「原発避難者の現在、そして未来」集会から見えてきたもの
〜運動長期化で見えた国鉄闘争との共通性〜


 2018年5月26日〜27日に北海道立道民活動センター「かでる2.7」(札幌市)で開催された「原発避難者の現在、そして未来」集会(主催:避難の権利を求める全国避難者の会)に参加した。私自身、原発事故による避難者の集会参加は久しぶりのことだ。

 福島原発事故から7年3ヶ月。避難者に関する報道は今や大手メディアからは完全に消え、運動圏のメディアからもめっきり減った。だが報道は消えても避難者の存在が消えてしまったわけではない。運動圏メディアの本誌だからこそ報じる責務もある。今回は、久しぶりに原発避難者の現状の一端を報告したい。

 ●自分の足で汚染地を出て、楽しむ

 集会冒頭では、まず主催者を代表して避難の権利を求める全国避難者の会の宇野朗子(さえこ)共同代表があいさつ。「発災から7年を過ぎ、いつまで騒いでいるのかという心ない声を聞くことも増えてきた。しかしいずれ私たちが、放射能健康被害と闘った先頭集団だったと歴史的評価を受ける日は必ず来ると思っている」と述べ、決意と自信をにじませた。

 福島県伊達市から札幌市への避難者で、雇用促進住宅桜台宿舎避難者自治組織「桜会」元代表の宍戸隆子さんが、次のように述べた。「私は、この団地から1人の自殺者も出さないことを目標にやってきた。結果的に、2名の病死者を出したことは残念だったが、自殺者は出さず目的を果たすことができた。桜会はなくなったがメーリングリストは今も残している。1〜2ヶ月に1度避難者の飲み会も実施し、つながりを維持している。その飲み会の席で、ある避難者の父親が『僕は人生を楽しみたいんだ』と言ったことに衝撃を受けたが、同時に原発事故以来、楽しむことを忘れて生きてきた自分自身に重なって、それ以降吹っ切れた。私自身も含め、これからの避難者に必要なのは楽しみながら生活を組み立て、足場を固めること。そうしないと国・東電に勝つことはできない」。避難者自治組織の代表として、多くの避難者の世話役を務め、相談に乗る活動の中で、十人十色、多種多様な避難者の実態を見てきた宍戸さんが見据える現在と未来だ。

 宍戸さんはまた、「避難先に北海道を選んだことに対して悔いはない。支援者の暖かさ、北海道や札幌市など行政からの支援体制と、行政に対し、何でも言える関係作りなどをしてきた。そういうことをできる関係が北海道にはある」と述べ、各自治体の支援体制の手厚さ/手薄さを見極めながら、できる限り多くの支援を引き出すための行政との関係作りの重要性を訴えた。避難者支援に限らず、生活保護行政など既存の貧困対策とも多くの共通点を持った全国的課題だ。

 2日目の27日は、まずNPO法人「チェルノブイリへのかけはし」代表の野呂美加さんが講演。チェルノブイリ原発事故(1986年)以降、何度も現地に足を運び支援を行ってきた原発事故汚染地支援の第一人者だ。

 「私がまず訴えたいのは、自立して、自分の足で汚染地域を出てほしいということ。汚染地に今も残った人は不安、アルコール依存症、経済不安といった問題に直面している。強制移住させられた人の中には、自分の意思に関係なく強制移住させた政府への恨みを口にする人もいたが、福島では住民が政府による移住をさせてもらえなかったことを私が話したら、強制移住させた政府への恨みが消えたと言われた。チェルノブイリ現地では、男性の平均寿命が50歳代に低下した。もともと社会主義国家だった現地では、資本主義国家のような働き過ぎはない。日本人から見るとびっくりするくらいみんな働いていない。だから平均寿命低下の原因が働き過ぎにあるということは考えられない」と、チェルノブイリ現地の状況を報告。野呂さんによれば、現地では、空間線量は変動するものだから土壌を計測したベクレル値で対策を講じることが決められている。ウクライナの首都キエフが1〜5キュリー(1キュリーは37億ベクレルに相当)という中で、15キュリー以上から甲状腺がんが発症したが、飯舘村は40キュリー以上あるとのことだ。ベラルーシ政府は、事故直後に住民の安全基準を1年間に1ミリシーベルトに決めたが、モスクワの中央政府が5ミリシーベルトに決めようとする動きがあり、その直前、ギリギリの判断だったという。今も心臓に穴が空いている子どもが多く、若者全体の3割しか徴兵に行けないそうだ。「だから私たちが生き残ることこそが希望であり、生きのびる必要がある」との野呂さんの言葉は、チェルノブイリを現地住民以外では誰よりも長く見てきた支援者から私たち日本の市民への警告として、重い迫力をもって迫ってくる。

