6月の大阪北部地震に始まり、西日本豪雨、そして「非常に強い」勢力のままの日本列島上陸は25年ぶりとなった台風21号…これだけでも十分記録づくめの「災害の夏」なのに、それを上回る災害がやってきた。
●停電から復旧までの1日半
9月5日に爪痕を残した台風21号災害の余韻も収まらないまま、9月6日午前3時8分、胆振地方東部を震源とする震度7(北海道厚真〔あつま〕町)の地震が北海道を襲った。私は自宅で寝ていたが、船に揺られるようなゆらゆらという横揺れの後、突き上げるような縦の揺れに大きく揺さぶられる。「来た!」と思ったがとっさに体が動かなかった。この時ようやく緊急地震速報が鳴動。少し揺れが収まった後、テレビをつけようとすると電源が入らない。ここで初めて停電に気付いた。自宅は札幌市内のマンションだが、廊下から非常灯の明かりが差し込んでいたため、まさか停電だと思わなかったのだ。
私は、2011年3月の東日本大震災当時は福島県にいて、あの震災も経験している。当時の教訓からその後、ずっと欠かさず心がけていたことがある。(1)タンスなど倒れる可能性のある大きな家具は寝室には絶対に置かない、(2)食器棚の扉には常時、ゴムひもをかけておく(扉が開かないための措置)、(3)枕元に常にスリッパと懐中電灯付きラジオを常備する、というものだった。手を伸ばし、ラジオをつけるといきなり「震度6強」というアナウンスにめまいがした。時計を見ると、午前3時10分過ぎ。スリッパをはき、懐中電灯を照らしながら家の中を確認したが、幸い縦揺れが中心の地震だったせいか、落ちたり散乱したりしているものはなかった。時間が時間だけに、もう一度布団に入りたかったが、頭が冴えてしまい眠れなくなった。自宅マンションは水道も電気でくみ上げる方式だ。嫌な予感がして水道の栓をひねると、予想通り出ない。
未明4時か、あるいは5時か。「泊原発が外部電源を喪失、非常用ディーゼル発電機だけで燃料冷却を継続」というニュースが入る。暗闇の中を逃げまどわなければならなかった7年前の悪夢が頭をよぎった。今回は当時と違い、津波は発生していないが、電力会社はこの7年間でもう数億回はウソをついているのではないか。電力会社の発表を無邪気に信じるほど私はお人好しではない。福島時代に無理して購入した簡易線量計に久しぶりに電池を入れモニターを開始した。数値は0.08〜0.12μSvの間で変動しており、通常と変わらない。もはや自分自身の目で確認した数値以外は信じられない。
日本最東端に位置する北海道は朝の訪れが早い。4時半ごろ、東の空が白み始めた。札幌のこの日の日の出は午前5時4分。晴天だ。北海道でもこのところ暑い日が続いていて、気温は平年より5度近くも高い。夜通し、開け放ったままだった窓の外から人の声がするので見てみると、近くのコンビニの前にもう飲料水を求める行列ができている。7時過ぎに行ってみたが、すでに売り切れだった。
携帯ラジオから「北海道全域で停電」という信じられないニュースが届く。札幌中心部の道庁、札幌市役所本庁、札幌駅、北海道電力本社くらいはさすがに電力が供給されているだろうと思っていただけに唖然とした。ほぼ同時に、職場から「交通機関が復旧するまで自宅待機」との電話指示があった。
午前10時すぎ、食料は災害用を備蓄しているので、まず水を確保しようとするが、ラジオで放送していた水道局の出先機関の場所が最寄りの区役所でもわからないという。仕方なくいったん自宅マンションに戻ったところ、管理人から集会所前で給水をしていると聞かされる。容器を持っていくと、非常自家発電機を動かし、ポンプを強制的に動かして水道から水を出している。給水を受けて急場をしのぐ。
「北海道全停電」の原因は、北海道全体の電力使用量の4割をまかなう苫東厚真火力発電所が地震の直撃を受け停止したことだ(苫東厚真火力発電所は震源地のほぼ真上にある)。ここが停止したため、道内に残り3つある火力発電所がすべて停止した。要するに、発電量が道内の総使用量を下回ってしまったため、北海道内で巨大なブレーカーが落ちたようなものだと理解していただくとわかりやすいだろう。
北電の対応も目を覆うばかりのまずさだ。いかに苫東厚真発電所頼みの事情が大きいとはいえ、震源地のほぼ真上に位置し、最も大きな損傷を受けていそうだと誰でもわかる発電所からまず復旧させようとし、予想通り損傷が見つかって失敗する北電の姿を見ていると、7年前の東電の失敗から何も学んでいないな、と暗澹たる気持ちになる。やはりこの会社にも原発は預けられない。北電も直ちに泊原発からは撤退すべきだ。
6日昼になり、ようやく札幌市中央区で電気が復旧。6日夕方までに、岩見沢市の知人、札幌市内の職場の上司宅で電力が復旧したと連絡。自宅だけがいつまでも復旧しないが、地方も含め、こんなものだろうと思っていると、士幌町、新千歳空港、新ひだか町中心部(最も揺れが大きかった日高振興局管内)、札幌市北区(札幌駅や北海道大学が所在)などから続々と電力復旧の連絡が来始める。札幌中心部に近いほど復旧が早いという単純なことでもなさそうだった。
