(筆者注:今号では別のテーマで執筆する予定でしたが、沖縄・北海道同時独立を夢想した前号の反響が大きかったため、急遽、続編を執筆することにしました。)
「彼らはいったいいつまで続けるつもりなんだ。こんなに本気とは思わなかった」
「残念ながらわれわれは、沖縄と北海道の怒りをあまりに軽く見過ぎていたのかもしれない」
202×年4月。「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」の衝撃的独立宣言から3ヶ月。日本は新年度に入っていた。「どうせ彼らはすぐ折れる。日本に戻りたいと言い出すに決まっているから心配する必要はない」との東京の目論見は外れ、新国家の日本からの独立の意思は揺るがなかった。何よりも新国家が“成果を出す”ことにこだわり、矢継ぎ早に社会主義的新政策を実行に移したことで、独立に懐疑的だった人々もその恩恵を実感し始めていた。一方、東京の首相官邸では、閣議後の閣僚懇談会で冒頭のような会話が公然と交わされるようになっていた。手詰まりの官邸の焦りは深まっていた。
「沖縄も北海道も依然として日本国の領土だ」として、日本政府は沖縄・北海道関連予算をこれまで通り新年度予算案に組み込んだまま国会を通過させた。だが、それらの予算が執行される見込みはなかった。閣僚懇談会でも「もしこのまま沖縄・北海道関連予算が執行できなかったらどうなるか」が話題になり始めていた。国庫返納、他予算へ振り替えるための補正予算の編成などいくつかの案が出ていた。だが、他予算への振替は、沖縄・北海道の独立を日本政府として事実上認めることにつながりかねないとして多くの閣僚は否定的だった。財務省も「予算を本来の目的で執行できないからといって他の用途に振り替えることは財政法違反であり認めない」と主張、国庫返納となりそうな雲行きだった。
新国家は、中国や朝鮮民主主義人民共和国、韓国、ロシアと次々に外交関係を樹立。一方、日本政府との外交関係樹立は「日本政府による新国家の承認が条件」としたため進んでいなかった。
新国家の強気の姿勢の背景には、「独立宣言」後も変わらない旺盛なインバウンド(海外からの観光客)需要があった。新国家を構成する2つの共和国のうち、琉球共和国(旧「沖縄県」)への海外(日本除く)からの観光客は年間270万人。アイヌ共和国(旧「北海道」)も280万人を数えた。これら観光客に新国家は観光税を課税したが、もともと独立前から円安傾向だったことに加え、「海外からの観光客は富裕層なのだから、観光税くらいで彼らが日本旅行をやめるとも思えない」(琉球共和国政府幹部)との独立前の読みがずばり当たった格好だった。
観光税は新国家最大の収入源になっていた。観光大臣から報告を受けた玉城デニー国家主席もこの結果にご満悦で、「海外の富裕層から徴収した観光税収入を財源に“国内”の貧困層のための政策を実現する。これこそグローバル時代にふさわしい、国境を越えた“富の再分配”だ」として、この政策に自信を示した。教育費や18歳未満の医療費無償化など、独立前は不可能と思われた政策が、観光税や、アイヌ共和国産農産物に対する高額の輸出関税、在沖米軍への「迷惑料徴収」などを通じた豊富な財源により次々と実現しつつあった。何よりも、四半世紀にわたって厳しい人口減少に直面してきたアイヌ共和国支配地域(旧「北海道」)で人口減少にブレーキがかかったことが、弱者に優しい新政策の成功を物語っていた。
一方、東京では、一向に折れる気配のない新国家に対し、自衛隊を派兵しての「武力併合」論が再び強くなり始めていた。このまま新国家の独立が既成事実化するのを避けなければならないとする点で閣僚たちは一致していた。だが、実際に派兵が可能かどうかに関しては政府内部で意見が割れていた。新国家独立宣言前、7割が集中していた米軍基地はもとより、自衛隊の人員の4分の1、駐屯地の2割、そして弾薬庫に至っては全体の半分が北海道に集中している状態で新国家にこれらをもぎ取られた日本の戦力は大幅に低下していた。「本土」にも遊休国有地は多く、失った駐屯地や弾薬庫、また軍需産業のフル回転によって武器や弾薬の調達については何とか見通しが立ちつつあった。だが問題はこれらを扱うことのできる自衛隊の兵員を確保できそうにないことだった。旧安倍政権時代に導入した「アベノミクス」による空前の好景気と人手不足は依然として続いており、若者の多くは自衛隊を忌避し民間企業に就職していた。自民党政権が若者の支持を得るためには就職を好転させる必要があるが、やりすぎると「貧困の徴兵制」が機能しなくなる――日本政府が抱えていたこのジレンマが、結果的に沖縄・北海道同時独立に利用されることにつながったのだ。
初夏を迎える頃、日本政府に新国家「武力併合」を決意させる出来事が起きた。日本「本土」の人口減少がさらに加速する一方、「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」を構成する旧沖縄・北海道の区域で人口減少に歯止めがかかったことが統計結果として公表されたのだ。中でも日本政府に衝撃を与えたのが人口の「社会的流動」の項目で、日本が大幅減、「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」が大幅増との結果が示された。とりわけアイヌ共和国では、少子化による人口の自然減を補うほどの大幅な「社会増」が示された。玉城国家主席は「弱者を平気で切り捨てる自公政権の政策が変わる気配のない日本に見切りを付けた人々が、我が国にどんどん移住してきている」と述べ、今後も“新政策”を続ける強い意思を示した。
