「折れたレール〜イギリス国鉄民営化の失敗」の鉄道ファン的感想


2003.3.23(日)


1月初旬から読み始めた折れたレール〜イギリス国鉄民営化の失敗(クリスチャン・ウルマー著、坂本憲一・監訳、(株)ウェッジ)を読了したので、感想を書いてみようと思う。とはいえこの本、400ページ近くもあるもの凄いボリューム。細かい記述に至るまで重箱の隅つつき的にほじくっていたのでは感想書き終わる前にお迎えが来かねないので(爆)、あくまでも概括的感想にとどめようと思う。でも、鉄道ファンとしての私らしい視点は大切にしたいと思いつつ・・・。
それにしてもまさか読み始めてから読了までに2ヶ月半もかかるとは思わなかったよオイ・・・(^^;;

1.全体のあらすじ
クリスチャン・ウルマー氏のこの著書は間違いなく名著と言っていいと思う。おおざっぱに言ってしまえば「新保守主義本流」のサッチャー女史にすら軽蔑されるような、イギリス流の粗雑な国鉄民営化のやり方をヤリ玉に挙げ、「鉄道がいかに公的資本の投下を必要とするか」「一体的・横断的組織の必要性がいかに高いか」等々をいちいち例を挙げ、延々反証しながら、その最終的な失敗について断じた本である。内容的にはハッキリ言って難しい。鉄道というものに関して予備知識がない人にとっては、途中で投げ出したくなるほどハイレベルな本だろう(私以外にも読破に挑戦している人が何名かいると聞いたがどうなっていることやら(^^;;)。鉄道趣味サイトを仮にも運営しているこの私ですら、一度では分からずに読み返した箇所があるほどの本なのである。
とにかく前置きはこの辺にして本題に入ろう。

2.イギリス鉄道「民営化」はどのように行われたか
この本を読まれた方は、イギリス国鉄民営化のあまりの乱暴さに呆れかえると思う。なんせ軌道などの施設保守、関連事業などをそれぞれの企業に分割した上、列車運行会社も大小さまざまの地域会社に分けてそのほとんどを入札で「売りたたく」という子供のようなやり方なのだ。最終的に国鉄がいくつの会社に分割されたのかについて、ウルマー氏は「100社以上」と述べている。そりゃこんなやり方すればどんな会社だって潰れるに決まってるさ、というお手本のような粗雑さである。
そのうち、本書でウルマー氏が中心に据えているのが、線路の保有・維持を行う会社「レールトラック社」である。この会社は、旧国鉄の事業のうち「下」(インフラ保有)を担う会社としてまず国有のまま国鉄から切り離された後、しばらく経ってから民営化された。レールトラック社は、その民営化に至るプロセスも特異なら、運営もきわめて杜撰だった。財産管理簿すら持たず、自分の会社のどの路線に耐用年数何年のレールが何本敷かれているかも知らず、闇雲にピントはずれの保守整備を行った結果、ついに2000年秋、信じられない事故を起こしてしまう。「ハットフィールド事故」・・・列車が通過した際に老朽化したレールが粉々に砕け、列車が脱線するという漫画のような事故だった。
このハットフィールド事故は、青息吐息だったレールトラック社にとどめの一撃となり、結局、英国政府は同社の財政破綻を宣言、国家管理下に置いてしまった。
ウルマー氏は、レールトラック社の国家管理移行を、イギリス国鉄民営化の失敗の象徴と述べている。

