「脱・便利さ」
2006年秋、1週間の日程でハンガリー・オーストリア・チェコの中欧3カ国を歴訪する機会があった。ハン ガリーとチェコは旧共産圏だったこともあって東欧とのイメージが強いが、歴史的には中欧であり、社会主義体制崩壊後は東欧と呼ばれることを嫌っているとい われる。
その旧共産圏2カ国に私は強い印象を受けた。歴史的な建造物が多く残されており、人々の歩く速度はゆったり している。朝の訪れとともに仕事を始め、日が暮れるころ、路面電車が帰宅途中の多くの労働者を吐き出す。だからといってこれらの国の労働者が仕事をしてい ないわけではなく、チェコでは午後4時に仕事を終えるため始業時間が8時になっている。そして、4時に仕事を終えたチェコの労働者はビアホールに行き、 ビールを片手に語らい合う。商店の多くは夜7時頃には店を閉める。コンビニなんてこれらの国にはないから、うっかり買い物を忘れたら翌日になってしまう が、彼らがそれを不便だと思っている様子はなかった。
真夜中でも不夜城のようにコンビニに明かりが 灯り、希望を失った若者たちがたむろする店内で、昼夜逆転した労働者たちが酷使される姿ばかり見てきた私には、その風景が新鮮だった。ハンガリーやチェコ の人たちのほうが人間らしく生きており、日本人のほうが間違っているのだと確信するのに時間はかからなかった。
便利なことはいいことではないか。そう思われ る方も大勢いるだろうと思う。だが、社会の姿は国民性の反映であり、全てを押し流してしまうような便利さの洪水を生み出してきたのは私たち日本人である。 深呼吸してもう一度考えてほしい。昼夜逆転の労働を強いられるコンビニ店員の犠牲があって、深夜でも買い物のできる社会は初めて成り立つ。社会が便利にな れば誰かがその影で犠牲を強いられる。便利な社会とはすなわち多くの人を犠牲にして成り立つ社会ということでもある。
2005年、JR福知山線で事故があり、 107人もの乗客や乗務員が亡くなった。事故を起こした鉄道会社は、1分でも1秒でも列車を速くしようとし、今までより遅く家を出ても今までと同じ会議に 間に合うとアピールした。乗客も乗客で、速くなることが当たり前と考え、どんどんスピードアップを要求した。会議に遅刻したって命まで取られるわけでもな いのに、そのたった何分何秒を捻出するために鉄道会社は速度を上げ、そして107名の最も大切な命を奪い去ったのである。
便利さを追求すればするほど、人間は便利さの
奴隷となり、思考停止という牢獄に閉じこめられる。夜中に買い物ができなくたっていいではないか。携帯電話の画面ばかり見つめる暇があったら家族や友人、
隣人とコミュニケーションを取ってみるといい。今の日本を覆っている言い知れない社会不安からもきっと解放されるに違いない。