この結果を見た東京の日本政府内部では「このままでは手遅れになる」として新国家の武力併合を求める声が一段と強まった。長く続いた安倍政権も結局、悲願だった憲法改正を実現できないまま今日を迎えていた。海外で自衛隊が武力行使をすれば違憲だ。だが日本政府は、違憲ではないのかと質す野党議員に対し「沖縄も北海道も依然として日本国の領土であり“海外”に対する武力行使には当たらないため、違憲ではない」と答弁していた。閣僚の中でこの見解に異を唱える者もいなかった。こうした国会答弁との“整合性”を確保するため、自衛隊の派兵は外国への武力行使を意味する防衛出動ではなく、「国内」の治安を確保するための治安出動として計画されていった。
自衛隊の兵員が減った中で、東京から見て180度正反対の沖縄と北海道に兵力を同時展開できるのかとの不安は消えていなかった。だが、焦る政権幹部にこうした冷静な懸念の声はもはやまったく届かなかった。「武力併合だ。早くしろ!」と自衛隊派兵を主張する官邸トップの声に「制服組」の懸念はかき消されていった。
新国家に対する自衛隊の「治安出動」を決めるため、臨時に召集された閣議が始まった。「アイヌ・沖縄の“土人”どもが。日本からの独立などすればどんな目に遭うかわからせてやる」という差別発言が公然と自民党の閣僚から飛び出した。図らずも日本政府の沖縄や北海道への意識を垣間見た瞬間だった。高揚した閣僚たちからは次々と強硬論が飛び出し、自衛隊の派兵はすぐにでも決まりそうな情勢だった。
だがそのとき、首相の携帯電話が鳴った。電話は秘書官からで、緊急事態発生を告げる内容だった。青白い顔で戻ってきた首相は臨時閣議の中断を告げる。電話の内容を知らされた閣僚たちは、新国家「武力併合」など到底不可能であると悟らざるを得なかった。
東京都内など日本の大都市部の商店から、次々と食料品が姿を消し始めた。食糧自給率が200%を超え、一大食糧基地だった北海道を「独立」で失った日本では、ただでさえ新国家が行った「輸出関税の10倍引き上げ」によってアイヌ共和国産の食料品が高騰し、パニックが始まっていた。特に、北海道がほとんど唯一の生産地だったじゃがいもは最も大きな影響を受け、「日本」各地ではポテトチップス1袋が1000円に引き上げられた。つい先日も食料品値上げ反対のデモが都内で行われ「ポテチ>最賃 ふざけるな!」と書かれたプラカードが登場していた。「最低賃金ではポテトチップスも買えない」という労働者や貧困層の怒りだった。
そこへ、日本政府による「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」の武力再併合が近いというニュースが流れたことで、市民の不安は頂点に達していた。もし日本と「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」との本格的な武力衝突に発展した場合、ただでさえ高騰している北海道産の農産物は完全に供給が途絶するかもしれない――そう考えた市民による食料の奪い合いがついに始まったのだ。渋谷区内のスーパーでは、暴徒化した若者が店の倉庫にまで侵入し、保管してあった商品を強制的に買い取る騒動が起きた。ふざけ半分の若者の一部がその様子をインターネットの動画サイトに投稿したため、騒ぎはさらに拡大していた。
政府は中断していた臨時閣議を再開したが、国内の治安を担当する国家公安委員長(警察を所管)と法務大臣(公安調査庁を所管)が「国内の治安維持に責任を持てない中での沖縄・北海道への自衛隊派兵には賛成できない」としたため、全員一致が原則の閣議は自衛隊派兵を決められないまま散会に追い込まれた。一方、日本政府の動きについて報告を受けた玉城国家主席はほくそ笑んでいた。「かつてレーガン米政権の農務長官は『食料はミサイルと同じ。食料を制する者は戦わずして世界を制する』と述べたが、その通りだった。北海道を独立に引き入れた私の判断は間違っていなかったのだ」。
新国家樹立後に導入された人民代議員大会制度には、自由な選挙を否定するものだという批判が絶えなかったが、玉城国家主席はまったく意に介していなかった。公共事業を餌にして自民党が合法的に票を買収し続ける日本の例を引き合いに、人民代議員大会制度が日本の『自由選挙』に劣っているとは思わないと述べ、制度を変えることに否定的だった。労働者・市民が職場や地域代表を代議員として大会に送るシステムは、労働者や市民と職場・地域代表代議員との強固な結びつきを生み、労働者・地域住民本位の政策が立案されることにつながっていた。保育所整備を望む女性など、日本の自民党政権ではまず反映されることのなかった層の意見が政治に反映されるようになりつつあった。この意味でも人民代議員大会制度の優位性が示されたといえよう。
「日本」を含む海外メディアの取材に対し、玉城国家主席は「日本を初めとする西側先進国の『自由選挙』とわれわれの制度のどちらが優れているか? 日本の人口が急減し、我が国の人口が下げ止まったことをみれば議論などする意味もないでしょう。あなた方は私が直接選挙で国家主席に選出されたわけではないと非難しますが、日本の首相だって直接選挙で選ばれていないという点では変わりがありません。国民の直接選挙で選ばれてもいない日本の首相が、直接選挙で旧「沖縄県知事」に選ばれた私を無視して基地を押しつけていた日本時代と、国家主席が直接選挙で選ばれていない点は同じでも、国民が自分の意思で自分たちの未来、自分たちの運命を決定できる今の体制。どちらを選ぶかと問われたら、あなただって今のほうがいいと思うでしょう」と、自由選挙否定に疑問を投げかける記者の質問を一蹴した。
「琉球・アイヌ連邦人民民主主義共和国」は既成事実化し、玉城国家主席は「遠くない将来における在沖米軍の完全撤退」さえ口にするようになった。新しい社会の形は着々と示されつつあった。「日本」からの移住者はますます増え、外国からの国家承認も増えた。突如として生まれたまったく新しい国家の滑り出しは順調だった。(完)
(2019年1月20日 「地域と労働運動」第221号掲載)