夜、信号が消えてしまった真っ暗な街に車で出てみた。細心の注意を払いながら遅めの速度で運転する。商店はほとんど停電で営業していない。街路灯も消えているため、ライトが照らしている車の真正面に入るまで歩行者の存在が確認できず恐ろしい。携帯電話の充電を車で行っていると思われる人も見たが、物流が止まっており、本格的な燃料不足はむしろこれから深刻化する。こんなところで必要もなくエンジンを回す余裕はないはずなのだが……。
結局、自宅の電気はこの日は復旧せず、真っ暗なまま夜を過ごした。ガスは生きていて、給水を受けた水を沸かして食事やお茶などの飲用に使えるだけでもありがたい状況だった。余震は、身体にはっきりと感じるものだけでこの間、4〜5回あった。電気がつかない以上遅くまで起きていても仕方なく、夜9時過ぎに就寝。今日の未明、3時に起きて以降一睡もしておらず、体力を回復する意味からも寝ておいた方がいいという、これも7年前の震災から得た教訓だった。
翌7日、金曜日。出勤命令に備えいつもより早い6時過ぎに起きるが、まだ電気は回復していない。やれやれと思っていると、ハンドマイクで「携帯充電のため集会所を開放する」という管理人の声が聞こえる。バッテリーが少なくなっていて、ありがたい話だ。昨日夕方までに、管理人室、集会所を含むマンション内の半分だけ電気が復旧していて、充電できるという。水道ポンプの電力が復旧したため、今日は集会所で1日中いつでも好きなだけ給水してよい、とも。集会所はいまだ電気が復旧しない半分の棟の住人たちの情報交換の場となっていた。電気が復旧した近くのコンビニで、一度溶けてしまった後再び凍ったアイスクリームを「一度溶けてしまった以上、売り物にならないので無料でいい」ともらってきた人がいて、子どもたちに配るなど、勝手に助け合いが始まっている。
午後になり、まだ自宅の電気は復旧しないが、札幌市電が運転再開。新千歳空港の航空便、北海道新幹線、地下鉄も運転を再開するという。泊原発で外部電源が復旧というニュースも入る。モニターしている簡易線量計の数値はその後も全く変わらず、7年前のような上昇はなかった。同じころ、「新幹線なんてどうでもいいから道民の家庭へさっさと給電すればいいのに」と大阪在住の知人からメールがあった。確かに納得はできないが、新幹線は主として本州側から給電されているので、青函トンネルを通り本州と北海道を抜ける電線が損傷していなければ早々に復活できる。東日本大震災の際、中部電力エリアから給電を受けていた東海道新幹線だけがずっと走り続けられたのと同じである。
職場からは自宅待機との命令で、出勤しなくてもよさそうだったが、職場は電気が復旧していた。これ以上電気のない自宅にいるよりは電気の通っている職場に行く方がよさそうに思えた。地下鉄の復旧一番列車に乗り、午後3時過ぎに職場に着くと、やはり自宅が通電していない数人が、私と同じ理由で来ている。電話、FAX、ネットすべて使えたので、メールをチェック、急ぎの案件を処理したところ、終業時間が来た。ここで、災害用に職場に備蓄していた非常食を入手。「賞味期限が近づいていて、次の災害まで温めておいても処分するだけになりそうだから、全部持って帰ってもいい」と言われ、大量にもらえたのは幸運だった。
午後6時過ぎ。毎週金曜日は終業後、北海道庁前で行われている反原発金曜行動に参加するのが恒例になっている。北海道反原発連合のサイトを見ると、さすがにこの日の行動は中止と告知されていた。地下鉄で自宅マンションに戻ったものの、自分の住んでいる棟にはまだ電気がついていない。やれやれと思いながら、部屋には戻らず、電気の通っている集会所に直行。職場でフル充電にできなかった携帯電話の充電を続行しながら、「今晩も復旧は難しいですかね」「そろそろ子どもたちをお風呂に入れてやりたい」などと情報交換。携帯電話がフル充電になったので、今夜も真っ暗な夜になりそうだが仕方ない、と自分の棟に戻ろうとしたところで電気が復旧したとの連絡がある。午後6時50分、すっかり夜の帳(とばり)が降りている。地震発生から40時間余り。すでに道内の半分以上で電気が復旧した後であり、全体から見ても遅い復旧となった。
●ブラックアウトの背後に電力失政と北電の利益至上主義
胆振東部地震による北海道全域停電は札幌市中央区などが最初に復旧する6日正午過ぎまで9時間にわたって続いた。日本に10ある地域電力会社の営業区域全体が停電したのは、戦後に現在の10電力体制になって以降初めてだ。なぜこんな事態が起きたのか。
