今、「活字」をめぐる状況はどうなっているか〜杜海樹さんのコラムを読んで

 本誌先月号(193号)掲載の杜海樹さんのコラム「活字離れは思考も奪う」(以下「コラム」と略す)を読んだ。筆者は普段、他の方が書いたものに感想を述べることはめったにないが、杜さんが指摘した憂慮すべき状況について、「物書き」として何かを述べずにいられなくなった。そこで今回、「活字」をめぐる最近の状況にまで話題を広げた上で、私の思うところを述べてみたい。

 ●「何が重要でないか」を見極めよ

 杜さんは、コラムの中で、400字という条件で依頼した相手から、2000字〜3000字の原稿が送られてきた上、字数を削ることもできないというケースが珍しくないと告白している。プロの物書きでない、一般の労働組合員に多くを望むことはできないという事情は私にもじゅうぶん理解できるものの、制限字数の5倍以上というのでは、さすがに依頼した側も手の打ちようがないだろう。

 こうした事態に陥る人の特徴について、杜さんは「何が要点なのかが全く掴めていない」ことが原因と指摘している。同感だ。私は、そうした人には大きく分けて2つの能力が決定的に不足していると考える。ひとつは「相手が自分(の原稿)に何を求めているか」を理解する能力、もうひとつは「何が重要かではなく、何が重要でないか」を見極める能力である。特に後者は簡単なようで意外に難しく、字数制限の厳しい媒体の場合、私もこれで苦労することがある。

 そこで、今回は、私が本誌向けを含む原稿を執筆する場合に、どのようにしているかをご紹介する。なお、このやり方は私の「我流」であり、読者諸氏の役に立つかどうかわからないことは初めにお断りしておきたい。

 ●文章の効果的な書き方

 各運動現場で、各種メディア・媒体からの原稿依頼がうまくこなせず、苦労している人を見かけることも珍しくないが、そうした人がたいてい陥っているのが、いきなり本文を書き始め、収拾がつかなくなるケースである。昔のテレビドラマなどで、書き損じの原稿を丸めてゴミ箱に捨てながら、作家が頭をかくシーンを時折見かけるが、こんな非効率なやり方をしていては、執筆時間はいくらあっても足りない。

 私の場合、テーマが決まったら、それに沿ってこれだけは書きたいという項目を、箇条書きで列挙してみるという作業を、本文執筆に入る前にすることが多い。この作業によって、文章全体の構成を決めることができる。字数制限がある場合、本当に全項目が執筆可能か、無理な場合は何項目まで書けそうかも見えてくる。

 この作業が終わると、「何が重要でないか」を見極め、各項目の優先順位を決めた上で、字数制限に収まる見通しが立つまで、優先順位の低い順に項目を削る。互いに関連する項目を連続させ、他との関連が薄い項目は最初か最後に回すという作業を通じて文章全体の構成を決める。ここまで終わった後、初めて本文の執筆に入るが、この作業のおかげで、字数制限を大幅に超過することはまずない。

 さらに、私の場合は、箇条書きで列挙した内容をそのまま中見出しとして使う場合が多い。中見出しを考える手間も省ける便利な方法だ。気に入った方はお試しいただきたい。

 余談だが、英語圏、特に米国の新聞では、編集部が記者の書いた原稿を編集する場合、最後から順に削っていくということが、あらかじめ合意されている場合が多い。記者もそれを心得ており、結論または最も重要なことから書き始めるという習慣が確立している。そのため、「なぜ俺の一番書きたかったことを勝手に削るんだ!」という揉め事が、編集部と記者との間で起こることはほとんどない。

 逆に、そうした合意のない日本では、編集部が記者と打ち合わせしないまま、勝手に編集作業をするとこのようなトラブルが起きることがある。こうしたことをルール化すれば、日本でももっと効率のよい編集作業が可能になると思われるが、「主語を故意に曖昧にし、空気や行間を読ませる」「忖度する」文化が根強い日本で、米国のように「まず結論から言い切る」執筆手法が根付くかどうかは私にも確信が持てない。率直に言えばかなり難しいのではないか。

 ●「話し言葉」と「書き言葉」

 英語と日本語との重要な違いを、さらにもう一点指摘する。英語ではいわゆる「話し言葉」と「書き言葉」との間にほとんど違いがないのに対し、日本語ではその両者に大きな乖離があるという点だ。主語を省略することがほとんどなく、主語と述語、目的語がきちんと対応している英語では、スピーチ用の原稿をそのまま新聞に転載したとしても何ら問題なく読むことができる。

 これに対し、日本語は主語が省略されることが多いことに加え、主語と述語、目的語がきちんと対応していない場合もあり、前後の文脈を含めて正確な文意を読み取る必要がある。

 運動現場で最も困るのは、なんといっても講演やスピーチの類だろう。書き言葉と話し言葉が同じでないため、特に口下手な講師・スピーカーの場合、聴衆に配布するレジュメと、自分用のスピーチ原稿を2種類用意しなければならないことも少なくない。