 避難区域を極力、狭い範囲に限定し、居住制限区域(年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超え50ミリシーベルト以下の区域)さえ避難指示を解除、帰還を促す日本政府の政策がどのような厳しい未来をもたらすか改めて思い知らされた。いうまでもないが、原発労働者でさえ、被ばく線量の年間許容量は50ミリシーベルト、5年間では100ミリシーベルトだ。50ミリシーベルトは、いわば1年間限りで原発労働に従事する人に対し例外的に許容されたもので、5年間継続で原発労働に従事する人は年間20ミリシーベルトが上限であることを意味する。日本政府の避難指示解除政策は、原発労働者の2.5倍の放射線量のところに、妊婦や子どもを含め、できる限り多くの人に帰還を促すものだ。何度でも繰り返さなければならないが、これは日本政府による緩やかなジェノサイド(大量殺人)である。

 ●被ばくの健康影響は明らか

 もう一度1日目に戻る。古くから被ばくによる健康影響を訴えている松崎道幸さん(道北勤医協旭川病院医師)は、人間の健康に影響を与える放射線被ばく線量にいわゆる閾値はないこと、放射線被ばくのない状態では女性に圧倒的に多い(10歳代での比較では5.43倍)はずの甲状腺がんに、福島でもチェルノブイリでも2倍程度の差しかないことを示し、放射線被ばくに典型的に見られる傾向だと指摘する。これは松崎さんの一貫した主張だ。放射線被ばくの健康影響については、医師でない私でさえ、詳細を述べようとするなら著書が数冊書けるほどで、紙幅の限られた本誌で詳述する余裕はなく、参考文献をご覧いただくことをお勧めする。ただ、国(環境省)と福島県にとっては、被ばくと健康被害との因果関係を否定する結論が先にあり、それと整合性をもって説明できない不都合な材料やデータが増えるたびにごまかしや弥縫策を繰り返した挙げ句、それも通用しないとわかると今度は県民健康調査そのものを縮小、打ち切りに誘導しようとする動きを一貫して続けていることだけは、ここではっきり述べておきたい。

 ●「自主」避難者としての誇り

 2日目に行われたグループディスカッションは、参加者を6テーブルに分け、討議の結果を模造紙に書いて発表する形式のものだ。テーマは「避難者/支援者の過去の現在、未来」。すべてのテーブルに必ず避難者が入るよう配置された討議では様々な意見が交わされた。

 避難指示区域とならなかった南相馬市原町区からいったん自主的に避難後、戻ったという女性は、子どもから「飯舘村の自然はいつ元に戻るの?」と聞かれ「300年後くらい」と答えたところ「それって江戸時代に起きた原発事故で汚染された自然が、今ごろやっと元に戻るというのと同じだよね?」と聞かれて絶句したことを話した。子どもの「時間感覚」は案外侮れないものだ。この女性は、追加被ばくをしたくないとの思いがあり、今なお避難を模索しているという。「7年も経ってからの避難は無駄で意味がないんでしょうか」と聞かれたので、私は「身体への影響は被ばく量の累積で決まるので、追加被ばくを防ぐという意味では、避難は今からでも遅すぎるということはない」と答えた。

 宍戸さんからは、「自分の意思ではなく、原発事故によって余儀なくされた避難なので“自主”避難という言葉を使いたくないという意見をよく聞くが、自己決定権、自分が健康に生きるために住む場所を自分の意思で決める権利の行使という意味で、私は誇りを持って“自主”避難の言葉を使っている」という話があった。運動圏のメディアでは、避難指示区域でない地域からの避難者という意味で区域外避難者という言葉が使われることが多いが、いわゆる「自主」避難者の中にはこの言葉を誇りを持って使っている人も多く見受けられる。健康で文化的な生活を営む権利(生存権)や、その前提条件としての居住・移転の自由を保障する憲法に魂を入れていく――そのような闘いの一環として、こうしたポジティブな意味での「自主」避難があるということは、もっと強調されていいように思う。

 今回の集会には関わっていないが、私が出会った別の札幌市への避難者は、「大手メディアは避難者が避難先でうまくいかずに苦しんでいるという報道ばかり。そればかり見せられたら、自分も後に続こうと思っている人たちまで『そんなに苦しいならやめておこう』となってしまう。避難先で成功している避難者の姿を見せることが、ためらっている人たちへの後押しになる」として、避難者の元気な姿を発信することをメインに活動をしている。もちろん、避難生活の中で避難者が陥っている窮状から目を背けてはならないが、それらはいずれも事実全体の一面であり、運動圏のメディアはそれだけをあまりにも強調しすぎていなかっただろうか。避難者ひとつ取ってみても、物事にはさまざまな見方があるのだと教えてくれるエピソードといえよう。

 ●「同窓会」化する集会の中で「敵よりも1日長く」の決意を胸に

 私自身が久しぶりに参加した避難者集会ということもあり、ある程度前から出てきていた傾向なのか、今回になって急にその傾向が出たのかはわからないが、みずから福祉施設を立ち上げた中手聖一さんや、介護の資格を取得してそこで働きながら避難者の世話役を務める宍戸さんから「楽しみながら生活を組み立て、足場を固めること」が重要だという発言が出てきたことは、自主避難者が、ある程度闘いの長期化を見据えた上で「次」を考える段階に入ってきたことを印象づけた。

