本誌先月号(215号)掲載の杜海樹さんのコラム「忍び寄るアルコール依存」を興味深く拝読した。以前の本誌記事でも表明したように、筆者は普段、他の方が書いたものに感想を述べることはめったになく、今回も杜さんの記事に直接的に感想を述べるものではない。だが、せっかくアルコール依存のことが取り上げられたのを契機に、私自身の体験も踏まえ、今回は雑感的に述べてみたい。
●アルコールを口にせず2年
私はもともと酒を飲むこと自体は好きだが、体質的に酒が強いかどうかと問われると、お世辞にも強いほうだとはいえない。飲むとすぐに眠くなる。職場の飲み会後の2次会で行ったスナックでは、会話もそこそこにカウンターに突っ伏して寝ていることもよくあった。これでも飲み代は他の参加者と割り勘だから、何をしに行ったのか今振り返ってもよくわからない。
酒の上での失敗も数えきれないほど経験した。かつて横浜で勤務していた頃、通勤は京浜東北線で、自宅は終点・大船にあったが、駅に着いても起きられず、電車で何往復もしたあげくに、逆方向の大宮に到着、そのまま電車が終わってしまい、大宮のホテルに泊まってそこから翌朝出勤したこともある。観察眼の鋭い女性の同僚から「あら黒鉄さん、そのネクタイ、昨日と同じですよね」と言われて顔面蒼白になった。
自宅とは全然方向の違う路線の無人駅のホームや、駅のベンチで寝ていたこともある。気がつけば隣の県の駅だったことも2〜3度あった。「気がつきゃホームのベンチでごろ寝/これじゃ身体にいいわきゃないよ」の歌詞で知られるスーダラ節(植木等)の世界そのままの愚行である。電車の中で眠りこけ、起きたら網棚の上に置いていたはずのカバンがなくなっていたこともある。上着のポケットに入れていた財布はしっかり残っており、「なぜ財布でなくカバンなのだろう」と盗んだ人の真意がこのときはわからなかった。そのたびに、次からは同じような失敗を繰り返さないようにしようと思いながら、気がつくと似たことをまたしている。煙草は一切吸わず、ギャンブルも少し試してみたものの、自分には才能がないと悟って20代前半で早々と手を引いた私にとって、酒は数少ない楽しみであり、若いころ(20〜30代当時)は酒が飲めなくなるくらいなら死んだほうがましだとすら思っていた。
そんな私に転機が訪れたのは一昨年6月だった。喉や胸に異常を感じて職場の人間ドックを受けたところ、胃がんの宣告を受けたのである。すでに初期の段階は過ぎており、「胃を全摘出する以外にない」との宣告に一瞬、頭の中が真っ白になった。不幸中の幸いなのは他の場所への転移がなかったことだ。
一昨年の8月、職場も休暇扱いになり、胃を全摘出する手術を受けた。入院は16日間。この間も本誌の連載は休まなかったため、大半の本誌読者にとって、私の胃がん手術は今回初めて知る事実だろう。
主治医からは「無理は禁物だが、口にしたいものがあるのに自分で我慢してしまうのもよくない。自分が食べたいものがあるなら試すのは構わないし、飲めると思うようになったら飲んで試してもらうのも構わない」とのあいまいな指示があっただけで、特段、飲酒を止められているわけではない。実際、手術直後は1日も早くお酒を飲みたくて仕方がなく、何度も飲んでみようかという誘惑にかられた。だが、胃を摘出され消化器官を失ってしまった私が、普通の食事でさえまともに吸収できないのに、刺激が強く、毒性を持つアルコールをすぐに消化・吸収できるとも思えない。それよりもきちんと食べるべきものを食べられるようにすることが先決で、食べるトレーニングをするうちに1カ月、2カ月と時が過ぎていった。
私にとって大きな心境の変化が起きたのは、退院から半年経過した昨年3月だった。あれほど強く持っていた飲みたいという欲求がスーッと消えていくのを感じたのだ。もう一生飲めなくてもいい、アルコールのない人生を楽しもうという大きな心境の変化だった。
入院する前夜「ひょっとするともう二度と飲めなくなるかもしれない」と思い、連れ合いと一緒にビールを1缶だけ口にした。それから今月でちょうど2年になる。かつて、酒が飲めなくなるくらいなら死んだほうがましだとすら思っていた私が、この間、ついに1滴のアルコールも体内に入れないまま経過した。職場や労働組合、市民団体などの付き合い上、必要な飲み会には参加しているが、周りの人が飲んでいるのを見ても、アルコールを口にしたいという欲求はまったく湧いてこない。職場など、必要な範囲には病気を公表しているので無理に飲酒を勧められることもない。もし、10年前の私がタイムマシンで現在を訪れ、今の私の姿を見たら「こんなの自分じゃない!」と驚くだろう。
●飲まなくなって見えてきた新たな光景
アルコールを口にしなくなったことで、今までと違った新たな光景が見えてきたような気がする。今までは自分自身が飲んではすぐに眠っていたため見えなかった飲み会での同僚や仲間の痴態が観察できるようになった。酒が入ることによって周りの人が普段は覆い隠している本来の姿を見られるのは面白い。運転手を頼まれることが多くなり、帰りの車内で普段は口の堅い管理職から思わぬ人事の裏話を聞いたときは、不可解だった人事の謎が解けたような気がした。運転手をした人は飲み代を少し安くしてもらえるなど、経済的な実利もある。
深酒をしすぎて、翌朝、腫れぼったい顔をしながら仕事をしている上司や同僚を見て、人間にとってほどほどに飲むことがいかに難しいかも実感させられる。そういう人たちは実際、飲み会明けの日の午前中は著しく能率が下がり、ほとんど仕事になっていない。これが労働組合のストやサボタージュによる職務能率の低下だったら、政府・メディア・右翼を通じた激しいバッシングにさらされるのに、なぜ酔っ払いによるサボタージュに対してはどこからも誰からもお咎めなしなのだろうという当然の疑問が湧く。
