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リーズ「2010年代を展望する」〜その3・メディアの「主役交代」が始まった
新しい年、2011年が始まった。この号が読者諸氏のお手元に届く頃には、1月も終わりを迎えて、おとそ気分などとうの昔に吹き飛んでいることだろう。
過ぎ去りし2010年を振り返るにももういささか遅すぎの時期だが、2010年はマスコミ、メディアを考える上では非常に重要な1年だったと思うので、簡
単に振り返るとともに、メディアという観点から2010年代を展望してみよう。
●テレビが恐れていた最悪の事態
すでにインターネットを中心に何人かの「識者」が指摘しているが、2010年は「メディアの主役交代」を世間がはっきり認識した最初の年だったといえ
る。すでに数年前から、朝の情報番組やバラエティ番組を中心にインターネット発の人気商品や飲食店、有名人が紹介されることが増えていたが、それでも「最
近、ネットで話題の何々(あるいは誰それ)」というフレーズが良い意味で使われることはほとんどなかった。取り上げられる対象もアニメオタクだったり、ゲ
テモノ料理を食べさせる店だったり、秋葉原の歩行者天国でミニスカート姿で脚を広げて下着の撮影をさせた挙げ句、公然わいせつ罪で逮捕されたネットアイド
ルだったりと、どこか見下したような印象を受けることが多かった。あくまでメディアの主役はテレビであり、ネットは格下だということがテレビ局・視聴者、
ネットユーザーの間の「暗黙の合意」だったように思われる。
メディア界を当たり前のように覆い尽くしていたそのようなヒエラルキーを一気に崩壊させる出来事が、2010年中盤から後半にかけて相次いで起こった。
日中関係を揺るがす外交問題にまで発展した尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件ビデオの動画投稿サイトへの流出と、暴露サイト「ウィキリークス」問題である。
これらの問題を通じて浮き彫りになったのは、内部告発や情報暴露がテレビからネットに移るとともに、これまでメディアのヒエラルキーの頂点に位置してい
たテレビがネットの後追いでしか物事を報道できなくなる時代が到来したということである。それはテレビ界にとって、恐れていた最悪の事態にほかならない。
●先ずネットから始めよ
本稿はメディアの「主役交代」を論ずることが目的なので、動画投稿サイト「ユーチューブ」で起きた尖閣ビデオ流出問題や、ウィキリークス問題の詳しい経
過にここでは触れないが、こうした主役交代の背景には、ネットの普及とともにひとりひとりが情報発信の道具を手にしたことが大きい。
ネットが普及する以前も、金に糸目をつけなければ高画質で撮影できるビデオカメラや高音質で録音できる機材を入手することは可能だったが、そうして記録
された立派な告発画像や音声も、結局はテレビ局に持ち込むくらいしか世に問う方法がなかった。最近でも、大阪府警による任意の事情聴取を受けていた男性が
「わしは警察や」「殴るぞコラ」などとヤクザまがいの口調で接する警察官の肉声を隠し撮りし、テレビ局に持ち込んでそれが放送されたという例がある。筆者
もこの「隠し撮り音声」をテレビで聞いたが、「オイコラ警察」などと言われ、一般市民からも警察の評判が悪かった時代を彷彿とさせる前近代的な事情聴取に
唖然とさせられた。
こうした隠し撮り映像や音声も、今後は初めにネットで流され、テレビはそれを後追いで報ずるという流れが確立するだろう。ジャーナリスト田原総一朗さん
は、概ね70年代までが新聞の時代で、80年代以降、テレビの時代になったという。この認識に異論を持つ方は少ないと思われる。いわば、70年代から80
年代がひとつの「メディアチェンジの時代」といえるわけだが、2010年に起きた尖閣ビデオやウィキリークス問題を見ていると、2010年代がテレビから
ネットへの不可逆的メディアチェンジの10年間になることはほぼ間違いない。
●強制全面地デジ化で自分の首を絞めるテレビ
一方のテレビ界は、2011年7月、いよいよ全面地デジ化が控える。地デジ化の欺瞞性については、すでに本稿筆者が「黒鉄好のレイバーコラム・時事寸
評」第6号(レイバーネット)で明らかにしたとおりだが、全面地デジ化以降、2.5%もの人が「テレビを見るのをやめる」と回答している(インターネット
コム株式会社による2007年調査)。このまま総務省が地デジ化を強行すれば、大量の「地デジ難民」が発生することはもはや避けがたい状況だ。
そうなった場合、最も困るのは当のテレビ局だ。2.5%もの国民がテレビを見られなくなれば、これまでCMを出してきたスポンサー企業の中には、「広告
を出すだけのメリットがない」として撤退する動きも出るだろう。そうなれば、広告収入だけで食べてきた民放各局は、直接経営にダメージを受けることにな
る。ゆくゆくは、CS放送(衛星放送の一種)がそうであるように、見たい人は金を払って契約するという有料放送へと移行せざるを得なくなる。やがてすべて
のテレビ放送は有料となるに違いない。
こうしてテレビが有料化に向かっているときに、ネットでは情報の受信も発信も無料でできる。ますます多くの人がネットに流れ、テレビはネットを補完する
情報装置という地位に転落する。テレビ業界は、そうした時代の流れを冷静に見つめることができないまま、自分で自分の首を絞めている。
●2010年代の課題
ネット右翼を中心に、既存マスコミに批判的で彼らを「マスゴミ」呼ばわりしている人たちは「既存マスコミは自分たちに都合のいいことしか報道しない」
「左翼偏向バイアスがかかっている」などと決まり文句のように繰り返す。たしかに、内部告発も既存メディアに握られていた時代は、既存メディアに告発情報
を提供しても握りつぶされ日の目を見ないことも多かった。告発が握りつぶされた場合、告発者は告発をあきらめるか、タブロイド紙やゴシップメディアに駆け
込むか、さもなければ自分でビラや怪文書を作って撒くくらいしか選択肢がなかった。
インターネットがそうした状況に風穴を開けたことは事実だし、そのことは過小評価すべきではないが、根拠もなく外国人やマイノリティを誹謗・中傷する書き
込みがあふれ、「便所の落書き」とさえ言われる匿名掲示板の書き込みが「マスゴミ」とどう違うのかについて、彼らから納得のいく説明が行われたことは一度
もない。むしろ近年は、出てはいけない情報や人間の業とも言える劣情・差別感情がまき散らされることによる弊害のほうがはるかに深刻な状況を迎えている。
彼らからすれば忌まわしい大手「マスゴミ」による情報選別も、社会全体が品位を保つための必要なフィルターとして、ネット時代以前には社会的合意が得られ
ていたのである。それを統制だのなんだのと騒いでいる連中は、市民的自由の本質を理解していないだけである。
「ネット右翼」には、大手メディアによって発信された情報は間違いだらけとして受け入れない一方、個人によって発信される情報は無条件に正しいと信じる
風潮もあり、それが空虚なネット信仰につながっている。個人は常に正しくて組織は常に誤っているという盲信は、組織は常に正しいのだから組織のために「自
己批判」せよと迫るスターリニズム政治党派の盲信と同じように危うい。
結局、こうした問題は、自分の頭で考えているようでいて、その実、全く思考停止している日本国民を象徴する問題として2010年代を支配し続けるであろ
う。これからの10年間に私たちが取り組むべき課題は、テレビかネットかを論じ優劣をつけることではない。ひとりひとりが自分の頭で思考し、民主主義を実
践できる「公民」になることである。テレビかネットを論ずるのは、それからでも遅くはない。
(2011年1月25日 「地域と労働運動」124号掲載)