 講演終了後、内容を報道するメディアの記者や、文字起こしをする主催団体の人にとってもこの問題は大きい。講師のくだけた話し言葉をそのまま文字にしたのでは軽い印象を与える一方、良かれと思って書き言葉に直した場合、後で「自分の主張したかったニュアンスと違う」などと言われてトラブルになることもある。

 結果として、記事の中では書き言葉に直した講演内容の要約のみを紹介し、講演の全文は「○○氏の講演内容(全文)」などと見出しを付け、話し言葉のまま別に掲載しなければならないという事態が生じている。

 明治時代中期、書き言葉と話し言葉を一致させようとする「言文一致」運動が起きた。文語体から口語体へ移行した最初の小説が「たけくらべ」(樋口一葉)だというのが文学界の定説になっているが、このときの言文一致運動も、文語体で書かれていた「地の文」(セリフ以外の文章)を口語体に直すところまでが精いっぱいで、話し言葉と書き言葉との乖離を埋めるところにまで至らなかった。世界でおそらく日本人だけが直面しているであろうこの問題に、解決の方法はあるのだろうか。

 ●「打ち言葉」の台頭

 インターネット、とりわけソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の普及に伴って、最近は新たな問題が生まれている。話し言葉と書き言葉の中間に、SNSだけで使われる新たな言葉が生まれつつあるのだ。話し言葉ほどくだけているわけでなく、かといって書き言葉ほど堅苦しいわけでもない、これらの新しい言葉は「打ち言葉」と形容されることもある。「乙」(「お疲れ様」の意味で、ねぎらい、揶揄する場合の両方に使われる)や新年のあいさつの「ことよろ」(「今年もよろしくお願いします」の略)などはその典型であろう。加えて、これらの打ち言葉には、人前で声に出して話すには赤面してしまうような、雑な省略の仕方になっているものが多いという特徴もある。

 こうした言葉が生まれてきたのは、一投稿あたり全角で140字という厳しい字数制限があるツイッターの影響が大きい。この全角140字というのは、私にはかなり微妙な字数制限に見える。相手の言葉尻を捉えて叩くにはじゅうぶんな文字数なのに、叩かれた側がきちんと理解を得るように説明しようと思うと全く文字数が足りないからだ。

 こうした特性を持つツイッターが、結局は「(アベノミクスなどの)キーワード政治」「白黒、敵味方をはっきりさせる対立的でとげとげしい言葉やレッテル貼りの応酬」「気に入らない相手に対する一方的な“叩き逃げ”」といった現在の言論状況を生み出したように思う。

 私は、以前、とある集会で顔見知りの参加者に「140字しか書けないツイッターが不便で仕方がない」と言ったところ、「何言ってるの。川柳なんてたったの17文字よ」と反論され、言葉に詰まったことがある。それを聞いて「中途半端に余計なことが言えるツイッターより、必要なことを言うにも不便な川柳のほうがましだ」と思ったことを覚えている。制限字数が極端に少ないと、必要なことを誤りなく伝えるための詠み手の努力は俳句や川柳のように芸術に昇華するが、必要なことを伝えてなお少し余裕がある程度のツイッターではこのような努力が行われることもないのだろう。

 とはいえ、このような「打ち言葉」が日本語の中で大きな役割を占める時代は過去にもあった。最も速い情報伝達手段が電報だった時代、至急電(俗に言う「ウナ電」)で受験合格を表す「サクラサク」、離れて暮らす親族に危急を告げる「チチキトクスグカエレ」などの文例はその典型だ(ちなみに、私の使用する変換ソフト「ATOK」で至急電、ウナ電が変換できなかったことを考えると、この両方ともすでに死語らしい)。

 至急電とツイッターとの間に違いがあるとすれば、前者が特定の相手に用件を伝える実用的な手段であるのに対し、後者は不特定多数を相手としたコミュニケーション手段であるという点だろう。不特定多数を相手にするだけに、電報のような一律のルール化は難しい面もあるが、逆に言えば、不特定多数を相手にしたコミュニケーション手段であるからこそ、一定のルールが必要ではないかとも思う。日本人は、深刻化する一方の「打ち言葉」問題に、そろそろ真剣に向き合うべき時期に来ている。

 ●養老孟司さんが伝えたかったこと

 やや古いが、「バカの壁」などの著作で有名な作家の養老孟司さんが、週刊「AERA」誌(2013年1月28日号)のコラムで興味深いことを述べている。「読み書きをおろそかにしたくない」と題したコラムは私にとって大変刺激的であり、また「活字派」を元気づけるもので、私は大変好感を持った。

 ここ最近の政治家を見て感じるのは、「しゃべる」ことには長けているが、書くものを読みたいとは思わない、ということ。書くといってもせいぜいツイッターかフェイスブックだろうが、それらは後々読みたい類のものではなく、あくまでも「瞬間芸」。その芸に、世の中がすっかり振り回されている。

 昭和を生きた政治家、とりわけ首相経験者であれば、その日記や回顧録には史料的価値があった。没後、仰々しい箱入りの本が出るのは一つの定番だった。平成以降、そんな本が出る政治家は果たしているだろうか。