 避難者同士がつながりを失うことなく、自分自身や仲間のために仕事作りをし、生活基盤を固めるために助け合っていく姿が、私にとってかつて四半世紀にわたる長い争議を闘い抜いたJR不採用問題での被解雇者たちと重なった。被解雇者で組織された国労闘争団も、「協同倶楽部」などの事業体を通じた自活体制を好きこのんで作ったのではなく、国や自治体などの行政、そして最後は国労本部からも見捨てられ、闘争が長期化していく中でやむを得ない選択だったという側面を見逃すことはできない。しかし、この自活体制の構築こそが「敵よりも1日長く」を合言葉に国鉄闘争を勝利に導いたことも事実である。国から見捨てられ、まったく支援がないどころか徹底的な妨害が入るという意味において、国労闘争団と似たような困難な状況に置かれている自主避難者の中で、いち早く自活体制作りに成功した人から、苦しんでいる仲間を助け、支える動きが出て、それが継続していることは、今後、長期戦突入が確実視される中で自主避難者が「敵よりも1日長く」闘うために重要だと感じた。「自分たちも笑っていい。楽しんでいいんだ」という宍戸さんの発言は、かつて国労闘争団の中野勇人さんが発した「道険笑歩」(道は険しくとも、笑いながら歩く)とまったく同じである。国鉄闘争を支援者として経験した私から見ると、今は何よりもこの火を消さないことが重要だと感じられた。

 同時に、避難者が集う場に断続的に顔を出すことで、次第に集会が「同窓会」としての性格を帯びていく様子も見えてきた。自主避難者が避難先で新生活の基盤を固めていけばいくほど、新しい人生に向け巣立った人それぞれが歩く道は別れていく。やがて「あのときに福島県民であったこと」以外に避難者同士を結びつけるものはなくなり、定期的に集まっては、それぞれが交わることのなくなった人生の近況を肴に交流し合う。その陰で、生活基盤固めに失敗した避難者たちは「同窓会」にも出席できないまま、ひっそりと姿を消し、あるいは避難をやめて帰還していく……。それはまさに「同じ校舎で学んだ」こと以外に接点のなくなった元仲間たちが、お互いの記憶が消えてしまわないために定期的に合う同窓会のようなものである。同窓会に参加できるのが同級生の中で成功者であるのと同じように、避難者集会も次第に生活基盤を固めることに成功した人の集う場所に変化しつつあるように思える。しかし、避難者集会への出席もできないような人たちこそ、本当の支援を必要としているのだ。

 今日と同じように明日が来ると信じていたら、突然の原発事故で明日を断ち切られ、「福島という名の学校」を準備不足のまま巣立っていかなければならなかった自主避難者という名の「卒業生」たち。『卒業しても友達ね/それは嘘ではないけれど/でも過ぎる時間に流されて/逢えないことも知っている』。1985年のヒット曲『卒業』(斉藤由貴)にこんな一節がある。仲間だったはずなのに、進む道は大きく離れ、どんなに人生の軌跡を再び交わらせたいと思っても、その夢が叶えられることはない。それならば、せめて私たちが「あの日までの毎日」を過ごし、共に生きた場所のことを肴にしながら、緩くつながり、助け合っていくための場を失わないようにしよう……避難者集会は今後ますます「福島学校」卒業生の同窓会という性格を強めていくだろう。

 一方で、この集会に参加した人たちからは、このつながりを大切に守らなければならないという意識も感じた。原発事故がなければ決して出会うこともなかった人たちは、お互いにとって今、かけがえのない仲間である。原発事故に怒りを抱き、国や東電に対して賠償や責任追及などそれぞれのやり方で闘う人たちが、不幸をきっかけに出会った人たちを助け、支え合っている。「日本って不思議な社会なんだよね。解雇されてどん底に落ちても、なぜか必ず助けてくれる人が現れるんだ」。これも国労闘争団からかつて聞いた言葉だ。権力者が平然と弱者をあざ笑い、踏みつけ、いじめ抜いても、日本の市民社会にはなぜか必ず困難な状況に陥っている人を助ける人がいる。この市民社会の支えと自活体制構築の力で、国労闘争団は四半世紀闘い抜き、それなりの解決水準を国からもぎ取った。自主避難者たちも同じように、小さくても火を絶やさず「敵よりも1日長く、しなやかに、したたかに」闘い続ける決意を胸に、避難という決断に誇りを持って楽しみながらこの先の人生を歩いていくことだろう。やがて「あいつらをどうしたら屈服させられるのかわからない」と敵が思い始めるとき、夜明けがやってくる。朝が訪れたら、暖かい朝日を思いっきり浴びよう。放射能が含まれていない安全な避難先で、思い切り深呼吸をして、そのときこそ本当の勝利を祝おう。

(2018年6月25日 「地域と労働運動」第214号掲載)

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