北海道では発電量全体の85%を石炭・石油火力発電が占める。その発電量(406万キロワット)の4割を占め、165万キロワットの発電能力を持つ苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所は震源地のほぼ真上に位置する。この発電所が地震の直撃を受け、損傷して停止したことが大停電のきっかけだ。一部地域を強制停電させ、最低限の給電を維持することにも失敗。稼働中の他の3火力発電所では総需要をまかなえず、連鎖的に停止していった。
北海道電力の真弓明彦社長は6日午後の会見で「すべての電源が停止するのは極めてレアなケース」と釈明したが、電力供給に詳しい阿部力也・元東京大学大学院特任教授は「今回のような大規模な連鎖停電事故は事例も多く、十分想定できた」と北電発表に疑問を呈する。
阿部元教授は、北電が全発電量の4割を苫東厚真火力発電所に依存してきた理由について「数十万キロワット程度の発電所にしてリスクを分散しておけば全域停電は避けられるが、大きな発電所のほうが電力会社にとってコストが安いからだ」と指摘する。自然災害が多発する中、コストのかかる電源分散を避け、必要な設備投資よりも目先のコスト削減を優先する北電の「安定供給よりカネ」体質が大停電を招いたのだ。
●想定外にあらず
『例えば、北海道電力の最大ユニットが脱落した場合、北海道電力エリア内の周波数が大きく低下。この際、北海道エリアの系統規模を踏まえれば、この脱落に対して、周波数を維持できない』。2013年12月に経産省が開催した「総合資源エネルギー調査会第4回制度設計ワーキンググループ」の資料にこのような記述がある(注1)。地域ごとの電力のアンバランスを調整するため、電力業界に全国ベースで電力の需給調整を義務付ける電気事業法改定が行われた。改正法に基づいて設立された需給調整のための組織「電力広域的運営推進機関」の運営方針を決めるための会議資料だ。国は5年も前に今回の事態を正確に見通していたのだ。
今回の大停電をきっかけに、6年以上停止している泊原発の再稼働を主張する声がインターネットを中心に出されている。ほとんどが電力業界とつながりを持つ低劣な経済評論家や御用ジャーナリストによるもので、危険な原発を「安定電源」などと決めつける無根拠なものだ。
そもそも泊原発が再稼働できないのは、原子力規制委員会が求める再稼働に向けた審査の条件を北電が満たせないからだ。法的基準を満たさない原発すら「電力不足解消」のため動かせというのは北海道民に対する犯罪である。
泊原発が稼働していれば大停電は起きなかったという主張もでたらめだ。原発が動いていれば、北電はその分、火力発電所の発電量を下げるだけ。苫東厚真の発電を完全にやめていれば別だが、そうでない限り大停電という結果は同じだ。
多くの道民が実感しているのは、今度の地震の震源地が火力発電所の真下でよかったということだ。これがもし原発の真下だったらどうなっていただろうか。大飯原発、高浜原発の運転差し止め裁判では、日本の原発が700ガルの揺れしか想定していないことが明らかになっている。しかし、政府の地震調査研究推進本部が行った評価では、今回の胆振東部地震で最も揺れが大きかった安平町の観測点でなんと1796ガルの揺れが観測されていた(注2)。原発が想定している揺れの2.5倍の大きさに当たる。この地震が仮に泊原発の直下で起き、原発が直撃を受ければひとたまりもなく破壊されていたであろう。これでも原発の再稼働を推進する人たちは日本破壊主義者であり殺人犯と呼ばなければならない。
大停電復旧直後から政府がメディアを通じて仕掛けた計画停電キャンペーンもあっけなく「努力要請」に緩和された。現在、北電が石狩湾新港に建設中の新LNG火力発電所1号機(約57万キロワット)は10月中にもメディア向けに試運転を公開できる段階に来ており、来年2月予定の運転開始の前倒しも可能だ。
北海道の電力ピークは1年で最も寒くなる1月の夕方で、約510万キロワットだ。泊原発(約200万キロワット)が稼働しなくても北電の発電能力は400万キロワットもある。石狩湾新発電所1号機を加えれば457万キロワット。苫東厚真を部分的に復旧させつつ、1割程度の節電で十分乗り切れる。地震以降、北海道では市民・企業の節電努力ですでに1割節電を達成している。計画停電も泊原発再稼働もまったく不要だ。
今回の北海道大停電は、国による電力失政と北電の「安定供給よりカネ」経営のツケを道民と道内企業が支払わされた形だ。「電力不足」に乗じたこれ以上の失政付け回しと泊原発再稼働を許さず、政府・北電の責任を追及していきたい。
注1)電力広域的運営推進機関(認可法人)第1回調整力等に関する委員会 資料6-2「現行のマージンの考え方について」(2015年4月30日)で該当部分が引用されている。
注2)地震調査研究推進本部(地震本部)地震調査委員会 2018年9月11日公表「平成30年北海道胆振東部地震の評価」より
(2018年9月25日 「地域と労働運動」第217号掲載)