3.イギリス国鉄民営化 その失敗の原因と背景
イギリスの国鉄民営化に関わった全ての人々に、私はまず次の言葉を贈りたいと思う。
「鉄道と言うものはシステムである。車両、線路、軌道、信号などの設備・・・それらが渾然一体となって構成されるひとつの巨大なシステムである。それゆえ、我々が列車を自分の望むように走らせたいと願うなら、そのように造ることが絶対に必要だし、逆に、そのように造りさえすれば我々が心配せずともそのように走ってくれるのが鉄道というものなのである」。これは、新幹線の生みの親として知られる元国鉄技師長、島秀雄が生前に語ったものである。引用は正確ではないが、概略このようなことを島は生前語っていたと思う。鉄道というものを隅々まで知り尽くした最高の技術者の言だけに含蓄に富んでいる。
正直私は、イギリスの国鉄民営化がなぜ失敗したのかについては、この数行の言葉だけでその理由の8割を説明できていると思う。この言葉の持つ意味を正確に理解するなら、渾然一体としたシステムとして成立している鉄道を、文字通り粉々に「粉砕」したイギリスのやり方がいかに愚かなものかお分かりいただけよう。その結果、技術軽視とセクショナリズムが生まれたのである。島のように、鉄道というもののシステム性を、大所高所に立って広い視野で見渡し、必要な助言指導を行うことのできる技術者がひとりでもいれば、あるいは、それを鉄道経営陣に提言できる質の高い言論人・鉄道ファンがひとりでもいれば、こうはならなかったに違いない。
イギリスの鉄道関係者達がいくら鉄道を自分達の望むように走らせたいと願っていても、そうならないような形にシステムを粉砕してしまったのだから、結果として「そのように走る」ことなど決してあり得ないのである。

4.私にとって最もためになった「鉄道経済学の基本原理」
この本について、最初に私は「難しくて何度か読み返した箇所がある」と記した。しかし、読み返して内容を理解してみると、それらはきわめて常識的な事柄であり、私の持っている知識の範囲で十分理解に足るものだった。あっけにとられるような突飛な内容は全くなかったと言っていい。そのなかで、私が唯一うなったのが、第11章の中にあるこのパラグラフ・・・「鉄道経済学の基本原理」である。
鉄道が利益など生みようのないシステムであり、社会的インフラとして整備されるべきものであることは、私も日本の実例を見ながら感覚的に体得してきたと思う。しかし、理論としてはそのことを誰からも教わらなかったし、どんな本からも得られなかった。本書は、そのことを明らかにした初めての書物といえるかもしれない。
ウルマー氏は、このパラグラフの中で、鉄道はシステムに依存して売り上げを確保する産業であり、それゆえにより良いサービス、より多くのサービス、より質の高いサービスを提供しようとするなら必然的に新たな投資を伴うという事実を明らかにする。なぜなら、列車1両に乗せることのできる人数は限られているし、プラットホーム1本に停めることのできる編成両数も限られているからである。もちろん1本の線路の上に走らせることのできる列車本数にも限界がある。この事実は、鉄道が、例えば新しくて良質なサービスのために新たな乗客を獲得しても、その新たな乗客の発生ゆえに新たな投資を必要とし、そのために新たな乗客から獲得した利益が根こそぎ吸い取られてしまうことを意味している。無限に新たな乗客を獲得しても、無限に新規投資が必要であれば、結局全ての利益は消えていく。
いったんこの原理を知ってしまえば、もう何も恐れる必要はない。そう、鉄道はインフラとして、公的管理の下に運営するしかないのである。公的管理といっても、旧国鉄のような国有国営の形態から、特殊法人(営団地下鉄のような形態)、地方公営企業(大都市の地下鉄)、JR「三島会社」(北海道・四国・九州)や第三セクターのような「公的セクターによって所有される株式会社」まで現代では様々な形態があるが、いずれにせよ国家や地方公共団体が何らかの形で投資し運営に関わらざるを得ないのである。そして、納税者である我々国民もこのことをしっかり認識する必要がある。鉄道には「赤字が出ても腹を決め、公的資金を流し込んででも維持する」か「建設そのものをあきらめる」かの二者択一しかあり得ないのだ。
この原理は、鉄道と同じように「インフラ」としてシステムに依存して利益を上げている道路公団などの「公企業」にもまったく同様に当てはまる。システムに依存して利益を得る。得た利益から新たな投資をし、良質なサービスが提供されると利用客が増える。しかし利用客が増え、道路が飽和状態になると新たな投資の必要が生まれる。道路を拡張するために、せっかく得た利益が消えてゆく。都会の道路建設が一段落すると、地方からも道路を求める声が響く。得た利益はますます消えていき、最後には動物しか通らないような道路が「不良資産」として残される。
そんな状態の道路整備会社に、果たして民間のどんな酔狂が投資するというのだろう? かくして投資は止まり、都心部の優良な道路すら整備する金がなくなる。そして、その行き着く先は見えている。「事故」・・・。
小泉内閣が「道路公団民営化」を強行しても、きっとこのシナリオ通りになり、最後は無残な失敗に終わるだろう。ハットフィールドの事故も、ひとことで言えばそうしたシナリオに基づいて起こったのだ。