今のところ、酒をやめたことによるメリットはいくらでも思いつくが、デメリットはまったく思いつかない。最大のメリットは1日が長くなったように感じることだ。もともと手術前でも私は自宅ではほとんど飲んでおらず、飲む場所は外での飲み会にほぼ限られていたが、そんな日は帰宅後、入浴もそこそこに早い時間から眠ってしまうことも多く、飲み会があった日の帰宅後の生活時間はないに等しかった。それが、飲まなくなってからは飲み会から帰宅後も明日の仕事のイメージを描いたり、労働組合や市民団体で取り組んでいる署名やインターネットでの情報収集・情報提供などに時間を有効活用したりしている。福島第1原発事故当時、福島県内に住んでいた私たち夫婦には、事故後、原発関係で署名やパブリックコメントへの意見提出、講演などさまざまな依頼が来るし、本誌やレイバーネット等の媒体に寄稿するための原稿執筆、取材、資料整理などやるべきことは山ほどある。私が手術を受けた2016年以降は、JR北海道が10路線13線区を自社単独で維持困難と公表したことによって、さらにJR問題まで加わった。こうした多忙にもかかわらず、これだけの仕事量をこなせているのは何よりも酒を飲まなくなったことで「可処分時間」が大幅に増えたことが大きい。
労働者・市民に時間の余裕ができると、余裕時間を使った思考が生まれる。思考することによって政治や社会への不満を自覚すると、労働者・市民は政権批判を始める。それゆえ権力者にとっては、労働者・市民に酒を飲ませて余裕時間と健康を奪い、思考させないようにすることこそ自分たちの権力基盤を固め、支配を続けるのに好都合ということになる。だからこそ日本では企業や広告会社が結託して酒のCMを浴びせ、労働者・市民に何とか飲ませようとするのだ。
私に付き合う形で連れ合いも酒を控えているうちに以前より弱くなり、夫婦揃って酒をまったく飲まなくなった。酒のために無駄遣いしていた時間が減り、夫婦2人で見てどれだけ余裕時間が生まれたかは検証していないが、世界的に酒の弊害が言われる現在、試算してみる価値があるかもしれない。
●欧米で狭まる「アルコール包囲網」
飲酒のもたらす健康被害についての認識が広まるにつれ、欧米諸国では2017年ごろから飲酒の害に関する論文の発表が増えてきた。2017年4月、英オックスフォード大学が発表した論文では、適量であっても毎日飲酒している人は、まったく飲まない人やほぼ飲まない人に比べ、脳のうち記憶をつかさどる「海馬」が収縮し、記憶力が低下することが示された。従来の見解では、適量の飲酒はまったく飲まないよりもむしろ健康にいいとの学説もあったが、「まったく飲まない」の群の中にドクターストップによる断酒者を含んだまま集計する統計処理上の誤りが指摘されたためだ。ドクターストップによる断酒者を除いて再集計すると、海馬の収縮度は飲酒量に比例していた。少量の飲酒でも心筋梗塞や脳卒中のリスクが上がることもわかった。飲酒が余命を縮めるとの英国の別の論文もある。WHO(世界保健機関)の外部組織、国際がん研究機関(IARC)はアルコールを発がん性物質のグループ1(確実な発がん性を持つ)に分類。グループ1には煙草やアスベストの他、ヒ素やマスタードガスなどの毒ガスが含まれる。
2017年11月には、米国臨床がん学会(ASCO)が「2012年における新規発生のがんの5.5%、がん死亡者の5.8%がアルコールに起因する」との声明を出した。欧米諸国を中心に飲酒に対する包囲網は確実に狭められつつある。このまま行けば、2020年代の欧米諸国は冗談抜きに1920年代の米国のような禁酒法の時代になるかもしれない。
日本でも、厚生労働省の研究班が2008年、飲みすぎによる社会的損失が年間4兆1483億円に上るとの試算を公表した。労働生産性が21%低下するほか、飲酒運転による交通事故まで加えた総額は5〜7兆円と、煙草の社会的損失に匹敵する規模になることが示された。
つい最近も、東京五輪を控え、受動喫煙禁止の範囲をどこまでにするかをめぐって政府与党や東京都までを巻き込む激しい議論があったが、これだけ撲滅が叫ばれながら悲惨な飲酒運転が後を絶たない現状を見ると、そろそろ飲酒にも何らかの社会的規制を考える時期に来ているといえよう。とはいえ、最近も量販店におけるビールの値引販売規制法を作った自民党政権は、酒屋業界が重要な選挙基盤となっていて、多くの議員が酒屋業界からの政治献金を受けるなど、今後もまともな飲酒規制は期待できそうもない。この春以降、世論調査で支持率より不支持率が上回る状態が続いている安倍政権だが、鉄道や農業など国民生活に役立つ産業にはまともに税金を投入せず、保護・育成している産業が酒・煙草・ギャンブル(カジノ)というのでは国民の支持など離れて当然だ。この面からも安倍政権には退場いただかねばならないが、それにはどのような方法があるか、労働者・市民もじっくり考えよう。酒など飲んでいる暇があるなら、その時間で思考すれば今までよりも良いアイデアが浮かぶかもしれない。酒がなければ不安で生きていけないという人は、何か他の目標を立てるといい。私の今の目標は「お酒をやめてできる限り長生きし、日本から原発がなくなる日をこの目で見届けること」である。
そういうわけで皆さん、お酒をやめてみませんか?
(2018年8月19日 「地域と労働運動」第216号掲載)