33回忌の節目迎えた「御巣鷹」 悲劇の地から「安全の聖地」への新たなステージ
1985年8月12日に起きた日航123便ジャンボ機墜落事故から32年となった。麓の川では灯籠流し、「慰霊の園」では上野村主催の慰霊式と、今年も恒例の追悼行事が滞りなく行われた。
32年というのは数字上は節目ではないが、仏教では33回忌の節目に当たる。37回忌、50回忌の法要を行う宗派もあるが、37回忌はともかく50回忌となると、弔う側も「弔われる側」になっている場合がほとんどで、行われている実例を見聞きしたことはない。多くの宗派は33回忌で「弔い上げ」として法要の区切りにすることが多く、仏教の上では大きな節目の年であったと言えよう。
慰霊を伝える記事(2017.8.13付け「北海道新聞」) ※クリックで拡大
実は、筆者は8月11〜12日にかけて都内にいた。せっかく事故当日の12日に都内にいるのだから、御巣鷹の尾根に足を伸ばし、事故当日の追悼の雰囲気がどのようなものか知りたいと思った。真夏とは思えない雨天続きの異例の天気の中を、新幹線で高崎まで行き、高崎駅でレンタカーまで借りて現地入りを目指した。だが、現地を前にして、交通整理に当たっていた警備員(日航職員?)に「遺族の方ですか?」と問われ、違うと正直に答えたところ「遺族以外の方の登山は事故当日はご遠慮いただいております」と言われ、引き返すことになってしまった。
メディア報道を見ると、この事故の直接の犠牲者遺族でない方々、例えばJR福知山線脱線事故の遺族なども慰霊登山をしている。遺族だと「虚偽申告」をして慰霊登山を強行するという方法もあり得た。だが、事故の傷が癒えないまま、今も悲しみを抱いてここに来ている遺族を前にしてそのような行為をするのは気が引けたし、天気もあまりよくなかったため、無理をせず引き返すことにしたが、せめて「慰霊の園」だけでも訪問したいと思った。幸い慰霊の園は出入り自由だったので、お線香をあげてきた。
御巣鷹の尾根慰霊登山の体験記をアップしているブログやサイトはそれなりの数、存在しているが、「事故当日の8月12日は遺族以外は登れない」とはどのブログ・サイトにも書いていなかったから行けると思っていた。筆者の事前調査不足が原因であり、誰を恨むつもりもないが、事故27年の2012年に訪問した際も、尾根の入口まで来ながら、雷鳴が轟き始めたため登山を断念している。3回訪問して無事、尾根に登れたのが1回だけとは、噂には聞いていたが、なかなか厳しい山だ。
そんな「御巣鷹の尾根」だが、記事にあるように、事故から30年以上の時を経て位置づけが大きく変わってきた。高齢化した遺族の中には尾根への登山を断念せざるを得ない人たちが出てきたが、それに代わるように、遺族の子や孫といった若い世代が慰霊登山を引き継ぎながら今日まで来ている。直接の遺族でない方の慰霊登山も(8月12日を避ける形で)増えてきた。この事故を初め、JR福知山線脱線事故など多くの公共交通の事故と向き合ってきた柳田国男さんのコメントが、その変化をうまく言い表している。「大事故も、歳月の中でポジティブな意味を持ち得る。遺族だけでなく、日航や地域住民なども加わり、山を守り育ててきた。それが磁場のように、人を呼び寄せる力を与えたのだろう」。
「悲劇の地」から「安全の聖地」へ――御巣鷹の尾根は、もちろん順風満帆に変化を遂げてきたわけではなく、この間、様々な紆余曲折があった。そのようなポジティブな変化の背景を、美谷島邦子さんの存在を抜きにしては語れないだろう。美谷島さんは、遺族でつくる「8.12連絡会」の事務局長を、創設以来30年以上にわたって一貫して務めてきた。日航に責任を取らせたい、事故の真相を究明したい、二度と同じ事故を起こさせたくないという「筋」を通しながらも、時として苦しむ遺族にも柔軟に向き合い、相談に乗ってきた。8.12連絡会にならってJR福知山線脱線事故遺族が作った「4.25ネットワーク」が事実上、休眠状態になっている中で、公共交通事故の遺族会としては最も古い8.12連絡会が今なお活動を続けているのは、美谷島さんの卓越した能力・見識・人望に負うところが大きい。
『1989年11月22日、日航機事故から4年3ヵ月、検察の下した結論は、全員不起訴でした。事故の責任は、誰ひとり問われませんでした。現実に、何らかの原因で520人は死んでいったにも関わらず、です。法律っていったい、誰のためにあるのだろう。ごく普通の市民の生活や命が守られるためにあるはずなのに。市民の感覚が生きた司法の仕組みが欲しい。今ある法の仕組みの中で、私たち市民に与えられた手段は限られているけれど、できることはすべて取り組もう。そう思いました』
この一文は、筆者も加わっている福島原発告訴団が東京電力を告訴・告発した際に、美谷島さんが福島原発告訴団宛てに寄せてくださったものである。企業犯罪で誰も責任が問われない、この国の巨大な無責任システムへの無念と怒り、そしてそれを社会を変えるエネルギーにしていこうとする美谷島さんの決意が感じられる。私たちも大いに励まされるし、懸命に取り組んできた先達である美谷島さんの決意を私たちも引き継ぎたいと思っている。
美谷島さんがかつて直面し、藤崎光子さんたちがJR福知山線事故で再び直面し、そして筆者が今、福島原発事故で三たび直面している「無責任システム」という名の巨大な壁。しかし、少しずつ世の中が進歩していることも感じる。JR福知山線事故、福島原発事故では美谷島さんたちがかなえられなかった強制起訴を実現した。美谷島さんたち、日航機事故の遺族が望んだ「再発防止」の願いは、何よりも御巣鷹を最後に32年間、1件の航空死亡事故も起きていないことによって事実上かなえられている。「今度あのような大事故を起こしたら、間違いなくうちの会社はなくなります」。JALの経営破たんのあおりで不当解雇された165人の労働者のうち、あるパイロットの被解雇者に話を聞く機会があった。こう話す彼の目は真剣そのものだった。
政府が、ありもしない急減圧をでっち上げ、ウソで塗り固めた事故調査報告書を発表しても、遺族と心ある労働者の真摯な取り組みによって、32年間航空死亡事故ゼロという金字塔が打ち立てられた。市民・遺族・労働者によって下から作られた航空安全文化という、日本社会にとってかけがえのない財産。御巣鷹は今、その財産の象徴としての地位を確立しつつあるのだ。
8月12日、御巣鷹の尾根への登頂は、遺族でないという理由で実現しなかった。だが、事故当日、遺族以外の入山を制限しなければならないほど多くの人々が御巣鷹に関心を寄せているという事実に筆者は満足を覚えた。この「山」に関する限り、安全問題研究会の役割は終わりつつある。残された課題は、事故原因調査のやり直しを国に、165名の被解雇者の職場復帰をJALに、それぞれ求めていくことくらいだろう。御巣鷹の尾根への慰霊登山は、もう遺族の子・孫や安全文化の新たな担い手として登場した若者に任せ、安全問題研究会はしばらく、JRローカル線問題と原発問題に徹してもよいのではないか――今、私にはそんな思いも芽生え始めている。
(2017年9月24日 「地域と労働運動」第204号掲載)