縮され、免許更新時に70歳以上は高齢者講習受講が、75歳以上は高齢者講習受講に加え認知機能検査受検が義務づけられた。認知機能検査で疑わしいとされたドライバーは専門医の診察を受け、医師の判断で免許返納が望ましいとされた場合は返納させられる。2017年には認知機能検査の厳格化により、75歳以上のドライバーの実に1割が免許返納となった。
問題は、くだんの工業技術院長のように認知機能検査で決定的な異常が出ないながらも、本人の自覚する心身の衰えと実際のそれとの間に大きな乖離があるケースだと思う。最近は元気なうちから免許返納に踏み切る人も増えたが、そうした人は自分の現状をきちんと客観視できるからこそそのような行動が可能になるのである。やや意地悪な言い方をすれば「返納する必要がない人ほど返納し、真に返納が必要な人はなかなかしない」という状況が生まれている。ここでもまた世の中というものは上手くいかないようにできているのである。
もうひとつ指摘しなければならないのは、免許返納したくても自動車以外の交通手段がないためできないという現実も地方にはあるということである。公共交通なんて、いつ廃止されたかも思い出せないほどとうの昔になくなってしまった地方で、車を取り上げることは高齢者に死刑宣告をするようなものだ。幼い命を奪う危険性を理解していても「乗らざるを得ない」という現実をどのようにしていくかの議論が、免許問題と別に必要である。
公共交通をもう一度整備し、再建していくことが有力な選択肢となるが、このようなことを言うと「誰も乗らない公共交通にカネを出すなんて無駄」という批判、反論がすぐに出される。これは北海道で現在、問題とされている「維持困難路線」の廃止を推進する立場の論者にとっては有力な根拠となっている。ただでさえ少子高齢化で生まれる子どもの数はピーク時の半分にまで落ち込んでいるのに、そのかけがえのない命が公共交通未整備の「代償」に差し出されているという現実を直視すべきであろう。このような現実を直視もせず、半世紀で数百兆円もの道路整備費、公共事業費を浪費しながら50年前と同じ悲劇が今なお続く道路行政を変えることもできなかったみずからの責任を棚に上げ、歩くのも嫌になるような狭苦しい道路に「鉄道を廃止してバスでも走らせておけ」と主張するような愚か者は今すぐ政治の表舞台から退場すべきである。
『公共交通機関のサービスの利用可能性が潜在的利用者にも与えられるという非市場的外部効果がある場合、公共交通機関にはサービス提供義務が課せられており、潜在的利用者に対する排除原則の適用が制度的に退けられているから、この利用可能性は公共財的性格を持ち、公共補助の根拠となる』。前出の廣岡教授の著書『市民と交通~現在の交通問題とその背景』ではこのようにして公共交通機関に対する政府からの補助金交付に正当性を与えている。経済学の知識のない人々には難解な表現だが、平易な表現に直せばこのようになる。『公共交通機関は、いつでも乗れるサービスであるために、誰かが乗る可能性がある場合には運行されなければならないが、運行を行ってみて結果的に誰も乗らなかった場合、乗らなかった人から運賃を徴収することはできないため、市場原理に委ねていてはいずれ運行そのものが不可能となる。そこで、誰もがいつでも乗りたいときに乗れるように一定の頻度で運行が行われるという公共交通機関の運行の実態そのものに公共財的性格を認めて補助金を支給することには根拠がある』。
この本は今から32年も前の1987年に出版されている。国鉄がJRグループに分割解体された年だが、新自由主義の嵐が吹き荒れる前夜にもこうした冷静な考察が行われていることには注目すべきであろう。もちろん、ここで展開されている理論が現在でも有効であることは言うまでもない。
<参考資料・文献>
日本の交通事故死者数と諸外国との比較については、平成29年版交通安全白書(内閣府)を参考にした。
(2019年5月25日 「地域と労働運動」第225号掲載)