5.日本とイギリス・・・国情の違い
では、日本でも民営化されたJRの下でイギリスと同じような無残な結果が待っているだろうか? 私はその答えに関しては現在のところ、とりあえず「NO」だと思っている。「YES」という答えを期待していた皆さんには申し訳ないけれど。
日本の「民営化」のやり方がイギリスと異なっている点がいくつかある。「上下分離方式」ではなく地域分割、それも旅客部門を6社分割だけにとどめたこと。島のような「大所高所に立ってシステム全体を見渡せる優秀な技術者」がまだたくさん踏みとどまっていること等々。JR以外の私鉄に目を転じれば、会社は分かれていてもネットワークの必要性への認識がむしろ高まりつつあること。そして、首都圏や関西を中心として相互乗り入れの拡大が、将来の「統合されたシステム」へ道を開く可能性が芽生えていること等である。相互乗り入れに伴って会社ごとにシステムが異なるのでは不便きわまりなく、JRグループのような「共通システム」の導入へ進むかもしれない期待が生まれているのだ(共通カードシステムである「パスネット」や「スルッとKANSAI」などにその兆候が出ている)
日本の国鉄民営化がとりあえず「システムそのものの粉砕」というイギリス流の悪夢を防ぎつつ進められたことは評価して良いと思う。現在のところ、国鉄民営化を巡る問題は、多数の解雇者を生んだことや「三島会社」の危機を深めたことなど一部にとどまっている。
しかし、JRを注意深く観察していると不安の種が全くないわけでもない。JR本州3社(東日本・東海・西日本)は2001年末、政府保有株式がなくなり、「完全民営化」という新たな段階に入ったからである。これは、高い安全水準が要求される鉄道会社に対する政府の統制が効かなくなることを意味する。縛られていた手足を解かれたJR本州3社が、例えば「線路保守を子会社に出す」「信号システム管理を外部委託する」などと言い出したらいったいどうするつもりなのだろう。ハットフィールドの悪夢が日本でも現実のものになる危険はむしろ今後顕在化すると私は見る。
三島会社については、将来も民営化は無理であり、今後相当長い期間「政府持ち株会社」にとどまるだろうが、本州3社についてはしっかり見守っていく必要があると考える。

6.鉄道と「政治」のかかわり
「折れたレール」を読んでいくと、イギリスの鉄道がここまでボロボロになった一因として、政権交代の度に鉄道計画が新たに作成されたり、既存の計画が中止されたりするこの国独特の風土があるように思う。鉄道が保守、労働両党の政争に利用され、そのたびにレールはねじ曲げられ、選挙の度にバラバラに鉄道政策が遂行された結果、全てが統一性を欠く雑然としたシステムとなった。そして、そのことがシステム全体を見渡せる優秀な技術者の不在とも相まって、「この国の鉄道の全体像を知るものが誰もいない」状況を生みだしてしまったのだ。
日本では、戦後早い段階で自民党一党支配体制が確立したため、「政権交代によって敷かれていたレールが剥がされる」ようなバカげたことは起こらなかった。自民党一党体制は、他方では政・官・財の「鉄のトライアングル」を生み出し、その利権構造の固定化は、政治家が自分の選挙区に鉄道を引くことを選挙民に公約したりするような「我田引鉄」の風土を作り出し、そのことが長期的に見ると国鉄財政悪化の遠因となったわけであるから、イギリスのことをとやかく言える水準ではないだろう。しかし、ともかくも日本の一党支配体制がイギリスのように「政権交代によって鉄道のシステム統一化が阻まれる」ような事態を防ぎ、結果的に安全で統一的な鉄道を作り上げることに寄与したという意味で、国民にとってはありがたい誤算だったといえるかもしれない。