 書くことは後世に歴史を残すことにつながるが、弁論はその場を制する手段である。その違いはかなり大きい。

 いま、日本でも書くよりしゃべるほうが優位になってきた。弁が立つことがもてはやされる。しかし、いかにもイデオロギー風の議論にどんな意味があるのか。読んで書くことを大切にしてきた日本語の本当の価値は、100年後か200年後かはわからないが、必ずや評価される日が来ると思う。

 橋下徹・前大阪市長が登場して以来、私がずっと感じていたモヤモヤ、違和感の正体を養老さんが解き明かしてくれたような気がする。橋下前市長に典型的なのだが、最近の政治家は「今、この場で」相手を論破するのは大変うまい。それこそが政治家に最も必要な能力だと言わんばかりの風潮もある。

 だが、こうした政治家には時間軸が欠落している。彼らにあるのは「今、目の前にある瞬間」だけだ。時間軸が欠落しているから、過去は「過ぎ去ってしまったどうでもいいこと」であり、未来は「そんなの知ったことではない」のである。だから、過去の自分の言動と今の言動が不一致であることに罪の意識もなく、その場その場のムードでヒラヒラと言動を翻して恥じないのだ。

 『書くことは後世に歴史を残すこと、弁論はその場を制する手段』というところに、物書きとしての養老さんの矜持、意地を感じる。養老さんはここまではっきりと断言はしていないけれど、「しゃべることは『その場』で勝負することなのに対し、書くことは『歴史的時間軸』の中で勝負することなのだ」と主張したかったに違いない。

 忘れてはならないことがある。録音・録画技術が発達した今、書くよりしゃべるほうが得意な人たちも自分の言葉を記録して後世に伝える手段を得た。しかし、500年後に今のDVDと互換性を持つ再生機が残っているかはわからないし、ICレコーダーの使い方を500年後の人類が理解できるかどうかもわからない。それに対し、紙に文字で自分の言葉を書いておけば、500年後の日本人にも確実に伝わり、彼らに政治的、社会的影響を与えることができるだろう。結局のところ、最もシンプルな手段で自分の言葉を書き残すことができる者が歴史の上では勝利する、と考えることもできる。

 私が、世間的には実にくだらないと思うようなことも、わざわざ紙媒体に文章として記録し続けているのにはこんな理由もある。大切なことは長い歴史を見据えて行動し「最後に勝つ」ことである。それには紙に活字で書くことが最も有効な手段なのだ。

 ●若者の「活字離れ」は本当か〜札幌の「文学フリマ」から見えてきたもの

 「日本人の活字離れ」が言われるようになって久しい。特に「若者の活字離れ」はメディアの定番ネタらしく、周期的に繰り返されているようにも思われる。だが、これらはいずれも「最近の若い者は」という年長者の愚痴に近いもので、周期的に繰り返される割には確たる根拠を欠いている。根拠なく批判される若者の名誉のために書いておくと、むしろ最近は若者の活字離れという俗説に逆行する動きも見られる。

 そのひとつが、今年7月、札幌で開催された「文学フリマ」だ。今年から始まったイベントで、文学作品に限定したフリーマーケットである。各自が、自分の書いた小説・詩などの文学作品を持ち込み売買する。

 このイベントの参加者を各年代別に見て、10〜20歳代が最も多かったことは注目に値する。主催者も年長世代の参加を多く見込んでいたらしく、10〜20歳代が多かったことに驚いたそうだ。私事で申し訳ないが、高校生の姪が最近、夢中になっているのも小説であり、好きな作家は東野圭吾、そしてどういうわけか夏目漱石という。

 日本文化のひとつと言われるアニメに目を向けても、最近はマンガやゲームが原作の作品に加え、小説が原作の作品が増えてきている。とりわけ、学園を舞台に、思春期の若者を主役とする「ライトノベル」の主要作家は20〜30歳代も多く、インターネットの小説専用投稿サイト「小説家になろう」には、毎日、山のように新作が投稿されている。電車の中で文庫本を読んでいる30歳代くらいの人たちも結構見かける。

 こうした状況を見ていると、若者の活字離れなんて、誰が誰のどこを見て言っているのかと反論したくなる。全員が全員、そうと決めつけるわけではないが、むしろアニメばかり観て活字離れが最も進んでいるのは、50歳前後のバブル世代ではないか。集会、デモなどの運動現場にこの世代が極端に少ないことと無関係ではないようにも思える。案外、10〜20年後は再び活字の時代になるのではないかと私は楽観的に見ている。

 いずれにせよ、活字をめぐる状況はさまざまで、一概に言えないように思う。物書きという立場上、活字をめぐる動向には人一倍、関心を払っているつもりだが、確実に言えるのは、活字に親しめば親しむほど思考が活性化されるということだ。折しも季節は読書の秋。例年以上に読書に親しむよう、私からもぜひ、お勧めしたい。

(2016年10月1日 「地域と労働運動」第194号掲載)

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