7.鉄道「後進国」が日本に残した「負の遺産」
最後に、本書の書評とはまるで無関係だが、イギリスという国がいかに「鉄道後進国」であり、それが我が国の鉄道にいかに悪影響を及ぼしたかについて述べておくのも悪くないだろう。
確かに世界で最初に鉄道を生み出したのはイギリスだった。蒸気機関車生みの親、スティーブンソンもイギリスの人である。だが、鉄道は常に改良と技術革新が必要な産業である。その鉄道発祥国は今、改良を怠った結果、韓国や台湾などのアジア新興国にすら後れをとる事態になってしまったのである。
明治維新直後の日本は最初、鉄道導入に伴い主にイギリスの助言を受けた。鉄道の運転時刻を時刻表でなく「ダイヤグラム」という形で準備したのはイギリス人技術者、ページであった。当時の日本人は、方眼紙に一次関数のごとく書き込まれた緻密な列車ダイヤに驚嘆したと伝えられている。
しかし、日本はこのとき、イギリスの助言を受け入れたばかりに大失策をおかすことになる。軌間(レール幅)を国際規格である1435mm(国際規格であるため「標準軌」と呼ばれ、新幹線はこの幅が取り入れられている)ではなく、イギリスの規格に合わせた1067mmに決めてしまったのだ(1067mm軌間は日本の在来線では標準的な規格だが、国際的には標準軌よりも狭いため「狭軌」と呼ばれる)。日本の軌間を狭軌にする決定を下したのは後に鉄道院総裁を務める明治の元老・後藤新平であったが、後藤は後に失敗を悟り「あれは吾輩の一生の不覚であったよ。ガッハッハ」と笑ったと言われる。
しかし、笑って済ませられる問題ではない。その後、日本の在来線鉄道を標準軌に変えようと言う試みが、当の後藤や軍部を中心に何度か計画されたが実現せずに終わった。初めから線路を標準軌で敷いていれば、あるいはその後の改良で標準軌に改められていれば・・・。山形新幹線工事の際に見られたような諸問題・・・「ミニ新幹線建設の度に在来線の改軌工事を実施」「改軌されたミニ新幹線区間は既存の在来線の区間と直通できない」などといったバカげたことは起こらずに済んでいたのだ。本当に悔やまれる。
イギリスの鉄道の水準がその程度であることをまもなく日本の鉄道人は悟ったようで、日本が助言を受ける相手は明治中期になるとプロイセン(ドイツ)に変わる。島秀雄の父であり、同じく鉄道人であった島安次郎も、何度かプロイセンに渡っている。そして、その後の日本の鉄道は渾然一体とし、統一されたシステムとしてめざましい発展を遂げ現在へとつながっていくのである。

・おわりに
ようやく最後まで来た。最後はあらぬ方向に話が行ってしまったが、鉄道というものの特性・・・なかんずく鉄道がいかに資本に依存してメシを食っているか、資本でメシを食う産業にはいかに無限の投資が必要であるか、そして、そうした産業を完全に公的管理の枠外に置くことがいかに無謀であるかが本書からはくっきりと見えてくる。民間セクターで運営するには荷が重すぎるのが、インフラとしての鉄道の本当の姿なのだ。
私は、日本のJR「本州3社」の行方にはいささか不安を感じているが、完全に国有国営に戻すべきかどうかについてはここでは触れない。それを述べるには、さらに論文として一稿上梓する必要がありそうだからである。
繰り返すが、読了するのが容易でない本なのは確かだと思う。でも投げずに頑張って読了して欲しいと思う。そうすれば「地方でできることは地方に、民間でできることは民間に」などと言っている「どこぞの国の総理大臣」の言葉が全くのたわ言に過ぎないことが一目瞭然となり、頭もすっきりするだろう。

結論:「なんでも民営化礼賛」の風潮に痛撃を与える価値ある一冊である。

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